針千水
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おっはよー、つぶらやくん……って、うわ、ものすごく目が真っかねえ。かなり寝不足なんじゃない?
顔も洗ってそれなら、目薬のお世話になった方がいいかもよ? 考えたことある?
――いつ垂れてくるか待ち受ける感覚が怖い?
なーにを子供みたいなことを……と、少し前までのあたしだったら、どついていたと思う。
目薬がね、ときとして非常に凶悪な力を持つケースを、私はおじさんから聞いたのよ。それを聞いたら私も、目薬どころか目に水がかかること自体、ちょっととまどうようになっちゃって。
聞いてみたい? ほんと、つぶらやくんってもの好きなんだから。
おじさんが学生だった時、ちょうど今みたいに朝学活が始まる前の時間でのこと。
友達のひとりが教室に入ってきたとたん、どよめきが起こったわ。
彼は右目に眼帯をしていたの。何があったか尋ねるみんなに、彼は「目薬にやられた」と答えたの。
彼が目薬をよくさしていたのは、教室のみんなも知るところ。事情を聞いてみると、昨晩に目がいやにしょぼしょぼして、いつも使っている目薬に手を伸ばしたの。
ところが、今回は薬の出が悪くって傾けてもなかなか出てこない。液はまだ半分近くケースに残っていて、中身が切れたわけでもない。
戻しては傾けなおしを三回ほどやって、ようやくケースの出口に水玉が浮かんでくる。
ほっとしたのもつかの間、水玉は出口から離れないまま、どんどん大きさを増していったの。ちょうどシャボン玉が膨らんでいく時のように。
彼の目よりも大きくなったんじゃないかと思えた時、ぷつんと水玉は口を離れてまなこに吸い込まれていく。
とたん、彼は激しい痛みに目をおさえてうずくまってしまったわ。普段とは刺激の質が全然違う。涙のように痛みがあふれだして、眼球全体を覆っていくのが分かったわ。
離した手の半分には、べっとりと血がくっついている。鏡で見ると、まなじりにこびりつく紅色のしずくは、まだまだ外へ出そうな勢いだったとか。
眼科に駆け込んで目を診てもらったけれど、傷らしきものは見当たらなかったみたい。ひとまずの応急処置をしていただき、今に至るのだとか。
おじさんをはじめ、多くの人は耳を疑ったわ。でも彼の表情は真剣でウソをついているようには思えなかった。
目をケガする理由にしては、ちょっとイレギュラーじみたもの。ひょっとしたら、本当のことかも、とおじさんは緊張してしまったとか。
帰宅してすぐ、おじさんは廊下に点々と続く血の跡に、目を疑ってしまったわ。
玄関わきのスリッパは、姉と母が外出していることを示している。そういえば姉は、日ごろから頻繁に目薬のお世話になっていた。
もしやと思って姉の部屋の前まで行くと、案の定、このあたりは血の量がわずかに多い。部屋近くで出血したのは間違いなさそうだった。洗面所にも心なしか、まだ湿り気を帯びた赤いものがくっついたまま。
姉と母が帰ってきたのは、30分ほどしてからだったわ。姉の左目には真新しい眼帯が。話を聞いてみると、今朝の友達がしてくれたものとほぼ同じ。点眼しようと思ったらなかなか薬が出てこず、しばらくすると大きなしずくが生まれ落ち、目を傷つけられたと。
立て続けの被害に、おじさんはこれまでにも増して水を警戒するようになったわ。洗顔をゆっくりやるばかりでなく、シャワーをひねることにすら抵抗を覚えたらしいの。
もし、シャワーのヘッドから出てくる水が、目薬と同じような威力を持っていたら、それは完全にマシンガン。たちまちのうちに体中に穴を開けられて、命を落としてしまうかもしれない。
話を信じない両親は平然とお風呂に入り、何事もなく出てきた。それでもおじさんは警戒を緩めず、湯船にもほとんど浸からないで、濡れたタオルで体中を拭くことにとどめたとか。
そんな生活をおくりはじめて数日後。
クラスでは眼帯をつける子以外に、肩や首などにガーゼのたぐいをひっつける子が増えたらしいの。その子たちはいずれも、「水を浴びたところから、とつぜん血が出た」とのたまい、おじさんは自分の仮説の正しさを実感したわ。
――とにかく、引き続き水を扱う時には細心の注意を払わないと。
すでにおじさんは手を洗う時も、いったんハンカチを水で濡らして、石鹸もそれにしみ込ませたうえで行っていたとか。
高低差のある水を受けることは避けないと。そう思ったおじさんだけど、放課後に避けがたい水を浴びる羽目になったわ。
雨。
午後になって急激に湧き出した雨雲は、下校途中のおじさんをとらえたの。
頭にぽつんときて、背筋がのびてしまうおじさん。幸い、この一発は何も問題なかったけど、数を受けたらどうなるか。足を早めるけど、雨脚もそれに合わせて強さを増していく。
まず、おじさんの履いている靴下がやられた。ふくらはぎの側面まで伸びていた、紺色の生地が、かすった雨と共に切り裂かれる。
続いて服。おじさんは頭を守りながら、極力肌を出さないようなかっこうで走っていたけど、袖といわず脇といわず、雨が触れると共に生地の破れる音が続いた。
そしていよいよ、体そのものが狙われる。うなじを皮切りに、痛みが走った箇所だけでなく、その反対側からも血がにじんできたの。
――まじかよ。こいつら、身体を貫いて……!
目薬なんかとは、落ちてくるまでの時間が違う。長く落ちるほど威力は増すだろうけど、ここまでとは思わなかった。
ざあざあぶりになったなら、それこそハチの巣は間違いない。必死に走るおじさんだったけど、妙なことがある。
この時間、他にも帰る生徒がいるはずなのに、彼らはこの雨に騒いでいない。近くに立っている家々も、薄くて頼りない軒などは雨が貫いていてもいいのに、それもなかった。
――俺に降ってくる雨だけが、危ない?
そう感じるや、すぐ足元で獣じみたうなり声が響く。おじさんは下を見やって「あっ」と声を出しちゃったわ。
おじさんの足の前後には、大きな口が開いていたの。
とらばさみって分かる? あれのずっと大きなものが開いていて、今にも閉じようとしていたの。このまま挟まれたら、両足首は確実にちぎられていたと思うくらい。
でもそれはとらばさみじゃなかった。おじさんの進む方向の刃の近くに、横長の二つのまなこがあった。泥のように茶色い肌の上に並び、雨粒を受けて何度もまばたきをしている。
おじさんが立っていたのは、顔だけの何かが開いた、大きな口の真上だったのよ。
雨は変わらずおじさんを貫き、地面に、あいつの顔に容赦なく降り注ぐ。
そのたび、うなり声はどんどん弱くなり、口もどんどん開いていく。やがてあごが外れんばかりに顔が崩れた時、それはぱっと消えてしまったの。
気づくと、雨がもう身体を貫いてはこなくなっている。破れたところはそのままだけど、血はもう完全に止まっていた。
ひょっとしたら水たちは、あの足元の奴をしとめるために、自分の身体を針のように鋭くしていたのかな。おじさんはそう思っているみたい。




