例外
家を失った風音は宛もなく住宅街をさまよった。新しい寝床を見つけなければならないのはもちろんのこと、彼女にはそれ以上に気がかりなことがあった。
(オレと母さんはバベルに感染しなかった。仮にバベルが空気感染しないとしても、オレはさっきの戦いで多くの血を流したはずだ。こんな状態でオレが人間の体を保っているなんて……絶対におかしい)
現状を嘆いている暇はない。今は自らの身に起きていることを把握しなければいけない。風音は手がかりを探し求め、歩みを進めていく。彼女の周りでは、化学防護服を着た軍人やロボットの兵隊がパトロールをしている。
(厳重な警備だな。まあ、当然か)
十人十色の通行人に溢れていた住宅街は、ガスマスクを装着した筋肉質な男が集まる戦場に変わっていた。路上では銃弾やレーザーが飛び交い、時には肉塊が宙を舞う。血肉はアスファルトに爪痕を遺し、バベルの脅威を物語る。
放浪の道中、風音は何度かバベルの感染者を目にしてきた。ガスマスクを破壊された軍人が化け物に変わる様も目の当たりにしてきた。こうして調査を続けていくうちに、彼女はただ一つの真実を再確認できた。
(やっぱ、普通はバベルに感染したら化け物になるんだな……)
この実感が湧かなかったのも無理はない。何しろ、彼女は何らかの理由でこの摂理の例外に属している。ましてや、彼女の特別性が全くの未知の病原体に対するものであればなおさらだ。風音は持ち前の身体能力を活かし、バベルの感染者を倒していった。多くを失った彼女にとっては、もはや化け物を駆除することだけが生きがいだ。
それから約一ヶ月間――――風音はバベルの感染者を葬り続けた。
***
戦闘に慣れていくうちに、風音の身体能力は以前にも増して洗練されていった。最初は大量の血を流しながら死闘を繰り広げていた彼女も、今や無傷で敵を葬ることさえ珍しくはない。その類まれなる戦闘能力は徐々に名をとどろかせていったが、風音の体質の謎は相変わらず明かされないままだ。
(やっぱり、オレと母さんだけが例外なのか? もしかして、オレの血清で世界を救えるのか?)
この時、彼女は自分が世界を救える存在であると確信していた。自分がおとぎ話のような英傑になれると確信していた。
さっそく、彼女は倒壊した民家の瓦礫からバールを拾い、素振りを始めた。
(うん……良い武器にはなりそうだ。自分にバベルが効かねぇ理由はわからねぇけど、それで損することはねぇな。むしろありがてぇくらいだ)
今のところ、彼女の特性にこれといった不都合はない。これから何らかの弊害に直面する可能性があることは否定できない。
しかし、風音はすでに多くを失った身でもある。
「母さんは死んだ。父さんは消息不明。オレは家を失った。これ以上、何を覚悟する必要がある!」
惰性で己を奮い立たせ、少女は虚勢を込めた笑みを浮かべる。そんな彼女の背後からは、二体の化け物が迫っていた。
「後ろか……!」
風音はすぐに気配を察知し、瞬時に彼らの方へと駆け出した。息継ぎをする暇もなければ、瞬きをする暇もない。化け物はこの一瞬で全身に痣を刻まれ、血飛沫を撒きながら倒れ始めた。彼らが最後に見たものは、バールを持った少女の殺意に満ちた眼差しだった。
「コイツの使い心地を試すにはちょうど良かったな」
その頬には、一粒の汗すら流れていない。その瞳には、少しの慈悲も宿っていない。あの一ヶ月を通じて、彼女は獲物に飢えた捕食者となり果てた。その無造作にはねた頭髪と手加減を知らない猛攻は、まるで百獣の王そのものだ。
(ヒーローはオレの憧れだ。そんなオレがバベルに対する免疫を生まれ持ったのなら、これはオレに託された使命だ! だが世界を守る前に、まずはたった一人の大親友を守らねぇとな……)
気が昂っている時でさえ、風音は親友のことを蔑ろにはしない。ことに、その親友は彼女にとっての最後の砦である。鈴木由奈がこの世を去る時、風音は本当に全てを失うこととなる。
「待ってろよ……由奈!」
思い立ったが吉日だ。彼女は駆け足でその場を去り、大親友の元へと向かった。由奈を守ることができると思い、彼女は少し元気を取り戻したようだ。あの日以来ずっと陰りを帯びていた彼女の顔も、心なしか血色が良くなっている。
――――風音はまだ、自らの肉体に隠された真実を知らない。




