エピローグ
本の打ち合わせが一段落したところで、シルフィーが焼きたてのクッキーを持ってやってきた。アリスが目を輝かせる。成長して顔立ちは大人びてきていたが、その瞳は昔のまま、無垢な光を宿している。
「シルさんも遠慮しないで、一緒に食べましょう!」
「仰せのままに、王女殿下」
あの後、土竜との開戦は避けられた。お互いへの不信感はなかなか消えなかったが、アリスや聖騎士達の尽力もあり、再び地上と地下との間で交流が始まった。
教会は、教主の失踪と司教失脚により瓦解した。代わりに聖騎士達が指揮を執って、元教会の文官や騎士団の優れた者達とともに地上を治めている。
「ほら、ルカ様もご一緒に。これ凄くおいしいですよ!」
俺は魔法がほとんど使えないようになっていた。抗体が尽きたのではなく、マナに命令を出せなくなったのだ。医者によれば、魔力が目詰まりを起こしているらしい。短期間のうちにあれだけの魔法を使い、一部とは言え時間操作までしたのだ。身体にもかなりの負担がかかっていた。晩年の親父と同じ状態というわけだ。
「いけません、アリス様。ルカ様にはこちらの、砂糖控えめのを。
主人にも口酸っぱく言われているんですから」
いやあ、返す言葉もない。シルフィーの夫は俺を診てくれた医者だ。今は2人して俺を世話してくれている。
隠居暮らしの日々は良いものだ。見晴らしのいい家に住んで、街を歩いたり、花を育てたり、本を読んだりしている。アリスに勧められていた本も読んだ。なんとあの「名作古典」は、よく読めば『源氏物語』だったのだ。千年残る物語は、さらに千年残るのだと感心してしまった。嬉しいことに、透花の著作も伝えられている。
「じゃあ、食うか」
「その前にお祈りです! 誇り高き、氷の聖騎士に」
トーカの身体は、現在の技術では直せなかった。しかるべき時が来るまで、城の奥で保管されている。
焼き菓子をかじりながら、考える。俺にもいつか、「叫び」が聞こえるのかもしれない。人間が生きるための罪も生まれ続けるだろう。俺にどうこうできるとも思えない。それでも俺は、絶望することはないだろう。
どんな物語であれ、人はそれを伝えていくことができる。そして、新たな物語をつくっていくことも。
愛する妻、透花へ。
君が残してくれた、この世界が好きだ。
君が愛したこの異世界で、俺は生きている。
そしてこれからも――君と俺の物語は、ここで生き続けるだろう。
Fin
お読みいただき、ありがとうございました。