第二節①
夕食の時間はとっくに終わっていた。
空には月が昇り、暗闇に静寂が流れていた。
窓の外から見える夜の世界を眺めていた俺は、手元へと視線を戻した。
将校室の自分の席に座り、急ぎでもない書類仕事をしていた。
あとで急いでやるよりも、今のうちに終わらせたほうがおいおい楽になる。
それに休日が潰れるのも嫌だ。だから暇な内に済ませておくことにしたのだ。
キーボードを叩く音と息をする音、椅子の軋む音。
長らくそれだけだった静寂の将校室に、別の音が混じったことに気づいた。
それはドアの開かれ、閉じられる音。そしてそのあとに続く足音だった。
振り返ると、ポニーテールを揺らすナオミがいた。
彼女は「こんばんは」などと言って、俺の傍にやってきた。
「こんな時間にどうした」
「それはこっちの台詞よ」
俺の言葉に、ナオミはそんな風に答えた。
俺は後ろ頭をかきながら曖昧に笑ってみせる。
「ちょっと書類仕事を、な」
「そんな急ぎの仕事でもあった?」
「そういうわけじゃない。暇だったからな」
「暇だから仕事って、あんたらしくもない」
「そうか?」
「そうよ。……ねえ、コーヒーでも飲まない? 淹れてあげる」
「どういう風の吹き回しだ?」
「ただの気紛れよ」
そう言ってナオミは静かに笑った。
優しい笑顔だった。
「なら、頼む」
俺がそう頼むと、ナオミは「任せて」と言って隣の給湯室へと消えた。
俺は意味もなく息を吐き出して、また夜空の月へと視線を向けた。
夜の空もいいものだ。そんなふうに思った。
しばらくしてマグカップを両手に持ったナオミが戻ってきた。
コーヒーの独特な香りが鼻に届く。
ナオミから「ありがとう」と言ってコーヒーを受け取ると、軽く息を吹きかけて一口飲む。苦味が口の中に広がった。
「最近、あの子たちのこと避けてない?」
俺の近くの席から椅子を引っ張り出して座ったナオミが、マグカップの中身を眺めながらそう聞いてきた。
あの子たち。その言葉だけで何のことかはすぐにわかった。心当たりがあったからだ。
ナオミは気紛れなんて言っていたが、なるほど。本当はその話をしたくて、コーヒーを入れてあげようだなんて言ったのか。
「ライラが寂しがっていたわよ。最近レン少尉がかまってくれないって」
ライラは本当に俺なんかに懐いてしまったらしい。複雑な気分だった。
別に彼女を嫌っているわけではない。ただ、偽物の子どもに好かれるということに、やっぱり違和感を感じるのだ。
「それに、ミナも。どうかしたのかなって、心配してたわ」
……そうか。ナオミにも、あいつらにも気づかれていたのか。
当然といえば当然かもしれない。あれだけ用事がある時以外は近寄らないようにしていれば、気づかれていてもおかしくはないか。
確かに最近、俺はあいつら、というよりもミナから避けるように過ごしていた。
ミナとできるだけ関わり合いたくなかった。
ライラに近寄らなかったのも、彼女といると自然とミナがやってくるからだ。
だからなるべく彼女たちに姿を見せないようにしていた。
「なにかあったの?」
ナオミが静かに問いかけを放る。
俺は黒い液体に意味もなく視線を落とし、そこに映る自分の顔を見つめた。
無愛想な顔だと思った。そして情けない奴だと思った。
嫌なことから逃げている。まるで子どものようだ。
情けなくてため息を吐き出した。黒い水面がゆらゆらと頼りなく揺れた。
どうしてこんなにも気分が悪いのだろうか。
「……ただ単純に、あいつらと馴れ合うのが嫌になっただけだ」
「本当に?」
「ああ。俺はお前の言うところの最低な男だからな。イミテーション・チルドレンを大切だとか思ってないんだ」
「……そう。せっかく、ライラが私以外で初めて懐いた大人だったのに、残念だわ」
「懐く方がおかしいんだ。……どうしてあいつは、ライラは俺に懐いたんだろうな」
「……あの子の能力、読心なのよ」
「心の中を覗けるっていう?」
「そうね。ライラの場合は相手が思っていること全部わかるわけじゃなくてね、その人が強く心に抱いているものがわかるの。その人が自覚していない心の奥底のこともわかるのよ」
ナオミは「拘束具を解除すれば一人だけじゃなくて、色んな人のものが流れ込んでくるらしいけれど」と呟くように言ってから、言葉を続ける。
「だから、きっとあの子はレンの心の奥底に何かを見たんだわ。それがライラの気に入るようなものだったのよ、たぶんね」
「……俺の心の奥底、ね。本人が俺の中に何かを見たと、そう言ったのか?」
「いいえ。あの子はそういうこと、話したがらないから。誰かの心の中のことを他人に言うのはいけないことだって、ちゃんとわかっているのよ。あの子はああ見えて、他人に気を遣って生きているから」
気を遣って、か。
思い返してみれば、ライラの場を考えない言動は、そいうところからきているのかもしれない。
だってその言動は、決まって場の空気が重くなった時に起こされていた。
俺がソラを撃った時のことをナオミと話した時も、ミナがハナの泣き声に顔を暗くしてしまった時も。
空気が重く、静寂に包まれていた。
ナオミの言葉が正しいのなら、きっとそういうことなのだろう。
「……だとしたら勘違いだ。きっと、ライラの勘違いに決っている」
「どうしてそう思うの?」
「俺はイミテーション・チルドレンを殺したことのある人間だぞ? イミテーション・チルドレンが怖がる要素はあっても、懐かれる要素なんて心の奥にだってないさ」
「私は……。私はライラを信じるわ。あの子があなたを気に入ったのは確かだもの」
そう言って、ナオミはコーヒーに口をつけた。
それから再び俺を見つめてきた。
「気が向いたら、あの子たちとまた一緒に食事でもしてあげてね」
「ああ、気が向いたらな」
俺はもう一度黒い液体に視線を落とす。
黒い水面には、やっぱり無愛想な顔が映っていた。
だから俺はコーヒーを飲んで、その情けない奴をかき消した。
そんなことをしたって、そいつは存在し続けるのに。
気分が悪いと、そう思った。
その気分の悪さをコーヒーのように飲み干せたのなら、どれだけ楽になれるか。どれだけ救われるか。
飲み干す方法を、俺は知らない。
夜は静かに過ぎていって、一日の終わりが近づいてくる。
俺は静かにコーヒーを飲む。心はゆらゆらと揺れていた。
◯
ナオミとの会話からどれほど経ったか。
すでにナオミのいなくなった将校室をあとにして、俺は寄宿舎へと続く道を歩いていた。
少しの外灯と、うっすらとした月明かり。夜道は薄暗く、歩いているのは俺だけのようだった。
暗がりに怖れを抱いていたのは、今は昔。幼い時の話。
大人になった今では恐怖など感じず。
ただただ暗いだけだった。
遠くから猫の鳴き声が聞こえた。
微かに木々の揺れる音を聞いた。
外灯が明滅するあの音が聞こえた。
機械音を響かせる自動販売機。その目の前に立つ少女を見つけた。
自動販売機の明かりが照らし出す少女の肌は白く、揺れる腰まで伸びたボサボサの髪は銀色だった。
少女は自動販売機を見上げている。視線の先にはオレンジジュースがあった。
「こんな時間に何をしている」
少女の小さな背中に声をかけた。
少女が首だけで振り返る。
緋色の瞳が俺を見た。
顔に絆創膏が数枚張り付いていた。絆創膏からはみ出した傷がいくつか見えた。
その露出した肩や腕にもいくつかの絆創膏と無数の痣が広がっている。
幼い、ミナよりは少し歳上の、彼女のことを、俺は知っていた。
戦闘服の下だけを穿いて、上はノースリーブのインナーのみ。薄汚れた軍靴を履いた少女の名はハナ。
フェルディの直接の部下にあたるイミテーション・チルドレンだ。
彼女はいつだって傷だらけだった。
俺を認めたハナの目が細められる。
覗いた瞳は、諦観を帯びているように、濁っている気がした。
俺は彼女のその瞳をまっすぐに見つめた。
「……フェルディのところからの帰りか」
「……、」
ハナがゆっくりと振り向く。
自動販売機の明かりをバックに立った少女は、どこか頼りない輪郭で、ともすればオカルト的な姿に見えた。悪い言い方をすればまるで幽霊のように思えた。
それほど彼女の線は細く、身体の傷は痛ましかった。
ハナの瞳がじっと俺を見つめる。
夜風に揺れる銀色の髪が月明かりに照らされて妖しく煌めく。
「オレンジジュースが飲みたいのか?」
俺が問うと、けれどハナはゆっくりと首を横に振った。
「自分たちには、飲む権利はないから。いらないです」
「……そうか」
それ以上の返事をする資格は、きっと俺にはない。
「夏とはいえ夜中だ。風邪を引かない内にはやく帰れよ」
そう言って立ち去ろうとした時、ハナが俺の服の裾を引っ張った。
振り向く。
彼女はじっと俺の瞳を見つめる。
「……お願いが、あります」
ハナは、消え入りそうな弱々しい声で言った。
けれど、その目は意を決したもののようだった。
「なんだ。言ってみろ」
「助けてください」
「……、」
何からなんてことは言われずともわかった。
彼女がフェルディの手から逃れたいと思っていることは、いつかの日の俺を見たあの瞳が語っていた。
あの時、俺はそれを無視した。
「もういやだ。自分はもう、あの人の所にいたくないです」
「……無理だ。俺にそんな権限はない」
「お願いします。なんでもします。だからお願いします」
いつかのソラと姿がかぶった気がした。
同じような言葉を、ソラは最期に残した。
あの時と同じように、懇願の言葉を拒否する。
「……わかりました。なら」
そう言って、ハナはおもむろにノースリーブのインナーを脱ぎ捨てた。
未だ小さいけれど、確かに膨らみのある胸元が見えた。
そして、脇腹あたりに広がる痣が見えた。
「自分を好きにしてください」
「……それが嫌だったんじゃないのか?」
「あの人から離れられれば、一回くらいしたっていい」
何を、とは聞かなかった。
俺は彼女の脇腹にある痣を見た。肩と腕の痣や傷を見た。傷だらけの顔を見た。
よく見てみれば頬に泣いた痕があった。
すべての痣や傷を見て、それから俺はハナが脱ぎ捨てたインナーを拾い、彼女の胸元へと押し付けた。
ハナは困惑しながらもインナーを受け取った。
「悪いが、俺は子どもの身体に興味はない」
「……、」
「それに無暗にそういうことをするな。やられるだけやられて、イミテーション・チルドレンとの約束なんか守ってくれない連中ばかりなんだ、ここは。気をつけろ」
「……なら、自分はどうすればいいんですか? どうしたら自分を助けてくれますか?」
「どうしたって駄目だ。俺はお前を助けてやれない」
ふと、ナオミの顔が思い浮かんだ。
こんなところを見られたら、きっとナオミに殴られるだろうな。
でも、無理なものは無理だ。どうしようもない。
一瞬、ナオミならハナを助けられるんじゃないかと思った。
けれどすぐに否定する。
ナオミにだってそんな権限はない。上訴しようが、上も取り合わないだろう。
誰も、イミテーション・チルドレンのことなど気にかけない。
ハナがどんな辛い想いをしていようが、軍も世間も彼女を助けてはくれない。
そして俺もまた、彼女を助ける気はない。
「……どうして。どうしてですか。どうして誰も助けてくれないんですか? 自分がイミテーション・チルドレンだから? だからなんですか?」
「……そうだ」
彼女の問いかけに、視線を外して肯定した。
正しいからだ。それがこの世界なのだ。
イミテーション・チルドレンがどんなに助けを望んでも何も変わらないのだ。
「お前はイミテーション・チルドレンだ。だからお前が辛かろうが誰も助けない」
「じゃあ、何のために自分たちは戦うんですか? 誰も助けてくれないのに、自分たちはみんなを護るために戦わないといけない。それっておかしいですよッ 行きたくもない戦場に連れ出されて、必死で戦って、それなのに誰も褒めてくれない! 労ってくれない! 感謝もされない! 困っていても助けてくれない! じゃあ……。じゃあ自分はなんで戦わなくちゃいけないんだッ ……こんな世界に生まれてきたくなんてなかったッ 大っ嫌いだ! お前らなんか滅んでしまえ!」
激情に駆られたハナの叫びは、途中から涙声になって、そして静かな夜の世界に大きくこだました。
俺は彼女の顔を見た。
涙を流しながら、瞳を真っ赤に充血させて、ハナは俺を睨みつけていた。
きっと彼女が睨みつけたのは俺だけじゃない。
俺の後ろにある世界すべてを彼女は睨んでいるのだろう。
ハナは、世界を恨み憎んでいる。俺たち人間を嫌っている。
……そうだ。それでいい。
それこそイミテーション・チルドレンだ。
彼女たちは俺たちを憎んでいなければおかしい。そうでなければいけない。
「……好きなだけ嫌え」
それだけ言って、俺はハナに背を向けて歩きだす。
背後で罵倒する声が聞こえて、やがてそれは嘆きの叫びに変わった。
ハナの泣き声が背中に叩きつけられる。それでも俺は歩き続けた。
……やっぱり、イミテーション・チルドレンに好かれるよりも、死ぬほど憎まれていた方がいい。
それが俺たちにとっての……。俺たちにとっての何になるというんだろう。
夜空を見上げる。星空は答えをくれなかった。