2章
もしかしたら、何か変わるんじゃないだろうか。
ジャンプ台は今、暗い夜空に浮かぶたった一つの月の光をたたえて、 銀色に輝いている。
そこから飛んだら、ほんの一瞬。 一瞬で良い、 何かが変わるなら。
だけど、でも、何も変わらなかったらどうしよう。 いや、それよりも尚、悪くなったらどうしよう。 どうやってまたここまで登って来れば良いんだ。
今、この、進む先に、 ただ延々と灰色のコンクリートで固まった道か、 ジャンプ台しかない道。
どちらへ行くのも、 怖くて仕方が無い。
変わるなら、飛ぶしか無くて、 変わりたくないのならこの先をずっと、 同じように 行けば良い。 二つに一つ。
変わった方が良いのかな、 何か。 新しい景色が見えるはずのジャンプ台を飛んで。 もしかしたら、だけど、 でも。
それでもやっぱり、いや、しかし、 どうすれば。
変わった方が良いのかな、変わった方が良いのかもしれない。 ならばもしかして、 飛ぶしか無いかもしれなくて。
永らく止めていた足を、 一歩踏み出す。 おぼつかない足取りの後ろに、頼りない足跡ができる。
いや、だけど、 だけど、 だけど。
無性に怖くて、 泣きたくなって、 月の光がぼんやりかすむ。 前にあるのはジャンプ台と、その先は真っ黒な、 ありきたりな闇。
駄目だ。怖い。 きっと何も変わらない。とすればまた、がっかりと、 溜め息の転続で、きっと また同じような道だ。
もうやめてしまおうかな。 嫌になってしまう、 歩き続けるのは。 前を向いても、後ろを向いても、この静かなような、 騒がしいようなこの世界は、 私の目にはモノクロにしか映らない。
ただ先の見えないジャンプ台だけが銀色に輝いていて。
私は独りだ。
立ちすくんで、しゃがみ込んで、目の前の二つの道を見る。 歩かなきゃいけないんだ、と思う。 ここからは独りなのに。 もしも、この目がもっと沢山の色を映せたら、 もっと先に進めるのかもしれない。 そのジャンプ台を飛べば、色が見えるかもしれない。 モノクロじゃなくて、セピア色に。 はっきりとじゃなくても、ぼんやりでも、もしかしたら。
だけど、でも、その色を見るのさえ、 怖いような。
「みたいな?」
と私は言う。
「そんな感じの夢を、 この頃よく見る。」
この頃は、外が暑過ぎて図書館の近くのカフェで奴と合流することが増えた。
「当ててやろうか」
と奴は相変わらず上から目線で言う。
「ありきたりだけど、道は人生で、 その分かれ道は転機とか。」
「なるほど、言われてみればそうなんだろうね。」
私は頷く。
「きっと、ジャンプ台は、『何か』を大きく変える事。 コンクリートの道は、それを何も変えない事。」
「だとすると、 『何か』 が変わるのも、変わらないのも怖がってるんだろうな。」
奴の言葉に、 私は口をすぼめる。
「そうだよ、怖い。怖いものは仕方無いでしょ? 今の私にはホラー映画も人生の何かを変える事も怖い。 いつかは変わるのだろうけど。」
「面倒な奴だな。」
「そうかな」
そう言うと、奴はなぜか少し黙る。
「ところで」
と奴は言う。
「お前にとって、その『何か』 とか 『色』 とかって何だろうな、 それは同じなのか」
「さあね。 沢山、 色々あるのかも。 『何か』は 「何か」 だと思うけど、わかんないな。」
私は首をかしげる。 すると奴は呆れたように言う。
「分からないのか」
「分かるような、 分からないような。」
答えてから私は一言付け加えた。
「分かりたくないような。」
だけど、一方で、 なんとなく、ぼんやりと脳裏に掠めた気がした。 それはほんの一部だけれど。
でも、心の中ですら言葉にすれば何かがすぐに変わってしまいそうな気もした。 そして、その心の中に、形にならないそれをぼんやりと目で追うと決まって。 奴の目に辿り着いてしまうのだ。
こうやって、いつも考え過ぎて、私の目の前から色が消えてしまうのだ。
だから、もう、色なんて無くてもいいのに。
だって 変わってしまったら。
『嫌だ』
何かが、 壊れてしまうかもしれない。 二度と壊したくないものが。
『そんなの嫌だ』
手の平に残る、 あの日の携帯電話の感触と、 セミの声と。
「どうかした?」
奴の声に、ふと顔を上げる。 まばたきを一度して
「何でも無い」
と私は答える。気が付くと、 ガラス一枚を隔てたセミの声に、 ここに戻ってくる。
「何でも無いんだけど…..。 だけど、 やっぱり何でも無く無いような」
「どっちだ」
いつものように奴は呆れて笑う。
そして奴は
「そういえば」
と不意に言った。
「やっぱり、 何でも無い。」
「あれ、何で?」
私は目を丸くする。
だけど、奴は答えなかった。
「まぁ、いいや」
奴は呟くように言って、黙って笑った。
きっと、私にとっての 『色』 とは、自分の中にあったはずの、 必要の無い感情だ。 もしかすると、『何か』 を変えて、動かすのに必要な。
そしてそれを、きっと奴はもう、 分かっているかもしれないと思った。




