5.逃亡
まだまだ行きます!
気づけば僕は枯草を敷いた寝台の上で膝を抱えて泣いていた。弟のキースに簡単に追い抜かれたこと、メルに捨てられたこと、家族がゆっくりと僕を亡き者にしようとしていること、様々なことが頭の中を駆け巡り、どうしたらいいのかもわからずに泣くことを選択していた。
だがしばらく泣いてやや落ち着いた頃、キースの言葉に若干引っ掛かりを覚えた。
「キースの奴、まるで僕が成人まで生きられないようなことを……もしかして」
考えられることとして最も有力なのは、僕を殺すこと。理由はなんでもいい。それこそ賊が侵入したとかでっちあげて殺してしまうことだってできなくはない。詳しく調べようにも領民たちは僕の死なんかどうでもいいし、王都の役人も僕みたいな無能が死んだところで詳しく調べようともしないだろう。あの自信に満ちた表情から、僕を消すことは決まっているんだろう。
「でも……もうどうでもいいか」
自分が何か悪いことをしたわけでもないのに、家族から命を狙われる。そんな極め付けの理不尽が、成人まで我慢すれば解放されるという一縷の望みによって支えられていた僕の心をあっさりとへし折った。
どんなに頑張っても、必死に耐えていても、僕は殺されてしまう。病死とか適当な理由をつけられて簡単に過去の存在に変えられてしまう。それが僕の心の奥底から涙をあふれさせる。いつまでも涙は止まることなく零れてゆき、月明かりが天頂から夜を照らす頃まで泣き続けていた。
その異変に気付いたのは、木窓の隙間から差し込む月光によって青い本が照らされているときだった。
「……光って……る?」
今となっては誰よりも一緒にいる時間が長くなった本だ。他の誰にも見えないようだけど、僕にとっては唯一の存在といっても過言ではない。それがいま、明らかに月光よりも眩く光を放っている。
涙を袖で拭いながら近づくと、本は青い光を放ち始める。だがその光は目を灼くこともなく、まるで僕を誘うように明滅を繰り返す。無意識のうちに本に触れると、本は勝手に開き、数ページ進んだところまで捲れて止まった。そして白紙だったはずのページには、文字が書いてあった。
【あなたは生きたいですか】
これまで一度たりとも文字の書かれたページを発見することはなかった。それは何度も何度も調べてわかっていること。何故今、文字があるのか、それもこのタイミングで。そしてその内容。
心はへし折られてしまったが、そのまま死にたいなんて思っていない。無能だって必死に頑張れば生きていけるはず、そう信じて頑張ってきたのに、こんなところで家族によって殺されるなんて馬鹿げている。
「生きたい!」
深く考えることなく、言葉が口から出た。こんな理不尽によって齎される死という結末を喜んで受け入れるほど僕の心は壊れていない。
【このままでは死にますよ】
僕の声に応えるように、本の文字が姿を変えた。その意味もわかってる。今の僕には戦う力は皆無だ。野ネズミ一匹をやっと仕留められる程度の子供ができることなんてたかが知れている。もし賊が侵入すれば、まともな抵抗もできずに殺されるだろう。
「そんなのわかってる! でもどうすればいいのか分からないんだよ!」
【それならば逃げましょう。それが現在出来得る手段です】
本がそう指示してくる。確かにこのままでは確実に殺されてしまうだろう。もしこの本に何か手立てがあるのなら、藁にも縋るつもりで信じてみてもいいかもしれない。何もせずに死ぬのなら、何か行動してからでも遅くはない。
そう考えてからの行動は速かった。鞄に衣類と道具類を詰め込み、ベルトにナイフと鎌を挿して本を手に取ると静かに扉を開けた。すると足元に月明かりを反射する金属の輝きを見つけた。
「金貨? もしかして昼間キースが来たときに落としたのか? それにこれ、通行証まである」
もしこの金貨があれば王都くらいなら乗合馬車で行けるはず。王都まで出れば無能な僕でも低級な冒険者くらいにはなれる可能性は高い。貧しくとも生きていくことはできるはずだ。そして通行証。これがなければメイビア子爵領から出ることもままならない。キースの奴、僕に自分の優位を見せつけるのに夢中で落としたのか?
「これは天の恵みと思ってありがたくいただいておこう」
金貨と通行証を懐に入れると、小屋の裏手から林の奥へと向かう。この林は普段から野ネズミ狩りで歩き回っているので詳しい。奥に進むと急な斜面に出たので、慎重に下りてゆく。その先には小川が流れており、川沿いにいけば街はずれの街道付近まで行ける。僕は月明かりだけを頼りに小川を進み、街道の傍の木の上で夜明けを待った。そして夜明けと同時に王都行きの乗合馬車に無事乗ることができた。
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「父さん、アルフレッドの奴が馬車に乗ったそうです」
「あれほどわかりやすいエサを撒いたのだ、あの無能なら即座に逃げ出すだろう」
「しかしいいのですか? 金貨一枚に通行証とはあの無能には過ぎた餞別だと思いますが」
メイビア子爵の邸宅、フリッツの執務室にフリッツとキースの姿があった。先ほど使いの者がアルフレッドの動向を伝えてきた。アルフレッドは監視されていたのだ。多少林の中を把握した程度では熟練の偵察要員にとっては児戯にも等しい移動手段で、小屋を出てからずっと尾行されていたことに全く気付いていなかった。
「いっそのこと始末してしまえばよかったのでは?」
「馬鹿をいうな、お前の属性が判明してすぐに始末してしまってはいらぬ疑いをかけられてしまうだろうが」
「ですが……あいつをこのまま野放しにするのは……」
キースは忌々しげな表情を浮かべる。彼にとってはアルフレッドは己の優位性を確かめるための都合のいい存在だった。アルフレッドが苦しめば苦しむほど自分が優れているということを実感できた。それ故にアルフレッドを逃亡させるというフリッツのやり方に不満を隠せなかった。だがフリッツはそんな息子の姿を見て、不敵な笑みを浮かべる。
「我々は何も知らん……もし奴の乗った馬車が万が一にも盗賊に襲われたとしてもな」
「父さん、それはどういう……」
「乗合馬車が盗賊に襲われるなどそう珍しくもあるまい。護衛に何らかの問題が起こることも無いとはいえん。我々は愛する息子を不慮の事故で失うという不幸を受け入れればいいだけだ」
「なるほど、それは不幸ですね」
二人はお互いの顔を見合わせて笑みを見せる。彼らの頭の中には既に、どうやって身内を盗賊の襲撃で失った不幸な親族を演じようかということしかなかった。まるで盗賊が馬車を襲うことが予定調和であるかのように。
あと一話、いけるか?