世界の真実Ⅲ
トーカの身体から生命が失われた後、俺は決意した。女性兵士に告げる。
「シル、行くところができた。アリスのことを頼む」
「……承知しました」
「ルカ様」
アリスが涙を浮かべたまま、イヤイヤをした。俺の様子にただならぬものを感じたのかもしれない。俺はふっと微笑んで、アリスの頭を撫でた。
「大丈夫だ。すぐに戻る」
「絶対ですよ! 本の感想もまだなんですからね」
「ああ」
参ったな。アリスに借りた本はまだ読んでいなかった。それが妙に心残りで、俺は少しだけ後悔した。
馬車から飛び出し、俺は城へ向かった。クーデターで場内は混乱を極めていた。司教派を捕える聖騎士の部隊が駆け回っている。幽閉されているという教主は、まだ見つかっていないらしかった。
俺は目をつぶり、意識を集中させた。トーカの話で、思い当たることがあった。もしそれが正しければ、教主はあの人物だ。
マナの流れをたどっていく。波長が合う感覚がした。それを頼りに歩いて行くと、地下の一室にたどり着いた。そこでマナの残渣が途切れている。物々しい巨大な装置が中央に置かれていた。
「転移装置……」
すると、待っていたかのように装置が作動した。部屋が光に包まれ、気付いたときには、見覚えのある景色の中に立っていた。見渡す限りの木々。俺が目を覚ました、神殿の森だった。
再び、強いマナの流れを感じていた。それに導かれるように進むと、大木の根元に、一人の男が身をもたせかけていた。
「ルカ。懐かしいな」
法衣に身を包んだ教主――「教団」の創設者でもある、俺の父・神宮桐人だった。
トーカに名を与えたのは教主だ。それが偶然ではなかったのだとしたら。この世界で透花のことを知っている人間など限られている。親父もまた、千年もの時を生きてきたのだ。
奴は俺の記憶にある姿とは似ても似つかぬ容貌をしていた。数人の人間が出鱈目にくっ付けられたような姿だ。機械でもなく、時間を止められたわけでもない生身の人間なのだ。千年間も生きながらえるのに、どれほどおぞましいことを繰り返してきたのか。
俺は右手に氷の大剣を生成し、胸元に突き付けた。今度こそ、決着をつける。だが奴は全く構うことなく、俺だけを見据えていた。
「私を殺せ、ルカ。そしてやり直せ」
「やり直せだと!? 死んだ人間は誰も生き返らないんだぞ!」
会いたかった人は千年も前に死んでいた。帰る家はもうない。世界が急速に色褪せたような、やるせない感情を俺は親父にぶつけた。
そんな俺を見て、桐人は口を歪めた。それが笑いだと一瞬遅れて気付いた時、ゾッとした。
「私をその剣で貫け。そうすれば、抗体はお前の身体に行き場を求める。既に、透花の抗体も取り込んだのだろう? お前は、この世界を変えるほどの力を手に入れるのだ」
トーカが自我を失った瞬間、俺は自分にマナが流れ込むのを感じていた。ああして透花の力もトーカへ引き継がれたのだろう。
「世界中に散らばったウイルスに命じろ。『遡』と。
そうすればお前の望みは叶う」
時間を巻き戻す。透花の待つ家に帰る方法は、もはやそれだけなのだ。
「この世界には、お前の子孫も、透花の子孫も居ない。
お前が愛する者は、ここには居ない。方法は一つだけ。過去に戻れ」
「貴様が! 愛を、語るなぁ!」
怖気付きそうな心を殺すため、無理矢理叫んだ。俺は、家に帰らなければならない。
氷の剣で、親父の胸元を貫いた。瞬間、めまぐるしい記憶が頭の中に流れ込んでくる。桐人の過去だった。
『お前には、聞こえないのか』
叫び――そうとしか表現しようのない、耳をつんざかんばかりの絶叫が、いつからか聞こえるようになった。
耳を傾けてみれば、それは奴隷にされた女の悲鳴であり、飢餓に喘ぎ苦しむ少年の哀願であり、テロで家族を失った男の怨嗟の声だった。世界には、恐怖と絶望の物語が溢れていた。それを知ってしまった桐人は、救いを求めた。仲間も集まり、宗教のような形に落ち着いた。
信者と共に精神を研ぎ澄ませる中、桐人は発見した。聞こえていたのは人間の叫びだけだと。考えてみればおかしな話だ。地球上には人間以外の生命も大勢いる。網に捕らえられた魚や銃弾に倒れた獣、焼き払われる森林の叫びが聞こえても良いはずだ。
叫びをあげるのは人間だけ。その叫びの原因も、人間。桐人は静かに狂った。人間は存在自体が罪なのだ。滅ぶことでしか、救われない。
信者を巻き込んだ実験の日々。ウイルスの完成。世界の改変。桐人は生まれ変わった世界で、思いがけない安らぎを感じていた。あれほど激しかった叫びが、ピタリと止んだのだ。
『人間が……人間ではなくなったからか』
人類は姿形を変え、生まれ変わった。桐人は凪のように穏やかな心で、新しい世界の行く末を見守ることにした。地上の教会には、象徴が必要だった。桐人は教主という生き神として強制的に生かされ、千年近く祭られた。
まどろみの時間は、しかし徐々に破られていった。再び、「叫び」が聞こえるようになったのだ。桐人は絶望した。人間は変わってなどいなかった。やはり、滅ぼすべきなのだ。
既に、世界を滅ぼすほどの力は出せなくなっていた教主は、司教を裏で操り、土竜との戦争を起こそうと画策した。地下で地震の衝撃を吸収している土竜が滅べば、地上の生物も自ずと滅びる。
その時、血を分けた一人息子が眠りから覚め始めた。強大な力を感知した教主は、もう一つの方法を考えた。それが、彼に世界を巻き戻させることだった。今度こそ、完膚なきまでに人類を滅ぼすために。
抜け殻となった教主の死体から、氷の剣を抜き取った。身体の中で、いっそう何かが激しく燃え上がるのを感じる。今なら時空の操作なんて事も可能かもしれなかった。
「――遡」
イメージは、扉。目の前に氷でできた門が出現する。ここを通り抜ければ、全てがリセットされる。教主の企みも、事前に知っているなら防ぎ様はあるだろう。
俺は家に帰ることができる。再び、透花に会うことができる。
だが俺は、どうしても一歩を踏み出せなかった。門は次第に縮んでいき、子供がやっと通れるほどの大きさになり、そして消えた。
『それがお前の出した答えか』
頭の中で、桐人の声が聞こえた。そうだよ、親父。この世界は、透花が残そうとした世界だ。透花が繋いだ世界だ。
トーカが見守り続けてきた世界だ。アリスの大好きな世界だ。幸せに暮らす人々が大勢いる、千年前と比べてなんの遜色もない世界だ。
「無かったことになんて、できるわけないだろうがぁ!」
氷の剣を霧散させる。みるみるうちに桐人の身体は崩れ、灰になった。
俺は独り残された。静かな森に。
「透花。俺は、なんてことを……。あああ! 透花!」
絶叫が木霊した。すまない、俺は帰ることができなかった。何もかもが嫌になっていた。親を殺してまで得た結末が、こんな――。
「ルカくん……?」
その時、微かな声がした。足下からだ。
「透花!?」
「ルカくんの声?」
見れば、門が消えた場所に氷が残っていた。花の形をしている。辺りの緑を反射した、透き通る碧色の花。そこから透花の声が聞こえていたのだ。
それは恐らく、時間魔法が一部だけ作動したものだった。千年の時を超えて、声だけが繋がった。
「透花……すまない。俺は――」
「いや、でもこれ何て言ってるんだろう」
おっといけない。日本語じゃないんだった。
「すまない、透花。俺は帰ることができなかった」
「わ、やっぱりルカくん。でも待って、だって今ルカくん、眠っているはずじゃ……」
透花の声はあまり変わっていなかった。俺が眠ってからそう時間が経っていない頃なのだ。
「俺がいるのは、千年後の日本だ」
絶句する気配の後、寂しげな声が聞こえてきた。「そっか。目覚めたんだね、ルカくん」
「お前の残した世界では、人々が幸せに暮らしている。凄いぞ、まるで異世界なんだ。お前が想像し、創造したのとそっくりな。お前が愛した異世界そのものだ」
時間が限られているのは感じていた。だが、俺はそんなことしか言葉にできなかった。向こうで、透花がクスクスと笑っているようだ。
「私ね、頑張ったんだよ」
「ああ。世界を救った英雄だろ」
「そうそう、そんな感じ。これが大変でさあ。実は今も拠点を抜け出してきたとこなんだ」
そういえば、透花はよく仕事をサボろうとしたっけ。急に懐かしさが押し寄せてきて、涙がこぼれた。全く平気なように話しているが、透花の重責は相当なものだろう。それなのに、俺は何もしてやれなかった。
「透花」
「ううん、大丈夫。正確には、もう大丈夫。ルカくんとまた話せるなんて、夢みたいだよ」
「そうじゃないんだ、透花。俺は」
「はい、ストーップ! ダメだよ、ルカくん。どうせ、『俺は時間を巻き戻せなかった』とか言うつもりなんでしょ?」
「え、なんで分かるんだ」
「作家の想像力なめないでよね。過去をやり直してハッピーエンドなんて王道中の王道よ。嫌いじゃないけど」
「もう一度会えたかもしれないんだぞ?」
「いいよ。優しいルカくんのことだから、そっちの世界も好きになったんでしょ。
どうしても許して欲しいっていうなら、許します。ただし女はダメ」
「……6歳の幼女は?」
「お廻りさーん、この人でーす」
「冗談だ」
一輪の花に向かって、俺は透花にこの世界での出来事を話した。本当に夢みたいで、俺は涙が止まらなかった。
「私、ルカくんに出会った頃は、ちょっと恨んだりもした。ルカくんが教団の関係者ってことは知っていたし、両親も死んだばかりだったから……。だけどね、暮らしていくうちに、いっぱい助けられていたんだ」
氷の花びらから、滴がぽたりと落ちる。奇跡の終わりが近付いていた。
「ごめんね。ルカくんを凍らせたのは、私のわがまま。どれだけ時間がかかっても、もう会えなくても、ルカくんには生きていて欲しかった。そうじゃないと、私が生きていられなかった……」
「透花は悪くない。助けてくれて、本当にありがとう。世界を残してくれて」
「ふふ、これでも英雄だもんね。実際は『勇者様』だけど」
透花は涙声で笑った。「勇者様」って、もしかすると。
「伝説の勇者、ルーク……」
「なにそれ、かっこいい! 今度からみんなにそう呼んでもらおうかな。『ルカくん』とも似てるし」
この時俺は、輪が繋がったような感覚を覚えた。俺がこの世界で目覚めたこと。数々の出会い、別れ。全ては無駄ではなかったのだ。
「そろそろ、戻らなくっちゃ。これもあと少しで終わるんでしょ? なんとなく分かる」
「……そうだな」
「大好きだよ、ルカくん」
「俺もだ。お前を愛してる」
それが最後だった。透明な花は軽い音を立てて崩れ、やがて消えた。