9.むぎちゃ
【目的完遂のために情報再現率を基準値より上方に修正……承認。各種パラメータ設定の変更を申請……承認。リリース時間は対象の沈黙までと設定、非殺傷を必須条項に設定……承認】
いつものようにアオイの難解な言葉の羅列を聞きながら、身体から魔力が抜かれる感覚を味わう。決して気分の良いものではないが、我慢できない程でもない。何より今は緊急事態、このくらいのことで弱音など吐いていられない。
【情報再現フェーズ1をクリア、フェーズ2へと移行。再現速度は現状を維持、使用者周囲への保護フィールド展開を申請……承認。再現フィールドの維持率は基準値をクリア、再現フェーズ2をクリア。リリースします】
僕の目の前に現れた漆黒のゲート。意思を持つかのように蠢動するそれからゆっくりと姿を現したのは、以前見たことのある巨大な老人だった。
『おうさまだー』
オルディアが嬉しそうに尻尾を振ってはしゃぐ。こんな緊迫した状況に不謹慎だと言われるかもしれないが、オルディアにとっても大事な存在だから仕方ない。何より彼がいてくれたから、僕とオルディアは大事な家族になれたのだから。
『たくさんの動物がいますねー』
大波の如き勢いで押し寄せてくる魔物の群れを見ながらも、彼は口調を変えることなく柔らかな笑みを浮かべている。彼の手にかかればどんな獣もたちどころに骨抜きにされてしまうだろう。だが彼に注視している獣は全体の半数くらい、残りは未だ暴走状態にある。
だがアオイは出来ると言った。この状況を鎮静化させる手段があると言った。ならばまだ消えることなく残っているゲートから出てくる存在があるはずだ。そして僕とオルディア以外が心配そうな表情で状況を見守る中、それは姿を現す。
「え? 女性?」
現れたのは女性が一人、でも屈強そうというよりはか弱いという表現がしっくりくるような初老の女性だった。大きな瞳と均整の取れた顔立ちは、若い頃はかなりの美しさだったろう。だが今何故こんな女性が? 腕は細くて戦闘向きではなく、かといって魔法のようなものを使うようにも見えない。現れた女性はただただ笑顔を浮かべている。
僕自身これからどうなるのか全くわからない。だが僕が理解するよりも早く、魔物たちが反応した。危険度の高いであろう肉食の魔物たちが一斉に動きを止めて彼女を注視したのだ。そして……僕たちのほうへと進行方向を変えた。草食の魔物たちは肉食の魔物が離脱したことで我に返ったようで、次第にばらけて大人しくなっていった。
「大変です! 危険な魔物が一斉にこちらに向かってきます!」
「へ、ヘルミーナ、きっとアルト君に何か考えがあるはずよ、おちついて……」
獣の国王に会って嬉しそうなオルディアと違い、彼のことを知らないヘルミーナさんは混乱している。エフィさんも混乱しているようだが、かろうじて今の状況が僕の手によるものだと理解しているようだ。その間にも僕たちとの距離を詰めてくる魔物たち、現れた女性はそれでも笑みを絶やさない。
『それでも私は動物が好きなんです』
迫りくる魔物たちを前に、場違いとも思える言葉を発する老女。明らかに魔物たちは彼女を狙っている……だがその牙が、爪が彼女の身体に届くことは無かった。
『元気いっぱいですねー、可愛いですねー』
彼女に襲い掛かろうとした魔物を次から次へと自分のほうへと引き寄せると、頭や腹をこれでもかと撫でる。しかもオルディアの時よりも威力が強いらしく、撫でられた魔物は皆仰向けになり腹を見せて恍惚としている。
『大きな猫ちゃんですねー、こっちは熊ちゃんですかー』
まさに蹂躙だった。彼の手に触れられた魔物は皆大人しくなっていく。それを見ていたエフィさんやヘルミーナさん、イフリールまでが若干顔を引きつらせている。ワン氏に至ってはただただ呆然としている。だがそれも仕方のないことだろう。
魔物を防ぐ手段として誰もが思い浮かぶのは、討伐してしまうこと。つまり殺すこと。ここに現れた魔物たちは強さは決してずば抜けたものでもないので、時間さえかければ対処可能かもしれない。だが彼のしたことは生け捕り、いや懐柔といったところか。混乱に陥った魔物たちを触れるだけで虜にするなど、少なくとも僕は聞いたことがないのだから、他の人たちにとっては信じられない光景だろう。
『おうさまー、なででー』
『よーしよしよし、お利口なワンちゃんですねー』
しばらくすると凶暴なはずの魔物たちが彼の周囲でのんびりとくつろぐというあり得ない光景が広がっていた。そしてオルディアは彼にお腹を撫でられて嬉しそうにしている。
オルディア、僕がお腹を撫でた時よりも喜んでないか?
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「と、とりあえず危機は去った……ということじゃな」
ようやくワン氏が我に返った時には、魔物たちは森へと返っていった。だが不思議なことに、森の奥までは行かずに入口あたりでうろうろしている。
「ですが……あの様子ではまだ何かあるのかもしれません」
「お嬢様、あの魔物たちはまるで……何かから逃げようとして混乱しているようでした。もしかしたら山の中に彼らが恐れる何かがいるのでは?」
「そんな凶暴な存在がいれば、ギルド経由で話が上がっていても良さそうなものじゃが……」
ワン氏の疑問は当然だ。そんな凶暴な存在がいるのであれば、イートンのギルドが対策を練らないといけない。しかし情報を逐一精査しているワン氏のところにも話が行かないなどあるだろうか? もしあるとすれば……直近に現れたということだ。
凶暴な魔物が獲物を求めて流れてくるという話はよくあることだ。だがそれでも目撃情報くらいはあってもおかしくない。移動中に家畜が荒らされたとか、旅人が犠牲になったとか、そういった話が全く出てこないこと自体が不自然極まりない。
「きっと山の中に何かいるんだと思います」
「ほう……小僧、何故そう言い切れる?」
「何故と言われても……勘のようなものでしょうか?」
ワン氏の鋭い視線が僕を捉える。確かに誰も山の中には入っていないので、それを確認した訳ではない。だが僕にははっきりとした確証があった。
【山の中腹に動き回るものがあります】
今しがたアオイが教えてくれた情報。魔物たちが混乱して逃げ出しているにも関わらず、未だに山の中にいるという。きっと魔物たちはそいつを恐れてパニックに陥った。だが僕にはそれを証明する術がない。誰もアオイの存在を認識できていないのだから。
「アルト君……あれだけの魔物が恐れを抱く何かが……まだいるんですか?」
「はい、間違いないと思います」
「ワン様、だとすればとても危険です。すぐに対策を練らないと……」
「じゃが確証もなく、目撃証言もない。そんな不確定な情報ですぐに動く訳にはいかん。小僧、そこまで言い切るからには、お主が確認してくるがよかろう」
「……わかりました、行ってきます」
こうなるだろうことは何となくわかっていた。危険だと主張しているのは僕だけ、その確証はどこにもない。流れてきた冒険者の言葉など、そう簡単に受け入れられるはずがないのだ。しかも冒険者たちを巻き込んでの対策となれば少なからずお金がかかる。もし僕の言葉が嘘だった場合、その費用は無駄になってしまう。領地を治める立場の人間であれば、この対応も仕方のないことだろう。
こうして僕はワン氏に言われるまま、山の調査に向かうことになった。今ここで放置すれば、いずれ被害が出るかもしれない。その被害者がエフィさんやヘルミーナさんになるかもしれない。そう考えただけで恐ろしくなってくる。だから……ここは僕が行くしかない。
【申し訳ありません、距離があるのと個体情報が少なすぎて正確に把握できていません】
(心配しないで、何かがいると教えてくれただけでも十分だよ)
山の中にいるのが何なのか、アオイでもそこまで把握できなかったらしい。つまり実際に確認しにいかなきゃいけないということだ。果たしてそれが何なのか。大丈夫、アオイがいてくれればきっと何とかできる。何とかしてみせる。僕の大事な人たちに危害が及ぶ前に……
元ネタはあの女優さんですが、某バラエティ番組(〇〇〇〇名鑑)も参考にしています。肉食獣が寄ってくるあの光景は衝撃でした。
読んでいただいてありがとうございます




