公爵令嬢と聖なる森
濃い緑の匂いとさわやかな風に誘われて、ふと目をあける。
すんと鼻を鳴らすと、緑の匂いとともに澄んだ空気が体の中に染み込むように入ってくる。
何も汚れのない清らかな雰囲気に、何故ここにいるのかという戸惑いも、分からない状況への恐れも、どうでもいいような物のように思えてくる。
ふと後ろを振り返ると、そこには青く澄んだきれいな湖が広がっていた。
魅入られるように四つん這いになって、その湖を覗き込むと、湖の周りを囲っている草花が湖面を揺らした。
ゆらゆらと揺らめく湖面が落ち着き、再び水鏡のような穏やかなものになったとき、私の後ろに誰かが佇んでいるのが見えた。
普段であれば、何の気配もなく側に寄られたことに、警戒心と恐怖心に苛まれるところだが、この雰囲気がそうさせるのか、全く危機感を感じなかった。
「目が覚めたのね」
薬草を腕一杯に抱えた女性は、驚かずに振り返る私の様子に、僅かに苦笑しながら隣に腰を下ろした。
彼女の一連の動作を見つめながら、彼女の髪色に目を止める。
「その髪…」
「ふふ、やっぱり目につくわよね。
私はね、セレーネというの。私の子どもたちが賜ったのがセレニティア公爵領。
だから、あなたの祖先になるわね」
「…」
呆然と目の前の人を見つめる私に、大丈夫?と首を傾げる彼女の動きに合わせて、銀色の髪がサラサラと肩を零れ落ちる。
セレニティア公爵は、神書によると起源は太陽神と月の乙女であると言われている。
そして、代々受け継がれる銀色の髪は母である月の乙女のものであるということも。
「初代の…月の乙女…?」
「その月の乙女って呼ばれ方、恥ずかしくて仕方ないわ。もうそんな年でもないのに」
ぷぅっと頬を膨らませて拗ねるように言うセレーネ様は、乙女という呼び方がぴったりなほど愛らしい方だった。
「私は元々は太陽神の巫女だったのよ。
巫女は代々いたはずなのに、何故か私を気に入った太陽神が降臨しちゃって、あとは勢いで国なんか作っちゃって…。めちゃめちゃだったわ…」
遠い目をして、過去を振り返っているだろうセレーネ様は、おそらく太陽神に振り回されたであろう日々に哀愁を感じているのだと推察された。
「セレーネ様がいらっしゃるということは、ここは天上の世界ですの?」
ただ気を失っただけだと思っていたが、まさかコロッと逝ってしまったのだろうか。
不安に青褪める私に、セレーネ様はキョトンとした表情をすると、おかしそうに笑い始めた。
「ふふふ、ご、ごめんなさいね。くふふ。そうよね、そう心配になるわよね」
ついには涙を溜めて笑い出すセレーネ様を、私は恨めしげな声で呼んだ。
「ふふふ。あー、こんなに笑ったの何百年ぶりかしら」
「………何百年?」
セレーネ様の言葉にぎょっとする。
「だって私、これでも神の妻なの。もうすでに人の時の流れからは外れているわ。
神が死なないように、私も死なない。
だから、ここは死者が訪う彼の世ではないのよ。どうか安心して?」
「………では、ここはどこなのですか」
「太陽神が私のために作られた箱庭よ。あぁ、人の世では聖なる森と呼ばれているわね」
「聖なる森…」
穏やかに優しく微笑むセレーネ様は、私の呟きに頷くと、私の両手を自身の手で包み込んだ。
包まれた手を中心に白い光であたりが満たされていく。
「ここに来たのはあなたが初めてよ。きっと、かつて人であった頃の私と波長が似ているのね。
これから、どんどん力は発現してくるでしょう。その力ゆえに、迷って、あなた自身を見失うこともあるかもしれない。
それでも、あなたはあなたらしく、あなたの太陽神を支えてあげてね」
そう穏やかに話すセレーネ様の姿が光で霞んでいく。
「そろそろお帰りなさい。
ここへの道はいつでも開かれているわ。
迷ったときはここへ来なさい、私の愛し子…」
その言葉とともに、私の意識は眩いばかりの光の中に溶け込んでいった。
ーーーーーー
「行ったか」
ティアリーゼが消えた場所を見つめていたセレーネは、後ろから聞こえてきた声に微笑みながら振り返る。
「そんなところに隠れていないで、あなたも出てきたら良かったのに。
いつもならこの時間は神殿にいるはずなのに、気になって見に来たのでしょう?」
「私が出たところで、娘を萎縮させるだけだ」
「ふふふ、きっとあなたを見たら驚くでしょうね。
現皇太子殿下と瓜二つなんですもの。
ね?太陽神様?」
「…先祖返りだろう。あやつも何かのきっかけで神力を発現するやもしれんな」
「まぁ、それは楽しみね。
きっと、また会えるわ。
…彼らに、幸多からんことを」
祈るセレーネに、太陽神がそっと寄り添った。




