金糸雀は恋を知る
その日はいつもケチな支配人が珍しく上等な酒をみんなに振る舞っていた。わたしももちろんご相伴に預かる。やや酸味が強いけれど普段飲むような安酒とは口当たりが全く違った。
昔から酒には強いほうなのに、高い酒だからか酔っ払って眠くなってしまったので、わたしは2階のベッドで休むことにした。固くて狭いベッドだけど仮眠には充分で同僚に後で起こして欲しいと頼んだので、安心して深い夢の世界へと落ちていった。
ふと、なんだか足がくすぐったい気がして目を覚ました。薄暗い部屋で誰かがわたしの爪先にキスをしている。間違いなく靴も靴下も履いていたはずなのにおかしい。それにこの店は酒を出すけれど春を売る類の店ではないのだ。だから驚いた。いくら歌手だからといってそういうことは禁止のはずだ。
「あの、やめてくれませんか?」
「あっ、こんばんは、モニカちゃん。今日も可愛いね」
暗闇に目が慣れて来て、良く見ると常連のジュゼッペさんだった。彼はいつも身なりが良くて羽振りが良くて、ついでに顔も良いのでみんなの人気者なのだ。さっきまでわたしの爪先に口付けていたのに全くなかったかのように振る舞うジュゼッペさんにわたしは衝撃を受けた。
「ジュゼッペさん、知っているかもしれませんがここは春を売る店ではありません。わたしから離れてくれませんか? 今なら誰にも言いませんから」
「モニカちゃん、実はずっと君のことが好きで、出来れば僕と付き合って欲しいんだ」
「えっと、お客さんとそういうことは許されていないんです」
「支配人の許可は取っているし、彼はモニカちゃんも乗り気だって言ってたんだけど……」
そんなことは初耳でとても驚いた。今日の大盤振る舞いはそういう意味だったのか。ジュゼッペさんは良いお客さんだけど、恋愛的な意味で見たことはなかったし、そもそもさっきの行為のせいで混乱していてとてもじゃないけどその場で首を縦に振れなかった。恋人なんていたことがないし、ましてやお客さんだ。
サラサラの蜂蜜色の髪に海のような深い青の瞳で上等な服を着たジュゼッペさんは見るからにお金持ちで、優しくて、彼に憧れる女の子も多い。なのに、どうしてわたしなんだろうと考えた後、とりあえず丁寧に断ってお帰り頂いた。
わたしは昼は果物を仕分ける仕事をしていて、夜は店で歌を歌って稼いでいる。残念ながら歌は副業だ。いつかは歌一本で稼いでいきたいけれど、見た目がお世辞にも美人とは言えないためなかなか売れっ子にはなれなかった。
母は父と別れてから春を売る仕事をしていた。そのうちに悪い病気を貰ってわたしが5歳の頃に亡くなった。それからは隣に住んでいたおばさんに引き取られて、彼女の勤めている店の裏で果物を仕分ける仕事をさせて貰っている。根気強く教えてくれる人たちのおかげで今では誰よりも速く果物を仕分けることができるようになった。でも、歌では全然駄目駄目でお小遣い程度しか稼げていなかった。お世話になっているおばさんに楽をさせてあげたいし、出来ればみんなに認めて欲しかった。
店の奥で埃をかぶったマンドリンを見つけた時、これだと思った。有名になればお金持ちになれる。幸せになれると思った。河原で毎日練習をした。マメが出来て潰れて硬くなっての繰り返しだったけど、上手くなると嬉しかった。
そのうちに歌えるならおいでと誘ってもらって今の店で歌い始めた。ケチな支配人なので給料も驚く程少なかったけど、当時のわたしにとって好きなことでお金が稼げるということがとても画期的で嬉しかった。酒臭い男の客に絡まれても、他の歌手に馬鹿にされてもわたしは挫けなかった。一生懸命頑張れば報われるはずだと思っていた。でも、現実はそんなに甘くなかった。
半ば騙し打ちのようにジュゼッペさんと2人きりになって、支配人はそれを了解していたことを知って怒りに震えた。病気で窶れていく母を見ていたから、同じ仕事だけはしたくなかった。なのに、そういう状況になっていたことがとても悔しかった。身体じゃなくて歌で、認めて欲しかった。
次の日、大きな花束を抱えてジュゼッペさんはお店にやって来た。昨日のお詫びだと言われたけれど、こんなに大きな花束を飾れるような花瓶も広さもうちにはない。ジュゼッペさんは段階を間違えたと言ってわたしをデートに誘った。
仕事があるから無理だと言えば1ヶ月分のお給料と同じ額をポンと渡されたのでそれ以上何も言えなくなってしまった。ジュゼッペさんはわたしが思っている以上にお金持ちなのかも知れない。
正直生活に余裕はないので、有り難くもらうことにした。仕分けの仕事は他の人に代わってもらうことになった。おばさんは玉の輿だと喜んでいたけど、そんな風に上手くいくとは思えなかった。
だって、わたしの人生はいつも冴えないし中途半端で運が悪いから、きっと飽きられて捨てられるんじゃないかとか詐欺なんじゃないかと悲観的なことばかり考えてしまうのだ。
2日後にジュゼッペさんと広場で待ち合わせをして出かけることになった。自分ではステージ衣装の次にましな服を着て来たつもりだったけど、まずは洋服店に行こうと言われて連れて来られた店はとても素敵で、いつもなら高くて尻込みするような場所だった。
そこでカラフルな刺繍の入った白いワンピースとそれに合う花の髪飾りを買ってその場で着替えた。その後、売り子のお姉さんがささっと髪を編み込んで髪飾りをつけてくれるといつもよりも顔色が良くて可愛らしく見えた。
「すごく可愛いよ。この店の服がきっと君に似合うと思っていたんだ。予想通りで嬉しいよ。今日はその服を着てデートをしようね」
その店でジュゼッペさんは柔らかい皮でできた編み上げブーツや透明なガラスの付いたイヤリングに黒いつるつるとした生地でできたポシェットも買ってくれた。わたしの給料じゃ買えないようなものばかりで申し訳ないなと思った。
ジュゼッペさんは眠っているわたしの足に無断でキスをするような人だけど、お金持ちだし顔も良いから、こういう風に優しくされると慣れてないわたしは彼のことを好意的に思ってしまう。きっとわたしは、世間一般に見てもチョロいのだろう。
彼の細くて長い指の先には丁寧に整えられた爪がつやつやと光っている。ジュゼッペさんがあんまり男の人って感じがしないのは多分こういうところがとても綺麗だからだ。髭も指毛も生えてないし、髪の毛だってそこら辺を歩いている女の子よりもサラサラで、てっぺんには天使の輪が輝いていた。
ジュゼッペさんが連れて来てくれたカフェは紅茶もケーキも美味しかったし、その見た目も可愛らしくて食べるのが勿体ない位だった。こんなに良くしてもらってもわたしには何も返せるものがない。
お菓子を作ったり刺繍や編み物をしたりという特技もないしお金だってあんまりない。そもそも、わたしが手に入れられるものでジュゼッペさんを満足させられるものなんてひとつもないだろう。
だから、自分の唯一の特技である歌を歌うことにした。お店の隅にあった足踏みオルガンを貸してもらってわたしは知ってる曲を弾いて、歌った。調律がズレてるところは力技で誤魔化して弾いた。まわりのお客さんも拍手してくれたし、ジュゼッペさんはとても嬉しそうだったから多分これが正解なんだと思う。
「いつもはマンドリンだけどオルガンも弾けるんだね。僕はやっぱり君の歌がとても好きだな。今日は本当にありがとう。この後、行きたい場所があるんだけどまだ付き合ってくれるかな?」
「はい。今日は1日お休みなので大丈夫です」
「それじゃあ行こうか。手を繋いでも良いかな?」
「……はい」
今日1日色んなことをして貰ったから手を繋ぐくらいはした方が良いと思ったので、おずおずとジュゼッペさんの方へと手を伸ばした。彼は嬉しそうにわたしの手を握った。少しだけ冷たいその手はわたしの手よりもすべすべしていて気持ちが良かった。
ジュゼッペさんに連れて来られたのはわたしがいつもマンドリンの練習していた河原だった。この場所を彼が知っていたことにわたしは驚いた。
「ジュゼッペさん、わたしがこの場所で練習してること知ってたんですか?」
「うん。実はお店で会うずっと前から君のことを知ってたんだ。偶然聴いて、勇気付けられたんだ。まっすぐ前を見る君はとても素敵だと思っていて。でも、なかなか話しかけられなくてあんなことをしちゃってごめんね。君が乗り気だと聞いて嬉しくて距離感を間違っちゃったみたいで……」
「そうだったんですね。ジュゼッペさん良いお客さんだから不思議だったんです。見た目も良くて、お金持ちで優しくて、そんな人がわたしのことを好きになるなんて信じられなくて。でも、わたしの歌を好きって言ってもらえてとても嬉しいです」
「モニカちゃん、何度でも言うよ。君のことが好きだ。だから、僕と結婚を前提に付き合ってくれませんか?」
「えっと、あと少しだけ考えさせて貰っても良いですか? ジュゼッペさんが嫌いとかそういうのじゃなくて、心の準備とかがまだ出来てなくて」
そう告げるとジュゼッペさんは胸ポケットから何かを取り出してわたしの首にかけた。
「モニカちゃんが承諾してくれるなら薬指に嵌めたかったんだけど、これは僕の気持ちだよ。本当はあの夜渡したかったんだけど……。君の気持ちが決まったら教えてね。もし嫌だったら売っても良いよ。持っているのが嫌なら返してくれても良いからね」
ネックレスの先についた金の指輪には青い綺麗な石が嵌っていて、とても高価そうだった。売っても良いと簡単に言うけれど、こんな上等な指輪をわたしみたいな小娘が質屋に持っていったら盗品だと疑われそうだ。
「今日はありがとう。君と過ごせてとても楽しかった。また、近いうちに会いに行くよ」
ジュゼッペさんはわざわざ家の前まで送ってくれた。繋いだ手も、いつの間にか嫌ではなくなっていた。最初は誤解があったけれど、ジュゼッペさんは結婚相手としては特上だと思う。でも、わたしのような人間とは釣り合わない。首にぶら下がる指輪もどう見たってわたしには不相応だった。
もし、ジュゼッペさんと結婚したら果物の仕分けの仕事や歌の仕事を辞めて、毎日、今日みたいなお姫様扱いをしてもらえるだろう。彼の好意できっと、どろどろに甘やかしてくれると思う。
でも、わたしがジュゼッペさんにあげられるものなんて歌と身体くらいしかない。だから、もし他に彼が夢中になったり、釣り合う相手が出来たら捨てられてしまうんじゃないかと既に不安なのだ。
ジュゼッペさんはわたしの歌に勇気付けられたと言っていた。それはきっと本心だと思う。でも、これからわたし以上に彼を勇気付ける人が出てくるんじゃないかと心配なのだ。人を信じることは難しい。母は人が良くて、信じてばかりいるから父に裏切られて最後はあんな風に死んでいった。だから、ジュゼッペさんのことを信じる事が怖かった。正解がわかっていても必ずそれを選べるわけじゃない。それを誰かに理解してもらうのはとても難しいことなのだ。
それから数日間、とても悩んだ。そもそも男の人と付き合ったこともないからどうすれば良いのかだってわからない。それでも指輪は首から下げたままだった。細い金の鎖と指輪なのになんだかとても重たく感じた。ジュゼッペさんはしばらく仕事で来られないらしい。それを詫びる手紙と花束とお菓子が送られてきた。
今まで深く知ろうとしなかったが店の同僚たちに聞けば彼の話は驚くほどたくさん出てきた。
曰く、とても大きい商会を経営していて貴族からもたくさんの縁談が来るらしい。そして、当然のようにすごくモテる。他にも昔から音楽が好きだけど自分には向かないと諦めていたことや実はとても絵が上手いことなど色んな話を教えてもらった。同僚たちがニヤニヤとしながらわたしの頬を人差し指でつついた。
「あれー? やっぱり好きになっちゃった? そうだよね、あれだけアプローチされたらそうなっちゃうよね」
「良いなー、ジュゼッペさんお金持ちで格好良くて優しくて最高じゃん。わたしだったら愛人でも良いからすぐ付き合っちゃうな」
「ジュゼッペさんモニカの前だといっつも緊張してたもんね。その割にいない時は話聞きたがるし正直バレバレだったよね」
「気付いてないのモニカだけでしょ? 支配人だってすぐに算盤弾いてセッティングした訳だし」
「本当羨ましいよー、みんな一度は夢見るよね、玉の輿」
「モニカ、絶対にこのチャンスを逃しちゃ駄目よ」
わたしが知らないだけでジュゼッペさんの気持ちはみんなにバレバレだったようだ。そして、そういう話を聞くとやっぱり彼からのプロポーズを受けるべきなんだと思った。みんなが憧れる王子様のような人と幸せになれるチャンスなのだから。次にジュゼッペさんに会ったら返事をしようとわたしは心に決めた。
毎日、昼は果物を仕分けて夜は歌を歌った。おばさんにジュゼッペさんからプロポーズされたと告げるととても喜んでくれた。それから、にっこり笑ってから良かったね、玉の輿だねと言った。
昨日の夜、明日ジュゼッペさんが来るから絶対に来いと支配人に言われていた。暫く会っていなかったから緊張するけど前にプレゼントしてくれた服を着ていこうと思った。彼からのプレゼントを身に付けていけばわたしがジュゼッペさんに好意を持っていることもわかるはずだ。
いつもよりも丁寧に化粧をして髪を編み込んでいく。お店のお姉さんみたいに上手くはいかなかったけど、それなりに良い感じにできたと思う。仕上げに髪飾りをつければ鏡の中にいつもより可愛くなったわたしがいた。
「ジュゼッペさん、あなたのプロポーズをお受けします。ううん、ジュゼッペさん、わたしも同じ気持ちです。うーん、ジュゼッペさん、わたしと結婚してください。なんかどれも違うような……。あ、指輪を嵌めてください、なら照れずに言えるかな……?」
首から下げた指輪をつまみ上げる。きらきらと輝く青い石はジュゼッペさんと同じ色で今日もとても綺麗だった。この指輪が薬指に嵌ったらきっと嬉しく思うだろう。不安もあるけど、ジュゼッペさんと一緒に幸せになれたら良いなと思った。ジュゼッペさんがわたしに飽きる日が来ても、それまでにたくさん楽しい思い出を作れば良いし断ったとしてもいつ何があるかなんてわからない。それなら、彼と結婚したほうが今よりも幸せになれるはずだ。
店に着くと入り口の前に豪華な馬車が止まっていた。はっきり言ってかなり場違いだった。ああいう馬車が行く劇場というのは観劇とかそういったものでお酒を飲みながら歌を聴くような人が乗っているようにはとても思えなかった。
そして、わたしがその馬車の前を通り過ぎようとすると中から人が飛び出してきた。真っ直ぐでサラサラの銀髪に紫の瞳のその少女はひと目で高貴な身分だとわかった。
こんなに豪華なドレスを着た人をわたしは演劇以外で初めて見た。貴族なのだろう、ドレスもとても着なれているようで自然だった。視線だけで生まれた時から人を使う側の人間に見えた。
「ねえ、あなたがモニカさん?」
「あっ、はい。そうです。この店にはモニカはわたしだけです」
「ふうん。あのね、あなた平民だしまどろっこしい言い方は伝わらないと思うからはっきり言うけど、ジュゼッペ様と別れて?」
「えっと、それはどういうことでしょうか?」
「言葉の通りよ。わたしがジュゼッペ様と結婚するはずだったのにあなたのせいで予定が狂ったの。彼には爵位と美しい妻が、うちには彼の資産と伝手が手に入ってお互いの為になるはずだったのにまさか断られるなんて驚いたわ。しかも、こんなパッとしない田舎娘なんて趣味が悪い。わたしは愛妾なんて絶対に認めないからとにかくジュゼッペ様と別れて、彼から離れてどこか遠い街に行ってくれる? もちろんお金は払うわ。必要経費だものね。あなたが3年は暮らせるくらいのお金を用意したのよ? ほら、受け取りなさいな」
「あの、そんなこと急に言われましても……」
「ほら、早く受け取って。それからその首から下げてる指輪をわたしに頂戴な。それはジュゼッペ様のお母様の形見なのよ。あなたには不相応だわ」
「……確かにそうかも知れません。わたしには不相応ですよね。でも、ジュゼッペさん本人とお話させて貰えませんか?」
「わからない人ね、ここから消えてって言ってるの。殺されないだけマシと思ってね? お金だってあげるんだから。あなたみたいな平民の田舎娘が短い間だけでも夢を見られて良かったじゃない。ほら、馬車も向こうに呼んであるからこれを持って早く行きなさい」
わたしが何を言っても彼女には届かないようだった。確かにジュゼッペさんはわたしには不相応な相手だけど、こんな風に一方的に言われるとは思わなかった。無理矢理押し付けられたトランクにはお金がたくさん詰まっていて、代わりに引ったくるように指輪を取られてしまった。細くて白い腕のどこにそんな力があるのかと驚いた。華奢な鎖は切れて地面に滑り落ちた。
「ああ、その鎖はあなたにあげる。金で出来ているからきっと高く売れるわ。良かったわね。さあ、お迎えが来たわよ。精々励みなさいね。二度と会わないでしょうけど、一応言っておくわ。さようなら」
道の向こうに停まっていた馬車から明らかにならず者といった風情の男たちが出てきてわたしを拘束すると、馬車の中に放り込まれた。
「お嬢ちゃん、悪いけど出発するぜ。こっちも仕事なんだ。運が悪かったと思って諦めな。金は半分で良いぜ」
「お金、取るんですか?」
「そりゃまあ仕事だからな。でも、全部取ったり殺したり置き去りにしないと約束するから諦めな」
「わたしは、どこに連れて行かれるんですか?」
「南だよ。気候は温暖だからここより暮らしやすいだろう。新生活にはぴったりだ。ほら、腰が痛くなるといけないからこのクッションを後ろに置いておきな。途中の街に着いたら起こすから今は寝てれば良い」
それから数日間かけてたどり着いた街は確かに暖かかった、いや、とても暑かった。約束通り半分のお金を持ってならず者たちはどこかに行ってしまった。
それでもわたしが1年程働かなくて良いくらいのお金は残った。あの少女は無茶苦茶だし横暴だったけど、確かに殺されたりはしなかったしお金もくれた。ジュゼッペ様のことを好きなようだし彼女にとってはハッピーエンドなのだろう。
邪魔者は遠くに消えてお姫様と王子様は結婚しました。2人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ、というフレーズが頭に浮かんだけれど頭を振ってかき消した。
わたしは少女から貰ったお金で宿に泊まりながら色んな場所を旅した。今までずっと同じ場所に居たし生活の為に昼も夜も働いていたから旅をして暮らすということに憧れていたのだ。思わぬ形で夢が叶ってしまったけれど、やっぱりジュゼッペさんのことは心残りだった。あんな形とはいえ受け取ったお金は使ってしまったし指輪も取られてしまった。
ジュゼッペさんがまさかお母さんの形見をわたしに渡してくれたとは思わなかった。売っても良いと言っていたけれどとても大事なものだったのだ。
それくらい彼は本気だったらしい。お金持ちの気まぐれとか遊びだと思って警戒せずにもっと素直に気持ちを伝えておけばまた違ったのかと考える日もあった。
わたしは離れてからやっと自分の気持ちに気付いた。前から好意的に思っていたけれど、あれは確かに初恋だったのだ。デートは一度きりだし、しかもその日にプロポーズされて戸惑った。騙し打ちみたいに2人きりになった夜はとにかく驚いて冷たい態度を取ってしまったけれど、彼はずっと変わらずわたしのことを好きだと言ってくれていたのだ。
千切られてしまった金の鎖はどうにか修理してブレスレットにした。楽器を弾く時には邪魔だから普段は外しているけどわたしはそれを未練がましく持っていた。本当に生活苦になったら売るのかもしれないけれど、今のところ旅の吟遊詩人としてそこそこ稼げるようになって来たのでその必要はなくなっている。
身体が成長して声質が変わったり、お金があることで身なりも綺麗になったからか前よりもお金が稼げるようになった。お金は寂しがりと同僚の子が言っていたけれど、まさにその通りだった。少女から貰ったお金もまだたくさん残っていた。この分なら自分の劇場は無理にしても将来的にはどこかに自分の家を持てるかも知れない。
良いことと悪いことは交互に来るとおばさんは良く言っていた。最近は良いことがあってから悪いことがあった。でも、今は幸せとは言い切れないけれど、不幸でもなかった。
歌いながら旅をする夢も叶ったし、歌だけで生活かできるようになった。これは成功だし、ありがたい事なのだ。だから、細い金の鎖を見て落ち込んでる暇なんてわたしにはない。
吟遊詩人は流行りの歌を覚える必要があるので、いろんな街で色んな流行曲を知った。幸せな恋や切ない恋、身分違いや道ならぬ恋、みんな一様に恋の歌が好きだ。
たまに自分のことを歌っているんじゃないかという曲もあってそういう時は感情が乗って上手に歌えた。ジュゼッペさんは幸せだろうか。まだ、わたしのことを覚えているだろうか? 彼は、幸せに過ごしているだろうか?
あの街には二度と戻らないと約束をしたから、誰にも会えなかったけれど、おばさんには旅先から手紙を出した。返事は受け取れないから一方的にだけど、ちゃんと生きているよという内容で何度か送った。
彼女は今も毎日シャキシャキと果物を仕分けているのだろう。わたしの抜けた穴もきっと誰かが埋めているはずだ。わたしじゃなきゃいけないものなんてこの世にはないのかも知れない。それでも、わたしは自分のために今日も歌を歌う。
王都に近い街に着いた時、近日中に賞金のある音楽コンテストが開催されると聞いてわたしは早速参加の申し込みをした。
マンドリンも好きだけどギターも欲しかったので賞金が貰えるのは丁度良かった。5位までは賞金が出るというのできっとどこかで引っかかるだろうと思っていた。
最近は本当に評判が良くて色んなところに呼ばれて歌っているのだ。王都に近いからか良い楽器も多くて、毎日楽器店を見に行った。
ずっと使ってるマンドリンは相棒だけど、たまには他の楽器に触れたい。試奏をしたら欲しくなったけれど良い品物は高い。
でも、コンテストで入賞すれば買える。こんなに太っ腹なコンテストがあるなんてさすが都会だなとわたしは思った。
会場である広場には屋台も出ていて、たくさんの人たちが見に来ていた。小さい子もお年寄りもみんな笑顔で嬉しくなった。青い空には雲ひとつなくて風船売りの色とりどりの風船が良く映えた。
マンドリンのチューニングをして歌い始める。今日はたくさんの人がいるからみんなが知っていて明るい曲を選んだ。我ながらなかなか上手く楽しく歌えたのできっと入賞するだろう。
5位、4位、3位、2位と名前を呼ばれて賞金を受け取る人たちを見て焦りを覚えた。出来はよかったのにな、いや、優勝かも知れないと握った拳に力が入る。
そして、わたしの名前が呼ばれた。壇上に上がって賞金を受け取った後、主催者に挨拶をして欲しいと言われた。2位までの人にはなかったのに不思議に思ったが、わたしは言われたとおり主催者の人がいる場所へと向かった。
その場所に座っていたのは見知った人で、わたしの初恋の相手だった。蜂蜜色の髪に海のような青い瞳、長いふさふさのまつ毛は相変わらずでやっぱり贔屓目なしに美しい人だった。離れていた時間で美しさに磨きがかかると同時に男らしくなったなと思った。前はどこか中性的だったけれどそれがなくなっていた。
「モニカちゃん、久しぶりだね」
「ジュゼッペさん、お久しぶりです。元気でしたか?」
ジュゼッペさんは嬉しそうに微笑んでいた。それを見て、彼は今、幸せなのだなと思った。
「元気? それを君が聞くの?」
「えっと、あの時は挨拶も出来ずに居なくなってしまってごめんなさい」
「良いよ。それより近くで顔を見せて? ああ、やっと君に会えた」
良く見るとジュゼッペさんの青い瞳は笑っていなかった。彼はわたしの手を取ると金色の指輪を嵌めた。それは、あの時の指輪だった。
「あの、これって」
「優勝おめでとう。副賞は僕のお嫁さんだよ。もう、待たないからね。あんな小金で僕を捨てるなんてね。すごく傷付いたよ。君の気持ちを待っていたけどそんなことしなければ良かった。君を見つけるまでずっとずっと苦しかった。あの時どうして離れたのか、どうして捨てられたのか、どうして君はいなくなったのかってずっと考えてたよ。もう、絶対に離さないからね。君が嫌だと言っても二度と離れないから。ねえ、モニカちゃん、愛してるよ。世界で一番君のことを愛してる。だから、僕から逃げないでね? 今すぐに2人の家に行こうね。たくさん愛して、幸せにしてあげる。君がずっとずっと僕のことを好きでいられるようにしてあげるからね」
「ジュゼッペさん?」
久しぶりに触れた彼の手はやはり少し冷たくて気持ち良かった。その後にベッドの上で触れた手はとても熱かった。そして、あの夜のように爪先にキスをされた。ジュゼッペさんは何度も呪いのように愛してると囁いた。彼の愛は息ができないくらいに重たくて大きかった。
翌日、身体中が痛くて動けなかったけれどジュゼッペさんはとても幸せそうだった。
彼がこんな風になってしまったのはわたしのせいだから、これから先は彼のそばに居ようと思った。毎日、彼のためだけに歌おう。
「モニカちゃん、愛しているよ」
「はい、ジュゼッペさん。わたしも愛しています」
薬指に嵌った指輪は彼の徴で、わたしはもう鳥籠の中の金糸雀になったのだった。
読んでくださってありがとうございます。久しぶりの異世界恋愛です。評価や感想を貰えるとやる気が出ます!