2話 巫女との契約~たった一人の英雄~
「はぁ……はぁ……ごはっ」
……息が苦しい、身体も言うことを聞かない。
もはや痛みを通り越して、感覚がない箇所もある。
(撒いた……のか——?)
——最後に魔獣を振り払ってから、どれぐらい経った?
何とか戦域を離脱し、丘陵に入ったところまでは覚えている。
だがそこからは、樹から樹へ……ただひたすらに、身体を渡してきただけだ。
一度でも倒れ込んだなら、もう立ち上がることは出来そうにない。
(だが……もう少しで日も落ちる、ここをやり過ごせれば——)
茂みの中を掻き分け、俺は道なき道を彷徨った。
——もう、どれくらい歩いただろう。
すっかり暗くなったのに加え、流れ込んだ血で視界も悪い。
頭もぼーっとする……少しでも気を抜けば、目玉が上にひっくり返りそうだ。
(……ここまで、か——)
ズ……ズズッ——。
樹にもたれかかっていた俺の身体が、ゆっくりとずり落ち始める。
「——歴史と——大地が——」
——何か聞こえる。
女性の声……か?
(ついに……迎えが来た、か——)
「天翔け——雷轟——」
(幻聴……じゃない——?)
——地に落ちる寸前で、俺の両膝が踏みとどまる。
そしてそのまま樹々を伝い……ゆっくりと、声のする方に吸い寄せられていく。
俺の意識の外側で、この身体が自立している。
「一面火——絵図——」
(……間違いない、誰か居る——)
一歩……一歩と、両脚が限界を超えていく。
「刹那の風嵐——閃光——」
——ほどなくして、俺は開けた場所に出た。
そしてただただ、眼を疑った。
俺は死にかけているんじゃなく、もう死んでいるのかもしれない。
(これが……女神か——)
俺の眼に映し出されたのは、まるで切り抜かれたような別世界だった。
この暗い夜の闇の中——。
月明りに照らされた、舞い踊る女性。
それは溶けそうなほどに柔らかく、流れるように美しく。
甘く艶やかな歌声が沁み込んで、俺の心臓に手を添える。
瞬きが出来ない。
呼吸を忘れる。
今……ここだけ——、時間の流れが止まっている。
「——誰っ!?」
「……っ——」
——女神がこちらに気づいたことで、俺は我に返った。
(驚かせてしまったか……気持ちよく舞っているところに、悪いことをしたな——)
「すまない、見惚れてしまっていた。もう行く」
すぐに立ち去ろうとした、その瞬間——。
バタッ——。
俺の意思とは裏腹に、天と地が横にずれ込んだ。
——もはや痛みは感じない。
だがどうして……地面の冷たさだけは、ひんやりと伝わってくる。
「ひどい怪我……! ちょっと待って」
ぼやける視界の向こうから、女神がこちらに駆け寄ってくる。
(こんな……呪われた俺でも、天国とやらに行けるのか——?)
——いや、そんなはずはないよな。
〝悪魔は地獄〟だ、相場は決まっている。
グッ——。
女神に抱き起され、俺はうっすらと眼を開ける。
ぼんやりと、俺を覗き込む顔が見える。
エメラルドグリーンの髪が、サラサラと揺れている。
「ア……ル……?」
——数秒、また時間が止まった。
俺は眼を細め、何とか女神に焦点を合わせる。
「その赤髪に紫眼——! アルでしょう!? やっと……やっと見つけたのです!」
——聞き間違いじゃなかった。
遠い昔の話だが、その略称で呼ばれたことはある。
なら故郷の人間……ダメだ、頭が回らない——。
(しかしこの声……何だか心地が良いな——)
——知り合いだとわかって、警戒を解いたんだろうか。
どこかツンとしていた女神の声色が、別人のように変化した。
なんというか……甘ったるい。
今の俺なら、このまま溶かされてしまうかもしれない。
「あーん! ちゃんと生きてたぁ……」
——その涙は、何を意味する?
このまま……身体を預けていいのか?
……いや、ダメだ。
女神の魔力まで吸ってしまえば、今度こそ俺の地獄行きは確定するだろう。
(こんな人生だったんだ……せめて死んだあとぐらい、幸せになったっていいじゃないか——)
「早く……離れた方がいい。俺は君の魔力を……吸ってしまう。止められ……ないんだ——」
——細かく説明する気力は、もう残っていない。
どうか……これで伝わってくれ——。
「——っ! やっぱり……そうなのね」
女神は真剣な表情に変わり、その声色も元に戻った。
(既に異変を感じているのか……? なら、早く離れてくれ——)
「言ったじゃない。それは誰からも忌み嫌われて、独り孤独に生きるしかない禁忌の力……【悪魔の呪い】なんかじゃないって」
女神は零れる涙を拭い、はっきりと言い放った。
そのまま瞳を閉じた彼女は、俺をそっと横に寝かせ……両手を開いてこちらに向けた。
「《精霊治癒術》」
女神の両手から、眩い金光が溢れ出す。
それはほどなくして、俺の身体を包み込んだ。
(……何だ? 暖かい——)
——生まれてこの方、人生一人旅だった。
だからどんなに傷ついたところで、誰かに《治癒術》を施されたことなど無かった……が、これは凄い。
失った全身の感覚が、みるみるうちに戻ってくる。
「それは、先陣を切って一人で戦況を変えることのできる英雄の力……【神の祝福】だって」
そう言って微笑んだ彼女は、俺の頭に手をあてた。
そしてゆっくりと、俺の右の髪をかき流す。
「やっぱり、アルはこれが似合うよ」
嬉しそうな女神の頬に、再度流星が伝う。
その行く末に眼を奪われているうちに、俺を包んでいた光は消えていた。
——ぼやけていた視界は、もうはっきりとしている。
試しに握った拳にも、握力が戻っている。
俺は身体を起こし、女神に向き直る。
(……やはり知らない顔だな。とりあえず、礼を言わなくちゃな——)
「ありがとう、おかげで生き返った。だが大丈夫か? おれの《弱体付与》にアテられているだろう?」
女神は不思議そうな顔で、きょとんとその首を傾げた。
「まだそんなこと言ってるの? それは《強化付与》だって言ったじゃない」
言われた覚えはないが……【神の祝福】とやらのことを言っているのか?
そもそも、その〝元から知り合い〟のような口ぶりは何だ? 一体どこで——。
「——アルカ・キサラギ。アズリア王立軍を叩き出された、天涯孤独の流れ者」
「……!」
(それを知っている……やはり、アズリアの人間か——)
——俺から誰かに話したことは無い、王立軍の関係者か?
そうでないなら、まさに全知全能……全てを見通す、本物の女神だろう。
「もう今日からは、誰かの顔色を窺うような……独りきりで、隠れて生きるような真似しなくっていいのっ」
そんなことまで……だが何故だ?
どれだけ記憶を辿っても、何処にも彼女は存在しない。
「もう一度説明してあげる! そもそも、その力が〝全方位常時発動型〟なのは間違いないけど……《魔力吸収》っていうよりは《無限魔力》よ!」
女神が得意げに立てた人差し指が、俺の顔にグっと迫る。
さっきまでは優しかったのに……急に圧が掛かり始めたな。
「《無限魔力》……?」
「ただ吸収……というか、補充してるんじゃない。あなたの総魔力量は底なしで、使おうが使わまいがずっと上乗せされていく。だから、力っていうより体質。——まぁ、いわゆる〝チート〟ってやつよ!」
確かに……魔力が不足したような覚えはないが、そういうことだったのか?
たいした魔法も使えないし、別に気にしたことも無かったが——。
「だからと言って……俺が誰かと居れば、迷惑がかかることに変わりはない」
「そうね! 私が居なければの話だけどっ」
女神は腕を組み、俺を横目に『ふふん』と笑った。
「……お前が居て、何になるって言うんだ——」
——つい、彼女を睨みつけてしまった。
良くない流れ……だと思った。
第六師団に拾われたあの日のことが、一瞬で脳裏に蘇ってしまった。
右も左もわからぬ俺に、ターニャは優しく近づいた。
(そして結局、俺のこの力を……利用するだけ利用して——)
——そんな俺に返すように、彼女の顔から笑顔が消える。
「……一つだけ言っておくわ。私は〝お前〟じゃない。——アテナ、 【巫女】アテナよ。それともう一つ——」
——やはり、聞いたことのない名だ。
そして……言いたいことは一つじゃなかったのか?
「私と、もう一度契約しなさい」
「もう……一度——?」
「ええ。そうすればこの先、誰の魔力も吸わなくなるわ。それはもう堂々と! 誰かと一緒に居て良いのよ!」
——今日に至るまで、俺にその選択肢は存在しなかった。
街だろうが戦場だろうが、いつも独りを選んできた。
誰にも迷惑をかけないように。
……誰の視線も、感じないように。
「私はあなたを知ってる。ずっとあなたを探してた」
(——探さなきゃ)
「私と行けば……あなたのその、抜け落ちている記憶を取り戻せるかもしれない。もし信用できないなら、私の知る範囲のアルカ・キサラギを全て話す」
(——見つけなきゃ)
「でもその代わり、私にも協力して欲しい。私には……アルが必要なの! アルじゃなきゃダメなの!」
(——出逢わなきゃ)
「俺は……【悪魔の落とし子】で——」
「【神に祝福されし者】よ」
こんな俺にも……生まれた意味があるのか?
「〝史上最悪のお荷物〟で——」
「私の〝たった一人の英雄〟よ!」
——喉が詰まる。
目頭が、熱い。
「生きてて……いいのか——?」
「……っ! 私がっ……あなたにそう思わせる! その〝証〟になる!」
——ほら、どもった。
眼を見ればわか——。
(なぜ君が……また、泣いている——?)
「【光神】ミネルヴァの名において、これより契約を上書きする——」
唐突に詠唱を始めたアテナが、両手を胸の前で絡める。
白い手袋の内側から、金光が淡く漏れ出している。
「光の精霊、嵐の精霊の仲介の元に——、救世のラグナロクの帰結まで。彼の者を我が剣とし、盾とする」
地面に発現した金光の魔法陣から、柔らかい風が吹き上がる。
一つ、二つ、三つ——。
天を目掛けて、もの凄い数の魔法陣が展開されていく。
(この数……普通じゃない! 〝禁術レベル〟なんじゃないのか——!?)
「一つだけ条件があるわ。それはこの契約が終わるまで……この先ずーっと! 〝私と一緒にいる〟ということ。これは問題ないわね、それともう一つ——」
「なっ、また——」
一つじゃ……ねーのかよ——。
「この契約に関する一切を、 〝誰にも口外しない〟こと」
——他人の眼を、ちゃんと見たことなんて無かった。
だが……そんな俺でもわかる、これは本気の眼だ。
アテナの曇りのない金眼が、俺に『拒否権は無い』と言っている。
「——わかった」
「契約成立、ねっ。 【字神託】——、 《英雄契約》」
——全ての音という音が、一瞬にして時空の彼方に消え入った。
だが……魔圧は全く消えていない。
ダテに今まで、魔力を吸ってきたわけじゃない。
こんなに強大な魔力は、今まで感じたことがない。
例え指一本ですら、動かすことも憚られる。
それほどまでに、研ぎ澄まされた静寂——。
(……なっ——!)
瞬間——。
アテナの唇が、俺の唇にそっと重なった。
頭が真っ白になる。
——ほどなくして、アテナがそっと離れた。
止まっていた時間が、ゆっくりと流れだす。
パァァァァァ——。
展開された魔法陣の金光が、眩く溢れ出し……やがて消失した。
「……ふぅー。これでまた、あなたは今日から私の英雄なのです! よろしくね、アルっ」
——まただ。
今にも溶けてしまいそうな、その甘ったるい声。
「……んん? どうしたのです?」
俺を覗き込むように屈んだ巫女が、ひょこっと視界に入り込む。
……その頬は、落ちてきた月明りのせいだろうか——。
ほんの少しだけ、赤らんで見えた。
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