少女の願いⅡ
土竜の少女が、手首から浮かび出たホログラムを熱心に見つめている。その淡い光が辺りをぼんやりと照らしていた。
「何だ、それ?」
「知らないんですか? バイタルボードです」
説明によると、そこに持ち主のスペック――性別、年齢、身長、体重から、体力、スキル、マナといったものまで表示されるらしい。この世界では誰もが持っている標準装備。便利なことだ。
「ゆ、勇者様だからって、覗いちゃイヤですよ!」
「……すまない」
その夜は、街道から少し外れた岩場で休みをとっていた。俺とアリーシアは数日前に神殿の森を出発し、共に地上の都、聖都を目指す途中だった。
どうやら俺は、本当に遠い世界へ来てしまったようだ。ラノベで言う、異世界トリップとか異世界転移に当たるのだろう。よくトラックに轢かれて転移もしくは転生するパターンはあるが、俺はマンションの7階から転落して、か。にわかには信じがたい。
「しかしその『勇者』ってのはやめろって言っただろ、アリス。ただの『ルカ』でいい」
「あ、そうでした!」
「アリス」は「アリーシア」の簡略名だ。この世界の人間は、互いを本名とは別の簡略名で呼び合う。
彼女の屈託のない笑顔を見ていると、思わずため息が漏れ出た。
神殿でゴーレムを退けた後、俺はアリスから「勇者」のこと、そして彼女自身のことを聞いていた。
「お、お前……それは角か?」
「ええ。この世界の種族の中でも、角持ちは土竜だけです」
少女は腰に手を当てて胸を張った。身体つきは6歳くらいの人間のそれで、髪が黒い所などは東洋人を思わせる。が、よく見ると褐色の肌は鱗のようなもので覆われているし、爪や牙もあった。
「千年もの昔――神は10日間で世界を改変しましたが、その時私たちの祖先は地中を住処とするようになったのです。
しかも言い伝え通り、勇者様は本当に居たんですね!」
少女はそのまま踊り出しそうな勢いだった。また「勇者」か。
「その勇者ってのは、何者なんだ」
「伝説の勇者様ですよ! 千年前の『神の改変』と呼ばれる世界破滅の危機を食い止めた英雄です。世界が再び危機にまみえる時、勇者様が千年の眠りから覚め、世界をお救いになるのです!」
まさに、異世界小説でありがちな話だな。この場に透花が居たら、少女の手を取って一緒に踊り出すかもしれない。
「でもおかしいなあ……勇者様って、こんなおじさんだったのかしら」
子供は時に辛辣だ。
「お嬢ちゃん――」
「失礼、まだ名乗っていませんでした。アリーシアと申します。アリスとお呼びください」
「分かった。俺は橘ルカだ」
さっきから感じていたが、この少女の物言いにはどこか品がある。あの絨毯といい、いいトコのお嬢さんなのかもしれない。
「アリス、残念だが俺は勇者じゃない。ただの人間だ」
「またまた、ご冗談を。ただの人間が神殿まで入ってこられるはずがありませんよ」
アリスは俺の言葉には取り合わず、けらけらと笑った。どうやら面倒な勘違いをされたようだ。40近くにもなって「勇者様」はキツい。
とりあえず、少しでも情報を聞き出そう。
「さっきはありがとう。あのゴーレムはなんだったんだ」
「もともと神殿を守る役割を担っていた者たちです。だけど、数年前に『統率者』がいなくなってからは暴走気味で、この森に近づく者は滅多にいませんでした」
「神殿?」
「はい。勇者様が眠っていると言われています。そこで、えっと、タチバナルカ様を見つけたのです」
「ルカでいい」
「ルカ様!? 『ルカ』は勇者様のお名前『ルーク』の簡略名です!」
頭が痛くなってきやがった。こういった偶然の符号は小説では定番の手法だが、現実で自分の身に起きたところで嬉しくもなんともない。知るかよ、何が異世界だ。
俺には大切な妻が居る。生き伸びるためには何をすべきか、考えろ。
「それで、お前こそどうして一人で来ていたんだ。危ないんだろ」
「実は私は、地上を治める教会のもとへ、和平交渉に行く途中なのです。今この世界は、危機に瀕しています。勇者様の力が必要です」
アリスの話に寄れば、「教会」とやらが突如として土竜の領域を侵し始めたという。ゴーレム戦での通り、土竜は高い魔力を持っているため犠牲は出なかったが、好戦的な長老などは激怒して報復を主張しているらしい。
和平交渉、ねえ。
「殺されるかもしれないとは考えないのか」
「彼らもそこまで愚かではないでしょう。私は信じています」
これだけを聞けば、いかにもお嬢様らしい平和ボケした考えに思えた。日本では珍しくもないが、しかし……。この子は、どうなんだろうな。
「なあアリス。どこか別の、遠い世界から飛ばされてきた人間の話は、聞いたことないか?」
もしかしたら俺の他にも転移者がいるかもしれないと思って聞いたのだが、これが思わぬ情報を得るきっかけになった。アリスは少し考え込んだ後、何かを思い出したのかポンと手をたたいた。
「別の世界というのは分かりませんが、転移装置でしたら聖都にあるはずです。教会の方なら、何か知っているかもしれません」
俺たちの目的地は同じだと分かった。アリスは和平交渉のため、俺は元の世界へ帰る手がかりを掴むため。
自分は勇者ではないと繰り返し言ったが、アリスはそれでも構わないと言った。何かの縁だから、と。代わりに俺も炊事くらいは引き受けることにした。主夫スキルの面目躍如だ。
こうして俺たちは地上の都、聖都を目指して神殿の森を離れた。
空は満天の星だった。アリスが歓声を上げ、岩の上にゴロンと寝転んだ。こうして見るとやはり子供だ。その瞳には、星々の煌めきが映し出されていた。
「聖都に着いたら、物語を広めたいんです」
「物語?」
「ええ。地上では、教会が発行する聖書以外は流通していないと言います。私、昔から本が好きで……こういう時こそ、人々には物語が必要だと思うんです」
確かに、アリスの荷物には嵩張るというのに大量の本も含まれていた。どこまでも言動は夢見る少女そのものだが、それを笑うことはできなかった。
「俺は、物語に救われた人間を1人知っている。お前の行動も、誰かを救えるはずだ」
「……はい!」
アリスの弾けるような笑顔に、俺も微笑みで応える。
透花は物語に救われたと言った。そして俺は、そんな透花に救われた。
どんな状況でも、適応できなかった奴から真っ先に死んでいく。それは今までの経験から嫌と言うほど思い知らされてきた。何をしたって、生き残ってやる。例えば、目の前の小さな命を犠牲にしてでも。
俺は、透花が待つ家に帰るんだ。