12.熊殺し
ゲートはいつものように強大な存在を生み出すべく蠢動する。兵隊熊はその異様な気配に攻撃の手を止めて距離をおいて様子を見ている。
【情報再現率を対象に合わせて修正……縮尺に補正。各パラメータを対象沈黙までの間のみ限定解除、基本データ比200パーセントまでの変更許可を申請……承認。リリース時間を限定解除期間と同期、再現率100パーセント、リリースします】
相変わらずその内容はわからないが、敵に合わせて色々と調整してくれていることはわかる。そして召喚の準備が整ったということも。その証拠に、漆黒のゲートの奥から次第に近づいてくる何かの気配が生まれる。こんな不利な場で、尚且つ変異種を圧倒できるだけの力を持つ何か。それがゆっくりと姿を現そうとしている。
「!」
僕とオルディア以外で即座に反応したのはワン氏だった。今まで見せたことのない鋭い目でゲートの奥を凝視している。オルディアが大人しいのは、僕が召喚した存在が自分に危害を加えないことを理解しているからだろう。そしてついにそれは姿を現した。
変異種にも匹敵する体躯はアオイの調整によるものだろう。鍛え上げられて引き締まった体に、動きやすそうな白い衣服を纏い、全身の肌の色は濃褐色。短く刈り込まれた黒髪を覆うようにバンダナを巻き、豊かな髭を蓄えたその顔はまさに覚悟を決めた戦士のようだ。白い衣服には僕にもわからない文字が書き込まれている。
刮目すべきは、髭の人は武器のようなものを何も身に着けていないことだろう。それどころか裸足でブーツすら履いていない。当然の如くその両手も素肌のままだ。着ている白い衣服は確かに生地は厚そうだが、強靭な防御力があるようには見えない。防御のための魔法的な何かがあるようにすら見えない。
【彼の武器は鍛え上げられた肉体その拳足、それ以外のものはありません】
アオイの言葉が彼が武器を所持していないのは間違いではないと教えてくれる。軽やかにステップを踏みながら変異種と間合いを取る彼の目が一層鋭さを増した途端、状況は動く。
『グアァア!』
『シッ!』
立木を軽々と薙ぎ払う変異種の剛腕が、彼のいた場所を通過する。それだけで突風を巻き起こしそうな一振りを紙一重のところで避ける彼。しかしそれは彼にとって想定内のことだったらしい。避けた後も全く体勢を崩すことはなく、構えを解く様子もない。
変異種は自分の攻撃が避けられたことに怒ったらしく、さらに追撃をかけるが彼はそれをダンスでも踊るかのようにステップを切り、時には鋭利な刃のような爪を手でいなしながら間合いを保つ。もしかして彼は僕たちが逃げるための時間を稼いでくれているのだろうか?
ちらりと後ろを見れば、エフィさんを庇うようにヘルミーナさんとイフリールが位置取りをして、ワン氏はさらに後方から状況を見守っている。彼を見る目が今まで以上に鋭さを増しているのが少々気にかかるが、今はそんなことにかまけている場合じゃない。
(アオイ、今のうちに逃げるよ)
【お言葉ですが、彼の戦いはこれからです】
アオイの言葉が終わるよりも早く、彼が動いた。目で追いかけるのがやっとなくらいの速さで踏み込むと、左右の拳を変異種の顔面へと叩き込む。さらに左右の蹴りが追い打ちとばかりに顔面へと吸い込まれていく。
兵隊熊に限らず、熊系の魔物の弱点は顔だと言われている。胴体は発達した筋肉に覆われていて、名のある名工の作った剣などでなければ両断するのは難しい。なので冒険者が熊系の魔物と戦う時には斧や槌のような破壊力のある武器で顔面を狙う、一撃離脱の戦い方をすることが多い。
『グアァアァア!』
『フッ!』
自分が攻撃されていることに怒り、自分を見失った変異種が闇雲に両腕を振り回すが、彼はそれすらも躱し、いなし続ける。変異種の猛攻を捌きながらも、的確に顔面に攻撃を入れ続ける彼。だがこのままこれを続けていくつもりなのだろうか?
果たして変異種のスタミナが通常の兵隊熊と同じなのだろうか。こちらのスタミナが切れてしまうようなことにはならないだろうか?
【戦いを長引かせるつもりはないようです】
アオイの言う通り、彼の動きが少しだけ変わった。剛腕を躱しつつ攻撃を入れてはいるが、まるで……牽制しているようにも見える。牽制しつつ、何かを狙っている……のか?
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召喚能力を持つという少年のことを聞いた時、初めは何とふざけた能力だと憤慨した。戦う者ならば己が磨き上げてきた技術をもって挑むもの。剣技や槍技、果ては魔法に至るまで、己が積み重ねてきたものの集大成により先へと進む者であり、決して他の誰かを頼って良いものではない。
見知ったエフィ嬢が親し気にしているのも気に入らなかった。エフィ嬢はかつてガルシアーノの養女で、武力に長けた者などいくらでも見てきたはず、何故こんな青瓢箪のような小僧を買っているのか理解できなかった。
だが魔物の大群を事もなく無力化した小僧の能力は、儂の考えていたものよりもはるかに恐ろしかった。一見無害に思える老人を呼び出したが、その真の姿は魔物すら子犬のようにあしらう魔人に違いない。あんなものを平然と呼び出す小僧の精神を疑った。もしあれが制御を外れ、懐柔した魔物を嗾けたらと思うと背筋が凍った。
そして小僧は山の中に今回の原因があると言う。この山にはあれほどの魔物たちが怯えるような存在などおらん。そんな強い魔物がいるのならば、このイートンにはもっと腕の立つ冒険者がたむろしているはずじゃ。しかし小僧の目は全く疑いを持っておらなんだ。結局儂は小僧の無言の圧力に圧されてしまったのかもしれん……
そして小僧の言葉は現実のものとなった。元になっているのは兵隊熊だろうか、しかし異様なまでに発達した筋肉は最早異形と化し、周囲の木々を軽々と薙ぎ払っておった。勝てるか、と聞かれれば勝てると答えるじゃろう。儂の持つ技術をもってすれば、軽々ととはいかんが、この異形を屠ることは決して難しくない。ただそう易々と奥義と呼べるものを使うことは出来んが。
再び小僧が呼び出したのは、独りの男じゃった。儂はその男を見た途端、大きな衝撃を受けた。その男は何の武器も持たずに異形の熊へと向かっていった。否、武器は持っていた。己の拳足を極限まで鍛え上げ、それは既に戦槌をも凌駕する武器へと変えていた。
打撃が異形を捉えるたびに、常人が殴り、蹴る時に出るとは思えない音が響く。異形の攻撃を躱し、往なし、隙の生じた顔面へと重い攻撃が叩き込まれる。異形の恐るべき膂力を気に掛けることなく繰り広げられるのは、死を体現した舞踏のようにすら感じた。
どれほどの打撃が叩き込まれただろうか、既に異形は立っているのがやっとの状態じゃった。しかしそれでも戦意を失わないのは獣の本能か、あるいは異形と化したことで箍が外れておるのか、あるいはその両方か、牙を剥きだし威嚇を続ける。
長く続くと思われた異形との戦闘は、次の瞬間に終わりを告げた。男が慎重に距離を測り放った右の上段蹴りは、異形の顔面を正確にとらえていた。勢いを緩めることなく振り抜かれた足刀の破壊力をまともに受けた異形の首は容易く折れ、あり得ない方向を見据える。巨体がゆっくりと傾き、大きな音を立てて倒れてもなお、男は構えを解かなかった。そして男は構えを解くと同時に……異形へ一礼した。
小僧の力がどんなものなのかを究明するのは難しいじゃろう。しかし儂はもう小僧に対する警戒を解いておった。あの男が最後に見せた一礼、あれは……死力を尽くした相手に対しての礼儀じゃろう。もしあの男が勝利を喜ぶことを優先したのならば、儂は小僧を見限っていたじゃろう。あれこそは武に生きる者が目指すべき頂の一つであるはずじゃ。
もし小僧の性根がねじ曲がっていたならば、あのような武人が現れることは無いじゃろう。真の武人とはそういうものじゃ。小僧のことを信頼するに足ると判断したからこそ、この場に現れた。あれほどの武人が己の誇りをかけてまで従うだけの何かを小僧が持っているに違いない。
さて、聞きたいことは山ほどあるが、まずはあの異形を持ち帰って調べるほうが先じゃな。あんなものが街の近くの山にいたこと自体が非常事態じゃ。教会の連中の動きもある上にこれとは、どうやら老骨がのんびり暮らすにはまだ尚早ということじゃろうな……
元ネタはもちろんあの空手家です。
映像については「爪をほとんど切ってあった」や「満腹で戦意が無かった」、「麻酔を撃たれて朦朧としていた」などの噂が飛び交いましたが、子供心に「クマを倒せる空手スゲー!」と興奮したのを覚えています。夢を見させてもらったのは事実ですから(年齢がばれますね)
読んでいただいてありがとうございます




