16.赤い蝶
「アルト君は……大丈夫なんでしょうか?」
エフィは単身でレイを相手にすることを決めたらしいアルトの身を案じる。彼の力を信用していない訳ではないが、今の状況はかなりアルトに不利であると思われた。イフリールの時は暴走する魔力を失わせることで決着がつくであろうことはエフィにも理解できたが、レイを相手にそこまでのことをすれば命を奪いかねない。ワン氏の依頼の結果命を奪うことになったとしても、ワン氏がある程度庇ってくれるとは思うが、それでもパイロン家の直系の人間を殺めたとなればアルトに対して個人的に刺客を送られる可能性もある。
「嬢ちゃんは安心して見守るんじゃ、それが小僧の力になる時が……きっと来る」
「はい。わかりました」
これから繰り広げられるであろう戦いの余波を防ぐためにワンがエフィたちの前に立つ。ワンの言葉を聞き、複雑な思いを飲み込んで言葉を返すエフィ。本来であればアルトと肩を並べて戦いたい彼女ではあるが、戦闘向きの力を持たない彼女はこの状況を受け入れる他はない。
ワンの言葉は今この状況を鑑みてのものではないことはエフィも理解できている。いずれアルトの前にはもっと困難な状況が訪れる。その時に傷ついたアルトを癒すことがエフィに求められている、ワンの言葉はそれを示唆していた。
自分は護られている。ならばその身をもって護ろうとする者を信じなくてどうする。かつて自分はそれが出来なかったために、苦しい思いを身に抱えることになった。自分を窮地から救い出してくれたアルトのことを信じて見守ることこそ、今の自分がしなければならないことだと改めて理解する。
「心配せんでも小僧はワシの思いを正しく理解しておる。その力の使い方もまた然りじゃ。安心せい、レイの奴が嬢ちゃんたちを狙うようなことはさせん」
ワンのその言葉に改めて自分の無力さを噛みしめるとともに、アルトの背中をじっと見据える。彼の身体をうっすらと青い光が覆い、同時に黒い靄のようなものが現れる。光すら通さぬ漆黒の闇だが、不思議なことにそこに恐怖を感じることはなかった。アルトの纏う青い光はエフィ以外には見えていないようだった。
黒い靄の中からゆっくりと歩み出てきたのは一人の男性だった。清潔感のある焦げ茶色の髪をした男性は、上半身裸で鮮やかな赤いズボンを履き、裸足である。しかし剥き出しの上半身は鍛え抜かれたことが容易にわかる引き締まった筋肉を露わにし、油断なく両腕を構えて進む。剃刀の如き眼光に見ているエフィも圧倒されてしまった。
「あやつ……出来る」
ほんの数歩、その歩みを見ただけでワンが男の実力を看破する。己の武を磨き上げるために愚直な鍛錬を積み重ね、それでも足りぬとばかりに様々な厳しい鍛錬を己に課した求道者の姿を垣間見たのかもしれない。男はレイの姿を視界に捉えると、リズムを刻むように上体を揺らしながら、ゆっくりと距離を詰めていった。
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現れたのは赤いズボンを履いた男性だった。蝶というくらいなので大きな虫が出てくるのかと身構えていたので、少々拍子抜けしてしまった。だがそれも最初だけで、戦いが始まれば僕の想像を遥かに超える光景が繰り広げられた。
レイさんの大振りのパンチを見切ったかのように軽やかなステップで躱し、勢い余ってバランスを崩したところへ左右の拳の連打が顔面へと叩き込まれる。肉を激しく打つ嫌な音が響き、レイさんの血飛沫が舞う。
「ぐっ……貴様……」
振り払うかのような剛腕を華麗に躱し続け、隙を見て連打を入れる姿は、あたかも蝶が乱れ咲く花々の間を踊るように舞うかのようだ。しかしその攻撃は本来蝶が持つはずのない苛烈極まりないものだった。両腕を上げて防御に徹し始めたレイさんを揺さぶるように左右にステップを切る様子は軽快な音楽に乗せて踊る舞踏のようで、攻撃をあらゆる方向から繰り出すことで防御の隙を作り出そうとしている。防御に徹するあまりに僅かでも対処に遅れれば、がら空きの部分に拳足の連打が襲い掛かる。
まさに一方的、力に頼る者を嘲笑うかのような華麗かつ強力な攻撃。体勢の崩れた箇所に正確無比の攻撃を放てるのは、攻撃を繰り出すための身体の作り方が違うのかもしれない。少なくとも今のレイさんように、怪しい薬によって急ごしらえされた暴力とは、力そのものの世界が違うと言っても過言ではないだろう。
「ま、まさか……この力が……敗れるのか?」
蝶の人はレイさんが防戦一方になっても攻撃の手を緩めない。いや、むしろ激しさを増している。防御する丸太のような腕の隙間から、正確無比な打撃が襲い掛かる。起死回生の一撃を狙おうにも、狙いの定まっていない大振りの攻撃は掠らせることさえも許されず、防御が外れた箇所に攻撃が集中する。
【そろそろフィニッシュです】
アオイの言葉が終わらないうちに、レイさんが一気に反撃に出た。否、反撃しようと動き出したが、その芽は儚くも摘み取られてしまった。全力の踏み込みからの剛腕の一撃を蝶の人は軽やかに躱すと、その勢いを殺さぬようにその場で回転する。無防備な腹部めがけて、蝶の人が後ろ向きに繰り出した蹴りが突き刺さる。ぶ厚い筋肉の鎧をものともせずにめり込んだ足は、内臓を保護するはずのあばら骨を容赦なく粉砕する。骨の砕ける耳障りな音が、薄暗い倉庫の中に響く。
「うぐ……おぁ……」
腹部を両腕で護るようにしながら、その場に跪くレイさん。もう反撃する力は残っていないようで、口から赤いものの混ざった唾液を垂れ流している。そんなレイさんの姿を見て、無造作に近づく蝶の人。まさかトドメを刺すのかと一瞬思ったが、現実はそうならなかった。
蝶の人は先ほどまでの険しい表情ではなく、柔らかな微笑みを浮かべてレイさんに手を差し伸べた。もう戦いは終わった、我々がこれ以上いがみ合う必要はないとでも言わんばかりに。
「もうこれで終わりにせい。レイ、貴様の負けじゃ」
どこか悲しみを感じさせるワン氏の言葉に、レイさんは意識を失ってその場に倒れ込んでいった。
元ネタはあのマーシャルアーツの達人です。詳しく知りたい方は「赤い蝶」と「スパルタン」で検索かけてみてください。「スパルタン~」での某ジャッキーとの格闘シーンは痺れました。
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