12.まっしぐら
まんまタイトル通りですw
時が止まった。だが僕たちの、ではない。目の前のネコ耳少女の、だ。
「お、お前……何したニャ……」
少女の振り下ろした爪は僕の眼前で止まった。だが完全に静止しているのではなく、小刻みに震えている。
少女は僕より若干背が高い。僕が同年代の人たちに比べればやや小さいのかもしれないが、僕がやや体を屈めたせいで、眼前には圧倒的な質量を持つ、たわわに実った二つの果実がその存在をこれでもかと主張してきた。
少女は必死に何かに抗おうとしている。その顔には明らかな動揺のようなものが見て取れる。どうやら彼女は背後に現れたモノを確認したいようだ、それも今すぐに。だが敵から一瞬でも目を離してはならないという基本概念がその動作を絶対にさせまいと抵抗する。その結果、少女の首は中途半端な位置で止まり、片目で僕を見ながら、もう一方の目で後方を探ろうとしているようだ。だが人体はそんなに都合よくできていない。僕を視界に収めようとすれば、必然的に背後を見ることはできない。だがどうしても見たい、でも目線を僕から外せない。そんな葛藤がはっきりとわかる。
少女がどうしても確認したいモノ、それは僕の詠唱により顕現した『ねこがまっしぐら』だ。どうやらアオイはこれを狙っていたらしい。
【極上まぐろ味です。売上ランキング三位です】
「売上って何? それに一位じゃないんだ……」
三位というところが少々微妙だが、今はその効果の絶大さに感心している。やがて少女の口からは大量の涎が溢れ出し、葛藤するもどかしさに琥珀色の大きな瞳にはうっすらと涙を溜めている。振り下ろそうとした爪は相変わらず小刻みに震えており、その振動が伝わり、必然的に僕の眼前の果実が揺れる。こんな間近で女性の胸を凝視したことなど無い僕にとっては、ある意味地竜よりも恐ろしい存在だ。
「あれは何ニャ……こんな美味しそうな匂い、初めてニャ……体の自由が利かないニャ……もしかして毒を盛ったニャ?」
【アルト様がそんな外道な手段を使う屑に見えますか? 見えると言うのならとんだ駄ネコですね。手懐けて癒しにしようと思っていたのですが……】
「癒しって……オルディアがいるじゃない」
【犬もいいですが……どちらかというとネコ派ですので】
いきなりのアオイのカミングアウトはどうでもいいとして、問題はネコ耳少女のほうだ。言うなればお預け状態のままの彼女は、自分でもどうしていいかわからない様子で苦しんでいた。だがそれは不意に終わりを告げた。
『ご主人様ー! これ美味しい! 美味しいよ!』
「あっ! この犬! それはアタシが目をつけてたニャ!」
少女が邪魔で見えないが、オルディアが少女の背後に現れたモノを食べているようだ。ぼりぼりと焼き菓子を齧るような音と、ほんのりとした魚のような匂いが鼻腔をくすぐる。少女はついに爪を振り下ろすことを諦めると、即座に背後のモノへと駆け出しでオルディアからソレを奪い取った。
それは小さな箱だった。その一角は壊れており、中身であろうウサギの糞のような物体がこぼれ落ちている。箱の表面には、とても綺麗で精緻なまるで本物と見間違うようなネコの絵が描いてあった。少女は無造作にその中に手を入れると、ほんの一瞬だけ逡巡したがすぐに一粒を口の中に入れ、恐る恐る噛み砕いた。
次の瞬間、少女の目は大きく見開かれる。そして箱の中に荒々しく手を突っ込むと、今度は一握り分を口に頬張り、満面の笑みを浮かべた。
【まさか犬までまっしぐらだとは思いませんでした】
「とりあえず……助かったんだよね」
「はぁ……アルト殿の力は底が知れませんなぁ……」
どこか呆れたような先生。見つめる先ではオルディアとネコ耳少女が箱を取り合いしている姿があった。
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(な、何が起こってるニャ……)
少女は突然動かなくなった自分の体に理解が追いつかなかった。目の前の子供が何かを呟くと背後に何かが現れた。それは彼女も把握している。体の自由が利かなくなったのは、そこから漂ってくる匂いを嗅いでからだった。魚のようなその匂いは、今まで嗅いだことのない美味しそうな匂いだった。
(今はそんなことに気を取られている場合じゃないニャ……でも……どうしても気になるニャ……)
今すぐ振り向いて駆けつけたい。だが眼前の敵は今ここで仕留めておかなければならない。でなければこれから先、あの理不尽な力が自分に向けられるかもしれない。そんな葛藤が自分の体を縛り付けているなどまったく気付いていない少女は自分なりの答えを出そうと必死に考え始める。
(ま、まさかこの匂いは毒ニャ? だとしたらあの子供は悪魔ニャ。魔族でもこんな卑劣な手段を使う者は外道とされているニャ……)
魔族は基本的に直接戦って結果を出すことを好む。呪いなどの手段を用いる者もいるが、それは何らかの目的のための手段である。もっとも自分たちよりも劣ると認識した者に対しては非道なことも平気で行うが。
だがそんな魔族でも忌避される手段がある。それは毒だ。蠍の魔物や毒蛇の魔物のように、毒を戦闘手段として持つ者がいるが、それらは受け入れられている。忌避されるのは、摂取することで作用する毒を使う者のことだ。
毒は誰でも扱うことができる。無力な者が強者を殺すことも十分可能だ。だがそれは使用者の実力ではない。用意した毒が強いのだ。本人の実力を重視する魔族にとって毒を使う者は弱者とされている。そして無差別に毒を使おうとする者は外道として蔑みの対象になる。彼女はアルトが何らかの毒を空気中にばら撒いたのではと考えていた。
(やはりこの子供はここで殺すべきニャ……ニャ?)
少女は改めてアルトへの殺意を漲らせる。と同時に、背後のモノへの執着心も湧いてくる。アルトの殺害を諦めれば背後で誘惑し続けているモノを確認できる。毒でなければ自分のものにできる。だが背後のモノを諦めれば確実にアルトを殺害できる。相反する二つの選択肢が彼女を極限まで追い詰める。
選択肢というものは少なければ少ないほど迷う。それはその選択を間違えた場合の精神的ショックが大きいからだ。彼女はそれを理解しているからこそ、この二者択一を即決することができなかった。背後から流れてくる、匂いという恐るべき見えない暴力を受け続けて、思考が麻痺しかけていたのかもしれない。それでも必死に瀬戸際で堪えていた少女の理性は賞賛に値するものだった。そこは末席とはいえ魔将の一人だけのことはある。だがそのぎりぎりの理性は崩壊寸前だった。
『ご主人様ー! これ美味しい! 美味しいよ!』
(なっ……どうしてあの犬が……味方に食べさせるなんて……もし毒なら味方もろともだってことになるニャ。でもあの犬は……何ともないニャ?)
毒ではないと確信できた上、その極上の匂いの元が横取りされそうになっている。その焦りは彼女の思考回路を完全に遮断した。もうあの匂いの元のことしか考えられない。即座に駆け出すと、人型の優位性を活かして箱を転がすことしかできない犬から奪い取った。
(ものすごくいい匂いニャ……もうこれが毒でも構わないニャ……)
少女の思考は完全に麻痺していた。ようやく念願のものと対面できる。恐る恐る箱に手を入れて一粒取り出したのはウサギの糞のようにも見える焼き菓子のようなもの。通常ならば訝しむ彼女だったが、もう既にまともな思考も困難な状況に陥っていた。ほんの一瞬だけ逡巡したのは、欠片ほど残っていた理性の必死の抵抗だったのだろう。だがそれもむなしく少女はそれを口にして噛み締める。
少女は嵐に飲み込まれていた。それは彼女の内側から発せられる嵐だった。かみ砕いたことによる食感、深く複雑な美味が口内を蹂躙する。それは旨味の嵐となって口内から食道を通り、内臓にまで至る。そして体の奥底から湧き上がる歓喜の嵐。旨味の嵐と歓喜の嵐は複雑に絡み合い、巨大な嵐となって少女を蹂躙する。それはとても甘美な蹂躙だった。
もう少女は止まらない。抑制の利かなくなった体は自然と箱の中に手が伸び、今度は一握りすべてを口内へと放り込む。先ほどとは比較にならないほど強烈な嵐が少女を襲う。甘美な嵐は少女の理性を、尊厳を、ありとあらゆるものを飲み込んでいくのだった。
ちなみにキャットフードは犬も食べます。うちの犬もそうですのでw
読んでいただいてありがとうございます。