10.くま
アルト達が魔物の群れに遭遇する少し前、山の中では異様な光景が広がっていた。凶暴な魔物たちが我先にと逃げ惑っている中、一頭の巨大な魔物が周囲の魔物たちを薙ぎ払い、そして手あたり次第捕食している。
「如何ですか? この薬を使えばここまで強大な力を得ることが出来るんですよ?」
「凄まじいな……これが兵隊熊とは……」
少し離れた場所でこの状況を見守っているフードを被った二つの人影。声色からそれぞれ男女だということはわかる。男は自分の手の中にある黒光りする小瓶を弄ぶ。
魔物たちを蹂躙しているのは、一見すれば巨大な熊だということがわかる。だが問題はその熊が兵隊熊だということだ。兵隊熊は肉食の魔物だが、決してずば抜けた強さを持つわけではない。大きさも成人男性くらいで、捕食しているのは小型の魔物だ。腕に覚えのある冒険者なら単独で何とか対処できるくらいの魔物だ。
しかし今暴れているのは兵隊熊は似つかわしくない巨躯を持ち、巨木の如き四肢を振るい他の魔物たちを易々と屠っている。目には獰猛な狂気の光が宿り、他の魔物たちが反撃を試みるが分厚い筋肉の鎧の前に為す術もなく捕食されている。
「だが……これを人間に使って良いのか?」
「獣の知性ではこの薬に耐えられません。ですが……長きにわたり鍛錬を積んできた貴方なら制御できるでしょう?」
「しかし……」
「力が……欲しいのでしょう? 末端に追いやった者を見返すだけの」
「……わかった」
男は小瓶を懐にしまい込むと、暴れている兵隊熊にはもう興味がないとばかりに踵を返す。
「あの熊は……もうよろしいので?」
「構わん。あの連中への意趣返しくらいにはなるだろう。貴様にくれてやっても良い」
「そうですか。生憎私は実験材料には困っていませんので、遠慮します」
暴れている兵隊熊が街に現れればどれほどの被害が出るかわからない。しかし二人はそんなことを気にかける様子もなくその場を後にする。既に兵隊熊の周囲に生き残っている魔物の姿はなく、躯を咀嚼する耳ざわりな音だけが木霊する。既に他の魔物たちは逃げ出してしまったようで、虫の音すら聞こえない静寂に包まれている。全てを喰らいつくした兵隊熊だったモノは、未だ腹が膨れないとばかりに獲物を探し始めるが、既に魔物たちは逃げ出した後で、どこを探しても獲物は見つからない。
『グルルル……』
そしてそいつはある匂いに気付く。上質な獲物の匂いに……
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「本当にこちらで良いのでしょうか?」
「多分……そうです」
僕のすぐ後ろを歩くエフィさんは、魔物が全く見当たらないことに不安の色を見せながらも、しっかりとした足取りで進む。
「やけに静かですね」
「本当にいるの、お兄ちゃん?」
エフィさんの背中を護るようにヘルミーナさんとイフリールが続く。オルディアは僕のやや前で斥候役を務めている。さらに……
「確かにこの静けさはおかしいのう……」
ワン氏が健脚を見せつけるかのように軽々とした足取りで続く。どうしてこうなった……
「まさかアルト君一人で行くつもりじゃないですよね?」
オルディアを連れて山に入ろうとした僕の肩をエフィさんが掴む。女の子とは思えない力に僕の肩が小さく悲鳴を上げる。流石に何が待ち受けているかわからない山の中にエフィさんたちを連れていくわけにはいかない。ヘルミーナさんとイフリールにエフィさんの護衛に専念してもらえば、最悪の事態は回避できるのだから。
「エフィさんに何かあったら……」
「アルト君でも対処できない相手だとすれば、どこにいても危険なことは変わりません。もしアルト君が怪我をした場合、私なら治癒できます。だから一緒に連れて行ってください」
「アルト様、ご心配なされる気持ちはわかりますが、私たちは仲間なのですから、もう少し頼ってください」
「……わかりました、でも危険だと判断したらすぐに離脱してください」
仲間という言葉を出されると弱いのは、こうして傍にいる存在に飢えているからだろう。バーゼル先生も一緒にいることが多いが、どちらかというと先生は見た目のせいか仲間というより保護者のように思えてしまう。
という訳で、僕たちは全員で山の奥地へと向かうことになった。仲間が増えたことは素直に嬉しいが、そうなると僕とオルディアだけで動いていた時とは些か勝手が違ってくる。状況によって個々の役割分担が決まってくるはずで、連携が重要になってくる。そのあたりの訓練もしておかなければ……
『ちのにおいがするー』
「……どうやら近いみたいです」
半刻ほど入っただろうか、周囲に強引になぎ倒された木々の姿が見られるようになった。そして所々踏み荒らされた下草、そして風に乗って漂う異臭。オルディアはこれが血の匂いだと理解して、全身に緊張を漲らせる。
さらに進むと、そこには山の中とは思えない光景があった。木々は根こそぎ倒され、下草も踏みつけられて広場のようになっている。何より周囲に散らばるのは……
「……魔物ですね」
「……これだけの数の魔物が」
「……これを為した者は美食家を気取っておるのか……あまり美味くない部分は残しておるわ」
散らばるのは無数の魔物の手足、それも肉付きの少ない筋張った部位ばかり。簡単に数えてみてもざっと数十頭分はあるだろうか。もしこれを為した魔物が潜んでいるのなら、とても危険な状況に踏み込んでしまったのかもしれない。
『いっぴきいるー』
「え? 一頭?」
オルディアの報告に思わず耳を疑う。胴体と頭が無くなっている魔物の死骸は数十頭はある。これを一体の魔物が喰らったとしたら、どれだけの巨躯の持ち主だろうか。だが僕の疑問はすぐに打ち消された。僕たち目掛けて近づいてくる圧倒的な気配が、そしてやがて聞こえてきた足音が、尋常ならざる魔物が実在することを如実に語っている。そしてついに、そいつは僕たちの前に姿を現した。
「……熊?」
熊の魔物の存在は書物で読んだことがある。とても獰猛で危険な魔物が多いことも知っている。だが現れたそいつは……僕の知るいかなる熊の魔物よりも大きく発達した体躯を持っていた。
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