怒りの拳
三日目。風音は父親の心配をしていた。彼女の父親は昨日から帰ってこない上に、連絡も全くとれないのだ。家の電力は相変わらず止まっており、風音はポープロを節電しながら使っている状況だ。
「妙だな……連絡もよこさねぇなんて」
こんな時に実父と音信不通になるというのは、あまりも不穏なものだ。だが、現状に解決策があるわけでもない。拭いようのない不安を誤魔化そうとばかりに、風音はたて続けに漫画を読んだ。
(剣と魔法以外は何も要らねぇ。正義は必ず勝つと約束され、民の共通の敵を倒せば全てが丸く収まる。オレの住む世界も、それくらいわかりやすくて爽快なモンだったら良いのにな……)
普段なら、彼女は純粋な視点で少年漫画を楽しめる。しかし、今の彼女が置かれている境遇を鑑みれば、ファンタジーを欺瞞と意識せざるを得ないことも無理はないだろう。彼女の身に更なる危機が迫ったのは、まさにそんな時だった。
「風音っ……逃げて!」
母親の叫び声がこだました。それと同時に、家の壁は勢いよく粉砕され、天井も崩れ落ちていった。
「!?」
風音はすぐに漫画を投げ捨て、両腕で天井を支えた。彼女の筋力は優れており、家の二階をまるごと支えるくらいのことは容易にできるらしい。砂煙のカーテンが開かれると同時に、彼女の目には凄惨な光景が映し出された。
足元に見えるものは、上半身と下半身が分離した母親の体。そしてその奥に見えるものは、身長二メートル強の化け物。
もはや実母の死を悲しんでいる暇すらなかった。自らが死の危険に瀕しているも同然だった。風音は瓦礫に押しつぶされそうな天井を頭上に投げる。天井はゆっくりと立ち上がり、そのまま反対の方へと倒れていく。
「よくも母さんを!」
その瞳に宿る感情は、憎悪と悲哀の入り混じったものだった。そこに、迷いや恐怖はまるでない。彼女は化け物の周りを稲妻のごとく駆け回り、様々な角度から打撃や蹴りを食らわせいく。仮にその動きを目で追うことのできる者がいるならば、その者には巻き上がる砂煙が止まって見えることであろう。風音は一人の少女だが、はたから見れば十数人の少女が感染者と戦っているかのようだ。
無論、感染者も抵抗しないわけではない。そればかりか、彼の豪腕は何度も風音を薙ぎ払っている。当然、風音はそのたびに血反吐を吐き散らかしているが、彼女が痛みに怯む様子はない。
「オレにはもう、失うものなんか何もねぇ! 後は気の済むまで憎しみを晴らしてやるよ!」
底知れぬ怒りが痛みをかき消しているのだろうか。あるいは、彼女自身が痛みをものともしない強気な性分なのかも知れない。
「そんな体じゃ『ごめんなさい』も口に出来ねぇんだろうな! けど、オレは謝られてもテメェを許さねぇ! 無様で無意味な命乞いをせずに済んで良かったなぁ! クソが! クソが! このクソ野郎がァァァァァ!」
見ての通り、風音は半ば正気を失っている。しかし、勝機は失っていない。彼女は数十分にもわたって化け物と戦い、自らの全身を思考よりも速く動かしていった。それから、彼女は握り拳に全身全霊を込め、親の仇を勢いよく殴り飛ばす。家の前のアスファルトは勢いよく抉られ、化け物は向かいの瓦礫に体を強く打ち付けられる。
――――その腹部には、風音の拳と同じ大きさをした風穴が開いている。
そこから硝煙と血液を漏らしつつ、化け物は眠るように息を引き取った。
風音の勝利だ。
しかし、彼女に勝利を喜んでいる余裕はない。怒りの矛先となる敵を葬った今、彼女は多くを失ったことと向き合わざるを得ない。
(何もかもが急だったな。どうしてオレが家を失うんだよ。どうして、オレが親を失わねぇといけねぇんだよ。父さんの安否もわからねぇし、オレはこれからどうしたら良いんだよ……)
それまで底なしの力を込めていた拳を降ろし、風音は力なくうなだれた。常識外れの戦闘能力を持つ彼女も、結局は人の子に過ぎないのだ。そして人は人である以上、感情という呪縛から逃れることはできない。もちろん、彼女もまた悲しみに支配される人間の一人だが、だからといってそこで思考が止まるわけでもない。
(しかし妙だな……死んだ母さんは化け物になってなかったし、オレも人間のままだ)
実母の死を惜しむと同時に、風音は新たな謎に対して疑問を抱いていた。




