23.気絶
「う……うう……」
「イフリール! 大丈夫ニャ? 苦しいところはないニャ?」
「あ……リタ姉……うう……うわあぁぁぁ!」
目を覚ましたイフリールはリタの顔を見るなり抱き着き、人目もはばからず泣いた。リタも感極まったのか、自分も涙を流しつつイフリールの小さな体を抱きしめている。先ほどの絶望の色濃い涙ではなく、嬉しさが抑えきれずに流す涙はとても美しいと思う。
(アオイ、周囲に危険は?)
【学園敷地内に危険度の高い敵性個体は存在しません】
(そうか……ありがとう)
もう学園内に敵はいないようだ。危険度の低い敵はいるかもしれないが、それはエマ学園長やクレアさんが何とかしてくれるはずだ。とにかくこれで決闘騒ぎも終わり、結果は……相手の反則負けか無効仕合になるはずで、本来の目的である競売の結果は覆らない。となれば……
「エフィさん、これで全部終わりですね」
「アルト君……私のせいで今まで蓄えたものが……」
「かまいませんよ、そんなもの。お金よりもエフィさんのほうが大事ですから」
いくらお金があってもエフィさんの命に比べることはできない。もしエフィさんを助けなかったら、きっと僕は一生そのことを抱えて生きていくことになる。助けられたかもしれない命を見捨てたという足枷を嵌めながら。それなら出来ることをやるのは当然のこと、お金なんて再び冒険者として依頼をこなして溜めていけばいい。
イフリールの境遇も悲しいものだったが、エフィさんも突然犯罪者にされて、しかも競売の商品にされるという絶望を味わったんだ。誰かが手を差し伸べなくては最悪の結末を迎えていたはずで、偶々僕が救える立場にいて、その手立てがあっただけだ。
「改めてお礼を言わせてください、アルトさま。私を救ってくださってありがとうございます」
「……ちょっと待って、エフィさん、さまって何なの?」
「さん付けなんて不要にございます。正式に競売で落札したアルトさまは私の御主人様です。これが当然です」
「そんなのどうでもいいからやめて! もしやめてくれないなら主人として命令するよ! 今まで通りに接して!」
「……わかりました、仰せの通りに。ではアルト君、あらためてありがとうございます。あなたのおかげで私は命を繋ぐことができました。おそらくマクマードに落札されていたら、私は絶望の中で最期を迎えていたでしょう」
マクマードがエフィさんに向けていた執着は身の毛もよだつものだった。人間の持つ醜い欲をひとまとめにしたようなどす黒い欲望を向けられたら、まともな生活なんてできるはずがない。幽閉されていた僕だって辛い思いをしていたけど、絶対にその比じゃないはず。きっと僕の想像を超える酷い事もされていただろう。
何よりエフィさんは奇跡を起こした。聖属性でも上位に位置するはずの浄化をやってのけた。学園で色々と勉強していたことがようやく結実した、となればあんな男が欲望のはけ口にしていい存在じゃない。いきなり様付けとかとても驚いたが、とにかく今まで通りに接してもらおう。僕はそんなつもりでエフィさんを助けたのではないのだから。
「アルト様、私からも御礼を。エフィ様を救っていただき、誠にありがとうございます」
「ヘルミーナさんも気にしないでください」
エフィさんの隣で深々と頭を下げるヘルミーナさん。僕がエフィさんを助けようと思ったのは、見知った間柄だということもあるが、あのマクマード某の振る舞いが嫌な記憶を呼び起こしたからということもある。今はもう無関係になったが、かつて僕が幽閉されていた頃、しきりに僕に絡んできた弟の顔と重なって見えた。力無き者は蹂躙されて然るべき、そういう考えに染まった奴がどんな行動をとるかが容易に想像できたからだ。そして僕にもその血が流れている、そう思うといてもたってもいられなかった。
【アルト様はあのような者のようにはなりません】
(……うん、ありがとう)
もし僕が弟のような人間だったら、そもそもアオイは力を貸してくれるどころか出会うことすら無かったと思う。虐げられたことが良かったとは思わないが、アオイとの出会いは僕にとって一生守り通していかなければならない宝物だ。僕の行動が間違った方向に進めば、それは即ちアオイを穢すことに他ならないのだから。
「冒険者アルト、色々と訊きたいことはありますが……まずは私の、いや私たちの依頼を遂行してくれてありがとうございます」
「あれってどんな仕組みなワケ? 私全然理解できないんだけど?」
「二人とも、アルト殿はお疲れの様子。込み入った話は後でするといたしましょうか」
「バーゼル殿……わかりました。私たちは引き揚げますが、ここは後程デッカー家の検証が入りますので、あなたたちもすぐに出なさい」
先生に促されてエマ学園長とクレアさんがマクマード達を引きずって闘技場の外へと出てゆく。残ったのは僕とオルディア、エフィさんとヘルミーナさん、そして……ようやくひとしきり泣いて落ち着いたリタとイフリールだった。
「エフィ……だったニャ? イフリールから呪紋を消してくれてありがとうニャ」
「そ、そんな、私はただ無我夢中だっただけで……」
「アタシはもうイフリールとは生きて会えないと覚悟してたニャ。でもこうして以前のイフリールと再会できたニャ。エフィがいなければ助からなかったのは間違いないニャ、だから礼を言うのは当然ニャ」
「……苦しいのをとってくれてありがとう、エフィお姉ちゃん」
「お、お姉ちゃん……」
泣きはらした目を擦りながら、小さく頭を下げるイフリールの姿を見て言葉を失うエフィさん。こんな可愛らしい女の子の命が、存在が兵器に変えられたかもしれないという事実に衝撃を受けているのかもしれない。
「どうしてアタシがリタ姉で、エフィがお姉ちゃんニャ? ずるくないニャ?」
「だってエフィお姉ちゃんのほうがお姉ちゃんっぽいんだもの……それから……アルトお兄ちゃん、私を止めてくれてありがとう」
お兄ちゃん、その言葉の響きが僕の心の奥底に突き刺さる。何だろう、この感覚は。かつて僕はそう呼ばれていた時期があったが、当時はこんな感覚はなかった。うまく言い表せないが、かといって悪い感じじゃない。イフリールを助けてよかった、そう思える心地よい感覚だ。
「気にしなくていいんだよ、リタの悲しい顔も見たくなかったからね」
「アルト……ありがとうニャ」
「だから気にしないで……あれ? 急に眠気が……」
【出力限界を僅かに超えた故の休眠状態に入ります】
アオイの言葉が頭の中に響く。そうか、あれほどの術を未熟な僕が使ってしまった反動か。早くどこかで休まないと……僕の思考はそこで止まり、深い闇の中へ落ちていくような感覚に吸い込まれていった……
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「アルト君? しっかりしてください!」
「おそらく魔力の欠乏かと。お嬢様、アルト様をすぐにどこかで休ませましょう」
「お願い、ヘルミーナ。でもどこへ……」
「ならアタシが使ってる宿に連れていくニャ。ここだと色々うるさそうニャ」
「そうですね、わかりました」
アルト君が突然倒れたのはびっくりしたけれど、たぶんヘルミーナの言葉通りだと思う。あれほどの不思議な術、消費する魔力は決して少なくないはず。とりあえずリタさんの提案に乗ることにしましょう。私も魔法の使い過ぎで昏倒したことがあるし、今すぐに休息が必要だから。
「お兄ちゃん、大丈夫かな……」
「少し休めば元に戻ると思います」
「良かった」
アルト君の様子を見て曇っていたイフリールちゃんの表情が明るくなる。魔力欠乏ならしっかり休んで美味しいものを食べれば元に戻るはず。
「私、いっぱいお兄ちゃんを看病する」
「そうね、皆で看病しましょう」
「うん、お姉ちゃん!」
お姉ちゃん。一人っ子だった私がずっと望んでいた、けれど絶対に実現しないと思っていた呼ばれ方。ずっと弟か妹が欲しいって思っていたけれど、アルト君は弟扱いするには年が近すぎるし、何となくそんな気分になれない。お姉ちゃんと呼ばれることがこんなに素晴らしいものだなんて……もっとお姉ちゃんって呼んでほしいと願うのは悪いことなのかしら……
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「改めて礼を言うニャ、エフィ」
「そんな……畏まらないでください、リタさん」
「さん、はいらないニャ、リタでいいニャ。エフィはアルトの仲間で、イフリールを助けてくれた恩人ニャ。だからエフィも仲間ニャ。仲間にさん付けはおかしいニャ」
「ですが……わかりました。リタ、私は私の出来ることをしたいと願っただけですから」
宿の一室、再び頭を下げるリタを制するエフィ。アルトは別室で眠りに落ちている。
「あの力は以前からあったニャ?」
「それが……聖属性の術は初歩的なものしか使えなかったはずなんですが……私にも何が起こったのかわからなくて……」
「お嬢様、先ほどのは明確な術式によるものではないでしょう。きっと先天的な何かなのではないでしょうか?」
「それなら納得ニャ。でもエフィ、あの力は迂闊に出しちゃまずいニャ。もしかするとあの力は聖女クラスに認定されるかもしれないニャ。教会にばれたら面倒ニャ」
リタの話は先ほどのエフィの使った力へと移る。エフィ自身も術を使ったという認識はなく、ただイフリールを救いたいと強く願った末の出来事であり、本人にも理解できていなかった。
「昔お母様にああやって撫でていただいた時、とても安らかな気分になったんです。ですから……もう助からないならせめて安らかにと思っただけなんですが……」
「エフィの母親は教会の者ニャ?」
「いえ、貧民窟の娼婦でした。といってもお客はいつも決まった方しかいなかったようですが……」
「お嬢様……」
「ゴメン、辛い事思い出させたニャ……」
エフィの言葉を聞いて言葉を詰まらせるリタ。何かしら思案を巡らせると、今度はベッドの上でオルディアに抱き着いて眠るイフリールに視線を向ける。オルディアも特段嫌がる素振りを見せずに一緒に眠っている。リタは少し考え込むと、口を開いた。
「エフィはこれからどうするニャ?」
「私は……アルト君と一緒に行く以外の選択肢はありません。もう学園にはいられませんし……」
「ならお願いがあるニャ、イフリールを一緒に連れていってほしいニャ。アタシはイフリールを攫った奴を追うニャ、エフィとアルトが一緒ならイフリールも安心できるニャ」
「それはアルト君次第ですが……リタはそれでいいのですか? 久しぶりの再会なのでしょう?」
「このまま放置してたらまた狙われるニャ。なら里に連れていっても危険なのに変わりはないニャ。それに……ううん、何でもないニャ、とにかくお願いするニャ。アタシはすぐに出るニャ」
「わかりました、アルト君が起きたら話しておきます」
「頼むニャ」
それだけ言うと部屋を出てゆくリタ。扉が閉まるとリタの後ろ姿を見送っていたヘルミーナが口を開いた。
「あの方、相当な手練れですね。バーゼル殿と互角……いえ、それ以上かもしれません」
「リタが?」
「はい、ですが敵意が無いのは事実です」
「そう……なら私ももっと強くならないとダメね。このままじゃアルト君に護られてばかり」
エフィは思いを巡らせる。アルトの周囲にいるのは皆高い実力を持つ者ばかりだ。知名度の高いバーゼルはもちろんのこと、オルディアも本来の姿はオルトロスという強力な魔獣、ヘルミーナもメイド状態であれば高い戦闘力を発揮する。皆アルトと並び立って戦うことのできる力を兼ね備えている。自分だけままだまだ未熟なのだという自己嫌悪に陥りそうになるのをヘルミーナが優しく抱きしめる。
「お嬢様、焦ることはありません。お嬢様が仰っていたではありませんか、出来ることをすると。今はそれでいいんです、その気持ちさえ見失わなければ、いずれきっと……お母様もそれを望んでいるはずです」
「ヘルミーナ……」
エフィの心に温かいものが生まれる。今まではガルシアーノ家の養女としての責務に追われることで精一杯だったが、これからは違う。絶縁された以上、もはやただの人となった彼女はアルトと共に自由に生きることが出来る。まだまだ未熟ではあるが、アルトの為に出来ることをしていこうという気持ちは、彼女に新たな一歩を進ませるには足りるものだった。
「それに……お姉ちゃんになるのでしょう?」
「もう! からかわないで!」
ヘルミーナが優しく微笑み、エフィも笑う。果たして今までこんなにも純粋に笑えたことがあるだろうかとエフィは思う。これから先苦しいことは数えきれないくらい起こるだろうが、この思いがあればどんなことでも乗り越えられる、とも思う。そして二人はこれまでの時間を取り戻すかのように語り合い、宿の一室からは明るい笑い声が夜更けすぎまで聞こえていた。
「お客さん、夜はもう少し静かにしてもらえませんかね」
「はい……すみません」
翌朝、宿の主人から小言を言われてしまうエフィだった。
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