02 真実は闇の中だからこそ恐れ続ける、子爵家の婿養子
「エレノア、今度一緒に流行りの舞台を観にいかないか。いい席が取れそうなんだ」
僕が妻のエレノアにそう告げると、彼女はとても嬉しそうに微笑んだ。
「本当に? 今まで一度も舞台を観る機会がなかったから、すごく嬉しいわ。本当はあの日、熱がでなければ、家族と一緒に舞台を観る予定だったんです……。あ、せっかく誘ってもらったのに暗い話をしてごめんなさい」
舞台を観るのは初めてだという彼女。
子爵家とはいえ、エレノアの家の経営はそれなりに上手くいっていたし、その娘である彼女が今まで舞台を観たことがないなんて普通では考えられない。
そう普通では。
彼女は僕と境遇が似ている。
家族として一緒に暮らしている者たちから、実際には誰にも必要とされていないどころか、存在自体を嫌悪されていた。
だから子犬のような目をして縋り付いてくる彼女の気持ちは痛いほどわかる。同じように家族から虐げられていた僕を頼りにしてくれるのだから、彼女のことを愛おしいと思わないわけがない。
優しくすればするほど、彼女の中で僕の存在は確固たるものになっていく。そのことがわかってからは、とにかく彼女の心が不動のものとなるよう、常に彼女に幸福感を与えることだけ考えて行動していた。
優しい彼女は、会話の流れから意図もせず、亡くなった家族のことを思い出してしまうことがある。
僕以外で彼女の心を揺るがす存在など、腹立たしいだけだ。しかもそれが、エレノアを傷つけてきた子爵家の者となれば、心を痛める必要もない。早くすべて忘れてしまえるように、彼女の心を僕だけでいっぱいにしたい。
僕は結婚という枷で愛しいエレノアを手に入れることができた。それだけで胸が高鳴る。
それに比べれば、僕にとって子爵の爵位などたいした価値もない。
いや、それどころか僕とエレノアとの結婚にとって、これ以上邪魔なものはなかった。
僕の中でエレノアと結婚することは何よりも優先される最重要事項だったが、まさか自分が子爵家の当主になるなんて、これっぽっちも思っていなかった。
しかし、エレノアと婚約が決まってから、伯父についての噂話は耳に入っていたから、いつかこんな日が来るのではないかと危惧をしていたのも事実。
子爵の称号は継承を拒否したくても、それでは伯爵家にとって僕の存在意義がなくなる。
下手をしたら、エレノアの相手を他の誰かに挿げ替えられてしまう可能性もあった。だからなんの力もない僕にはそれを受け入れるしか方法がなかったのだ。
僕の妻のエレノアは、貴族間の争いに巻き込まれた可哀そうな娘だ。かく言う僕もエレノア同様伯爵家の駒のひとつに過ぎなかった。
「エレノアと本当の幸せを掴むことが、僕にできるんだろうか」
僕が伯爵家の養子になる前、実の父は、伯爵家を継いだ実兄を支えるために、領地で代官として働いていた。
冷徹といわれた伯父でも、父のことは信頼しており、とても仲の良い兄弟だったそうだ。
ところが僕の母が二人の前に現れたことで事態は大きく動くことになる。
男爵家の娘であった僕の母はとても美しい容姿をしていた。出会ったその日に伯父はひと目で恋に堕ちたらしい。
しかし、どんなに手を尽くしても、母からは一向に色よい返事をもらえなかったようで、日に日に伯父の雰囲気に険しさが増していったそうだ。
そんな時、ある夜会で伯父は父に母のことを紹介した。その時は、まさか母が父のことを好きになるなんて思いもしなかったんだろう。
紆余曲折の末、伯父が母を諦めて、父と母は結婚することができた。しかし、そのことがきっかけとなり伯父と父の間には深い溝ができてしまったらしい。
伯父もすぐに別の令嬢と結婚をしたから、まさか、いつまでも母に未練を残しているなんて誰も気づかなかったようだ。
僕が両親を失うことになったあの事件が起きるまでは。
父と母は、外出中、暴漢に襲われて命を落とした。父は暴漢にめった刺しにされたようで、その犯行は間違いなく、父を狙ったものであったという。
母はそれに巻き込まれただけで刺されたのは一ヶ所だけだったらしいが、切り付けられた場所が悪かったせいで帰らぬ人となってしまった。
その事件の全容を聞いた時の伯父の嘆き方は尋常ではなかったらしい。
しかし、そのころ、領地の経営方針を巡って父と伯父は、意見の対立がとても激しかった。二人だけの時はかなり物騒な言葉のやり取りもあったようだ。
しかも、代官として普段領地を任せられている父の方が発言力が強まっていたこともあり、伯父は父のことを嫌厭していたという。
だから、悲しむ伯父の姿を目の当たりにした者が、その慟哭は、父のことを思ってではなく母のことだと思ってしまったらしい。
あの事件は力をつけた父が邪魔で厄介払いをするためと、母を手に入れるために、伯父が画策したのではないかと、巷ではとても嫌な噂が立っていた。
確かに、父がいなくなれば、僕たち親子は生きていくすべがない。僕の後ろ盾として二人の面倒をみると言われれば、母が伯父の言いなりになった可能性はあっただろう。
そうは言っても証拠がないからそれはすべて憶測にすぎない。ただ、そのころ伯爵家に仕えてた元従者から、リフリー伯爵がつぶやいたという、決定的な言葉を僕は教えてもらっていた。
『――あれほど言っておいたのに――なぜ、彼女まで』
そうつぶやいた伯父は、まるで、こうなることがわかっていたような雰囲気だったそうだ。
他にも
『邪魔者を排除することに痛む心などない』『兄弟といえども容赦はしない』
『せいぜい背後には気を付けることだな』
そんなやり取りがあったことまで聞いている。
それを教えてくれた従者は、こんな恐ろしい場所にはいられないと、すぐに職を辞してしまったので、今はどこにいるかわからない。
古参の侍従たちは伯父には決して逆らわないから、その当時の話を聞いても口を開く者はいなかった。
一人きりになって行くあてのない僕は、リフリー伯爵家に引き取られることになった。
だけど、伯父の妻、現在の僕の養母は、実母のことを知っていたようで、僕は初めから虫けらのような扱いをされていた。
伯父も妻に遠慮してか、はたまた、僕が好きな人をかすめ取った男との間にできた子どもだからなのか、僕との接触は極力避けていた。僕には優しい言葉をかけてもらった記憶などまったくない。
結局、犯人は捕まらず、伯父が黒幕だという証拠は何ひとつ見つからなかった。
すべては闇の中だ。
ところが、また、伯父に都合のよい状況下で、クリナ子爵家の当主とその跡取りがこの世から姿を消した。こんなことばかり続けば、邪推するなという方が無理だろう。
「おやすみ、エレノア」
「おやすみなさい。コナー様」
いつものように就寝の挨拶を交わして僕たちは別々の部屋へと向かう。この状況がずっと続いているのに、エレノアは不審感を持つこともないようだ。
もしかしたら、彼女は誰にもそういった教育を受けていないのかもしれない。それなら合点がいくし、このままでもエレノアを悲しませることにならないだろう。
こんなに愛しているというのに、なぜ、僕がエレノアと寝室を分けて遠ざけているのか。それは、伯父であるリフリー伯爵を恐れているからだ。
この国は女性が爵位を継承することができない。したがって、娘しかいない貴族家では婿養子をとって爵位は夫が持つことになる。
だから、エレノアの夫である僕が子爵になったわけだが、ここまでお膳立てした伯父は、間接的にしか手を出せないので、まったくうまみがない。
しかも僕とは確執がある。
一時エレノアの周辺に人々が群がり騒がしかった理由は、希少な鉱石を産出する鉱山を狙ってのことだった。きっと伯父もそれに目をつけているはず。
伯父にとって一番都合のいい人物、それは僕とエレノアの子どもではないだろうか。
幼い子爵の後ろ盾……。
三度目の災難を恐れている僕は、エレノアを本当の意味で妻にすることができなかった。