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「………ーーーーーっ!」
「ーーーーーーー…」
「ーーーーーっ、ーーー!」
遠くで何かを言い争う声が聞こえたような気がして、私はうっすらと目を開ける。
「…っ!」
だが、ぐるぐると目が回るような感覚に吐き気を覚えて、慌てて目を閉じた。
じっと息を詰め、目眩が落ち着くのを只管待つ。
何の薬かは分からないが、頭に響く鈍い痛みに、眉間に寄せた皺が深くなるのを感じる。
先程目を開けた時に周りの様子を確認しようとしたが、辺りは漆黒の闇に包まれており、一体今どこにいるのか全く検討がつかないことに焦りが沸き立つ。
幸いなことに、近くに人がいる気配はなく、あのリンゲル国王が側にいないということにホッとする。
しかし、その安心も束の間、先程の言い争う声がどんどん近づいてくるとこに気づいた。
まだ目眩は治まらず、動くことができない我が身を歯痒く思いながら、一先ず相手の動向を探るべく、私はまだ意識が戻っていないふりをすることにした。
「…ーーー、いつまでここに留まらせるつもりだい?
速く国境へ向かう馬車を用意しろと何度も言っているのが分からないのかな?」
「しかし、もう既に皇太子が国境近くへ騎士を派遣し検問を敷いています!今動けば確実に見つかって国境を越えることが難しくなりますよ。
それよりは、騒ぎが少し収まるのを待って、隙をついて国境へ向かう方が懸命かと」
柔らかい口調の中にも、隠しきれない苛立ちを込めたリンゲル王の後に別の声がそう宥めると、リンゲル王は忌々しそうに大きく舌打ちをする。
「こんな日も当たらない秘された地下室にこの王たる僕を押し込めるなど、無礼も甚だしい!」
「…それはあなたがティアリーゼ様を拐うことを急いたせいでは…っ!ひぃっ」
シャッと鋭く剣を抜くような音がして、相手の男が声を詰まらせる。
「拐う?僕は自分の女神を取り戻しただけだよ?その不敬極まりない君の頭と体を、今すぐここで切り離してあげようか」
「…!」
張り詰めた空気に悲鳴を上げそうになるのを私は何とか堪えることに成功した。
ドキドキと恐怖に高鳴る自分の胸の音が周囲に響いてるのではないかと思うほどに大きく聞こえ、その焦りがさらに恐怖を引き立てる。
「そ、そんなことをしては無事に国境へたどり着くことはできませんよ!あなたには、まだ私が必要なはずです」
その必死の言葉に、リンゲル王がふんと鼻を鳴らすと、剣を鞘に納めたようなチャキっという音が辺りに響く。
「…っ、それに灯台もと暗しとはよく言ったもので、まさかまだ屋敷内に留まっているとは誰も思いますまい」
「…」
「では、私は上で皇太子たちの動きを探って参ります」
そうして一人の足音が遠ざかっていく。
その足音も聞こえなくなった頃、私がいる部屋の扉が軋んだ音を微かに立てて開かれ、蝋燭の明かりで周囲が仄かに照らし出される。
入ってきたのはやはり、リンゲル王、その人であった。
「っ!」
恐ろしさにカタカタと体が震えるのを止められない私を見て、リンゲル王がふっと息を漏らして笑った。
「おや、もう目を覚まされていらっしゃいましたか」
コツリ、コツリとゆっくり近づいてくるリンゲル王は、目を見開いて見つめる私の傍らに膝を着くと、口元に笑みを浮かべたまま蝋燭を床へ置いた。
「本当は柔らかなベッドへ寝かせて差し上げたかったのですが、私たちの門出を邪魔する者が多くてね。
落ち着いたらすぐにでも我が国へ向かいましょう」
まるで私もそれを望んでいるかのような言い方に、カッと頭に血が昇る。
「嫌です!私はあなたの国になんて行かないわ!」
「おやおや、この扱いが大層気に入らなかったと見える。分かりますよ、私も大分我慢していますからね」
「…違っ!」
体を起こして反論しようとする私の唇に人差し指を当てて、リンゲル王は静かに、と声を落として窘める。
「あと少しの我慢ですよ。もう少しで、私たちはようやく伴侶となれる」
待ち遠しいですね、と同意を求めるリンゲル王にぞわりと全身に鳥肌が立つ。
何、この人。
全然話が通じない。
こんな人が王で、リンゲル国はきちんと機能しているのか、よその国ながら不安になる。
それに、こんな人と結婚なんて真っ平ごめんだ。
その気持ちを込めて、すっと息を吸い込みリンゲル王に告げる。
「私は、あなたと、結婚なんて、しない!絶対に」
リンゲル王の目を見て、彼が勘違いしないよう一言一言区切って念を押すように伝え、彼の額に青筋が浮かんだのが見えた瞬間、パーンという鋭い音とともに私の視界が大きく揺れた。
頬を打たれたと気付いた時には、もう私の体は大きく床に叩きつけられていた。
「くっ!」
胸を打ち付けたせいで息が詰まり、思わず息を止める。
痛みに呻く私を、無表情で見下ろす様はまさに異常で、私の中で身の危険を知らせる警鐘が鳴り響くが、打ち付けた体の痛みで動くことさえままならない。
「…こんな場所ではなく、夫婦の私室で思い出に残るようにと思っていましたが、そんな優しさ不要でしたね。私に逆らう気が起きなくなるよう、今、ここで、きちんとしつけなくては…」
そう言い終わらないうちに、リンゲル王が倒れこんだ私の上に覆い被さってくる。
「っ!嫌ぁ!!」
まさに私の胸元へリンゲル王の手が伸びてきた瞬間、地下室の階段を駆け降りてくる複数の慌ただしい足音が響き渡る。
「!」
「ッチ!司教め、下手を打ちましたね」
忌々しそうに小さく呟くと、リンゲル王は傍らの蝋燭をふっと吹き消し、私を後ろから羽交い締めにすると壁際へ引っ張り込んだ。
そして、先程剣を抜いたときと同じような音が聞こえた刹那、首元に冷たい硬質なものがカチャリと添えられる。
「声を出したり動いたりしないでくださいね。私も私の女神に傷なんて付けたくありませんから」
あまりの恐怖の中、脳裏に浮かぶのはやっぱりアルフレッドの姿で。
最後に交わした言葉が大嫌いなんて、そんなの嫌。
アルフレッドが誰を選んでも大好きだって、愛してるって伝えておけば良かった。
拒絶されることを怖がらずに、ちゃんと自分の気持ちをぶつけておけば良かった。
頭の中を駆け巡るのはそんな後悔ばかりで、頬を一筋の涙が伝う。
「アル…」
小さな呟きに首元の剣が僅かに皮膚に食い込んだ瞬間、勢いよく部屋の扉が開かれた。
「ティア!」
その愛称で私を呼ぶのは、この世でただ一人。
アルフレッドだけ。
「っ!?」
アルフレッドの姿を認めた私の耳にリンゲル王の声が息を呑む音が聞こえる。
アルフレッドが来たことに驚いているのかと首元に当てられている剣に気を付けつつ、横目でリンゲル王を確認すると、意外なことにその目は真っ直ぐ私を見つめていた。
「ティア!」
アルフレッドが呼ぶ声に視線を戻すと、光が届かず姿が見えないはずの私を、アルフレッドはしっかり捉えていた。
なぜ見えるの、と不思議に思いながらも、無意識にアルフレッドの方へ手が伸びる。
その伸ばした私の腕は、淡い光を帯びていた。




