広場の青空市
野営をして2日歩き続け、麦酒まで飲んだというのに、ヘルマンはなかなか寝付けない夜を過ごした。
昨晩の大衆酒場での聴衆の過熱ぶりは、異常だ。仮に今ユストゥスを捕まえたところで、すでに大衆には火が入ってしまっている。一揆は止められないだろう。
せめて武器を収め、平和的な集会にできないものか
思案しているうちに、アンゲラからお呼びがかかった。
「おはようございます男爵。昨夜はよく眠れましたか?」
「ありがとう代官、よい朝だ」
アンゲラの健やかな表情を見ると、事態の深刻さをどこまで把握しているのか、その呑気さがうらめしくなる。階下の食堂には、助役のアルフレートの姿はない。まだ出勤前のようだ。アンゲラとの会話には、おもにハンスが応じた。
「それで、昨夜はどちらまでいらっしゃったんですの?」
「下町の大衆酒場を見てまいりました」
「まあ、そんな危険な場所に」
「代官はご領内に危険な場所があるとお考えで?」
「それは……、いえ、おっしゃるとおりです。認めなければなりませんね。あのあたりは物盗りも増えていて、最近は物騒になってます。……ああ、でもヘルマン様に“危険”だなんて、私ったら差し出がましいことを」
「何が理由なのでしょう」
「やはり折からの不況が原因かと」
「小耳にはさんだのですが、偽札が出回っているとか」
アンゲラは、食事の手を止めて、一度ナプキンで口元をぬぐってから、ハンスのほうを向き直した。
「そのような噂があることは存じております。私どもとしましても由々しきことですので、トラウム商会に大々的に調査をさせたことがあるのですよ。それこそ1日の業務をすべて停止して、すべての両替所も含めて」
「すでにご確認済みでしたか」
「……ですが、そのとき偽札は1枚も確認することができませんでした。ただの1枚も、ですよ。にもかかわらず、あいかわらず市中では偽札の噂が絶えないのです。いったいどういうことなのか、ほとほと困り果てていまして……」
「1枚も……?」
「そうですとも! 私たちは、この州札制度はなんとしても成功させねばなりません。大恩あるルーカス王子の顔に、泥を塗るわけにはいきませんから」
「それは……そうでございましょう」
「こう言ってはなんですが、民のあいだには役場に申告していない隠し畑を持つ者も大勢います。放棄された他人の耕作地を、報告もなしに占有しているのですよ。これは課税逃れです。どこまで彼らの言い分を信じてよいものやら……」
アンゲラはアンゲラで、農民たちに不信感を強めている。
朝食を終えたヘルマンは、自室で情報を整理し始めた。
「昨夜の演説だが、冷静になって考えると、腑に落ちないところがある」
「どこでしょう?」
「第二王子のルーカス殿下、代官アンゲラ、トラウム商会は一蓮托生であろう。トラウム商会が偽札を流通させるとは考えづらい。だが、ユストゥスはトラウム商会を名指しで“姦商”と批判した」
「ごもっともです。アンゲラに腹芸ができるとも思えません。しかし、州札制度を国王陛下に具申したのが第二王子であると、どれだけの庶民が知っているでしょうか」
「それはそうだな」
「それに、商会が第二王子に反した可能性は低いものの……、ゼロと言い切るには早計かと。紙幣の流通を一手に担っているわけですから、探ってみる価値はあります」
「ふむ」
「いずれにせよ、クルト王子は“手はずは整えてある”と殿にお申し付けになったわけですから、アルフレートからの連絡を待つしかありませんね」
「それにしても偽札か。見てみたいものだ」
「そうですね。市に出てみましょうか」
市中心部の広場には朝から定期市が立っていた。肉やチーズなどの食料品を中心に、道具屋や骨董屋、土産物屋など、あらゆる露店がマーケットに出店している。
このうち食料品店は、どこの店先の日陰にも、土製の素焼きの鉢が置かれていた。
赤茶色の鉢は、ひと抱えもあるような大きさだが、それよりひと回り小さな鉢が内部にすっぽりと収まっている。そして、外側と内側の鉢のあいだに隙間なく砂を敷き詰め、そこに水をたっぷりと注ぎ、蓋をする。こうしておけば、水が蒸発する際に内側の熱が奪われ、鉢の内部が冷却される。
気化熱の原理だ。
季節にもよるが、鉢の内部の温度はおよそ8~10℃を維持できる。この二重鉢の構造は、もとは高名な錬金術師が薬剤を保冷するために考案したらしい。
現在では庶民のあいだにも普及し、とくに農家から重宝された。足の早い葉物野菜やベリーなどの果実類は二重鉢の中に入れておけば、鮮度を保てる。傷んだ作物は買い叩かれてしまうので、農家の生活を安定させるには、欠かすことのできない生活必需品となっていた。
ヘルマンとハンスは一日中マーケットを歩き回り、あれこれと品物を見物し、方々の店主に話を聞き、情報収集につとめた。やがてヘルマンは青果店の前で足を止め、二重鉢の蓋を開けてリンゴを取り出し、店主に「いくらかね」と尋ねた。その際にフードを取り、素顔をさらす。
「これはこれは! ヘルマン様ではございませんか!」
「しっ。実はお忍びでな」
青果店の亭主は目を丸くして、周囲をキョロキョロと見まわした。とたんに満面の笑みを浮かべ、きらきらとした眼差しをヘルマンに向ける。
「あっしは15年前の凱旋パレードを見に行ったんでさぁ」
「出迎えてくれたのだな。改めて礼を言うぞ」
「いやぁ、そんな! それにしても、英雄殿がなんだってこんな田舎へ?」
「観光のようなものだ」
貴族や役人との会話は不器用なヘルマンであったが、庶民とのふれあいは慣れたもので、こうした情報収集能力もまた、勇者と全国を旅してまわった際に培われたものであった。こういうとき、ハンスは口をはさむことなく、従者然として脇に控えるよう心掛けている。
「きれいなリンゴだな」
「あっ、お足なんざいただけませんや!」
「そういうわけにもいくまい。銅貨のほうがいいかね?」
「へへっ、心得てらっしゃいますね」
「……実際どうなんだ。だいぶ混じるのかね?」
「そりゃあもう……。少々お待ちになって」
店主は木箱の引き出しを開け、手を突っ込み、州札を鷲掴みにして持ってきた。そして、前掛けのどんぶりから魔石を取り出す。じゃらじゃらと音がしたので、魔石や硬貨が無造作に収められているようだった。ヘルマンは店主から魔石を受け取ると、魔石を通して州札を観察した。
「これは……。光らんな」
「でしょう? ひどいもんです」
市場に0.03%ほど偽金が混入すると貨幣は信用を失い、1%以上になると経済が壊滅的な打撃を受けるとされている。店主の取り出した州札のうち、およそ3割ほどが“光らない”紙幣であった。これは明らかに異常な混入率だ。
「こんなにか」
「同業はみんな同じくらい混じると言ってやした」
ヘルマンはハンスにも見るよう促す。
魔石越しに州札の束を見たハンスは、む、と低くうめいた。
「どうだ店主、光らない札はすべて硬貨と交換せぬか」
「そりゃあ、こちらとしては願ったり叶ったりですが、よろしいんですかい?」
「くれぐれも内密に頼む。お前のところだけ贔屓にするわけだからな」
「へへっ、もちろんでさ」
ハンスが革袋から硬貨を取り出して店主に渡すと、ヘルマンは“証拠物件”を懐に収めた。こうも容易く手に入るものが、なぜアンゲラたちは「1枚も確認できなかった」などと言うのだろうか。