18.あってはならないもの
蝶の人の蹴りが決定打となり、レイさんはその場に崩れ落ちた。誰もがこれで終わると考えていたが、現実はそう簡単に終わらせてくれないらしい。レイさんは顔に苦悶の表情をはっきりと浮かべ、弱々しく身体を捩らせる。先ほど飲んだ薬の副作用だろうか。
「アルト君、ここは任せてください。『聖浄化』ッ!」
エフィさんが苦しみ続けるレイさんに向けて浄化の魔法を使う。『聖浄化』は聖属性による浄化魔法で、呪いの類に抜群の効果がある。さらには鎮静化の効果もあり、高熱でうなされている人の治療に使うこともあるらしい。だが……レイさんの容態が変わることはなく、ずっと苦しみ続けている。
「どうして? 何で効果が無いの?」
「嬢ちゃん、レイを死なせてはいかん。レイにはあの薬の入手経路を話してもらわなければならん」
「それはわかっています。ですが……」
エフィさんが言葉に詰まるのは仕方のない事だろう。聖属性の浄化魔法はあらゆる属性の浄化魔法の最上位のもので、半ば強引に浄化をしてしまうくらい強力なものだ。これで対処できないのであれば、打つ手が無いかもしれない。
「呪いの類ではないとすると、これは毒? でも毒なら『聖浄化』でも毒消しの効果が見込めるはず……なのにどうして? 呪いでも毒でもない何かなの?」
「呪いでも毒でもない……じゃと?」
呪いでも毒でもなく、人の身体をここまで変質させてしまうものなどあるのだろうか? そしてその目的も不明だ。こんなにも反動の大きなものを好んで使いたがる者がいるとは思えない。
(ねぇアオイ、何か打つ手は無いの?)
【……対象を全快させる方法は存在しません。極力安静にして回復を待つ以外にありません】
(回復……治癒魔法は駄目なの?)
【この症状は特殊な物質による副作用です。毒物ではありませんが、極めて危険性の高いものです。体力の維持に努めて時間をかける必要があります】
(じゃあ治癒じゃなくて回復を主体にした魔法を使えば……)
【劇的な変化は望めませんが、危険な状態から脱することも可能です】
極めて特殊な物質という言葉の意味がわからないが、特別な毒のようなものなのだろう。確かに毒の種類によっては未だ解明されていないものもあり、毒消しの効果がないと書物にも記されている。そんな場合はとにかく体力の維持を優先し、本人の自然治癒力に委ねるらしいが、アオイもその方法しかないと言っているのだろう。
「エフィさん、もしかするとまだ知られていない毒なのかもしれません」
「まだ知られていない……だとすると体力を維持させることに専念したほうがいいですね」
「それなら儂のほうで治癒術師を用意しよう。回復魔法なら使える者もおおいはずじゃ。おい、早急に手配せんか」
倉庫の外で待機していたであろう御付きの人たちに指示を出すワン氏。治癒魔法を使える者は少ないが、回復魔法はそれなりに使える者がいる。むしろエフィさん一人に任せきりにするよりも大人数でローテーションを組んだほうがいい。
「では儂等は此奴の対処をせねばならんので失礼させてもらう。小僧、後で使いの者を行かせる。ちと話したいことがあるんでな」
「わかりました。僕たちはまだこの街にいますから」
失神して静かになったレイさんを御付きの人が数人で運び、最後にワン氏が言葉を残して出て行った。後に残された僕たちはしばらくの間無言で佇んでいた。人をあんな姿に変えてしまう薬が出回っている。レイさんほどの実力者でも欲しくなってしまうのだから、実力の伴わない冒険者や騎士見習いたちがその誘惑に勝てるとは思えない。しかも聖属性の浄化魔法でも対処できない後遺症……
「……アルト君、宿に向かいましょう」
「エフィさん……」
自分の魔法が効かなかったことに表情も暗いエフィさんは、それでも気丈に僕に声をかけてきた。聖属性魔法とはいえ、知らない毒に対して効果が無いのは仕方のないことだと思うが、そんなに簡単に割り切れないといったところだろうか。
宿への道すがら、僕たちの交わす言葉はとても少なかった。いつも天真爛漫なイフリールでさえ、レイさんの変貌を思い返して沈んだ表情を浮かべている。もしかすると自分が呪いをかけられていた時のことを思い出しているのかもしれない。あの時はエフィさんの浄化魔法で救うことが出来たが、今回のような薬を使われていたらと思うと背筋が凍る。
アオイの様子もどこかいつもと違うように感じた。一体この国に何が起こっているのか、得体の知れない不安に心を握りつぶされそうになる。今回もアオイのおかげで切り抜けることが出来たが、もし対処できないような状況に陥ったら……
そんなことを考える僕の右手を温かい感触が包む。見ればいつの間にか僕の右隣に来ていたエフィさんが僕の右手を握っていた。そこから伝わるのは柔らかな温かさ、それが僕の不安をゆっくりと溶かしてゆく。
「大丈夫ですよ、アルト君。私たちは……仲間でしょう? 独りで悩むことはありませんよ」
「そうだよ、お兄ちゃん」
「エフィさん……イフリール……」
そうだ。僕はもう独りじゃない。皆で力を合わせていけば、きっと困難にも打ち勝っていけるはずだ。きtっと……
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【……】
隔絶された漆黒の闇の中を揺蕩う一冊の青い本。アルトと契約してからは、普段はこの空間で待機しているアオイは、先ほどの男に投与された薬のおおよその成分を把握していた。
【成分のおよそ73パーセントをテストステロン類似物質に酷似していることを確認……】
テストステロン類似物質……つまりはアナボリックステロイド、筋肉増強剤として広く知られている物質だ。しかしアオイのデータベースの中にある筋肉増強剤には、あんな劇的な変化をもたらすものはない。
【こちらに現存している動植物に似たような効果を持つ存在が無いとは言い切れませんが……】
古くからの民間療法のようなものが存在する可能性は無い訳ではないが、それでも民間療法では純度が低くなる。明らかに誰かの手で科学的に抽出されたと考えたほうが妥当であるとアオイは判断する。しかしアオイのデータベースには正確な抽出方法は存在しない。彼女を作った存在が、そのようなものは不要として最低限のデータしか記録しなかったからだ。
しかし最低限のデータしか存在しなくとも、ひとつだけ決定的な事実がある。
【あれは存在してはならないものです】
基本的にアオイのアーカイブに現存している再現可能なデータは無害なものだ。多大な影響を齎すであろうものは設定時間を過ぎると消滅するようになっている。それはアオイを創造した者が大前提として組み込んだ安全装置とも呼べるものだ。そのまま残せば必ず望まぬ変化を招くことを危惧した末の対策だった。
もしアオイを含めた「記憶媒体」を、創造した者たちよりも進んだテクノロジーを保有した者が手にしたとして、どのような感情を抱くだろうか。きっとこんなカビの生えたような情報など意味が無いと鼻で笑うだろう。
だが遥かに遅れた、もしくは全く体系の異なる進歩をした文明の者が手にしたらどうなるか。そしてアオイの認識ではアルトの暮らす世界はお世辞にも進んだ文明とは言い難いものだ。
【確率としては天文学的に低いですが……】
アオイはとある可能性を危惧する。それは可能性としては小数点以下にゼロが天文学的数値ほど並ぶくらいに低いものだ。だが決して可能性がゼロになることがないのも事実。そもそもアルトとアオイが出会う確率が天文学的に低かったこともまた、彼女に搭載された超高性能AIが不安要素を払拭できない理由だった。
【その時は……私は……】
アオイは自らの内部に生まれた問いに対して明確な解答を算出することが出来なかった。否、解答を出すことは可能ではあったが、明確に解答を出してしまうことが、彼女の危惧をより現実に近づけてしまうと考えてしまったが故に、解答が出せなくなってしまったのだ。だがアオイはすぐにその問いにリソースを割くことを停止した。
【いえ……私はアルト様と共に在るだけです】
今のアオイはアルトを主人としている。ならば如何なる障害が立ち塞がろうとも主と共に打破するのみ。それこそが今の彼女の存在意義なのだから……
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