22.奇跡
「アルト、無事ニャ?」
「うん、こっちは無事に終わったと思う。そっちは?」
「やっぱりアルトの考えた通り、内通者がいたニャ。でも下っ端だから何の情報も持ってなかったニャ」
既に礼拝堂のような部屋から元の闘技場へと戻り、扉を開けてリタが入ってきた。リタが戻ってきた、ということは、つまりそういうことだろう。辛い仕事を押し付けてしまってとても心苦しいが、僕ではみすみす逃がすことになっていただろうし仕方のないことだ。こちらは……たぶんリタの頼みの通りに対処できたと思う。
「ごめんニャ、アルト。イフリールのこと……」
「イフリールなら無力化したよ、ほら」
「え……まずいニャ、すぐにイフリールから離れるニャ!」
ぐったりとしているイフリールは、エフィさんに介抱されている。もう戦う力はないはずで、リタが焦る意味がわからない。それよりも今介抱しなければ本当にイフリールが死んでしまう。
「イフリールに刻まれた呪紋はまだ生きてるニャ! このままだと呪紋はイフリールの命を触媒にして大暴走するニャ!」
「何だって!?」
見ればイフリールの全身に未だ残る呪紋は生き物のように蠢いて形を変えつつある。命まで使いつぶすなんて、まさに外道の使う魔法だ。しかもリタの話ではイフリールは戦いが嫌いだという。そんな女の子を無理矢理手駒に仕立て上げ、最終的にはその命さえ……
「何か方法はないの?」
「魔族の刻んだ呪紋ははとても強力ニャ、しかもこれはいくつもの術式が絡み合ってるニャ、並大抵の浄化では歯が立たないニャ。だから……せめてアタシが楽にしてやるニャ」
リタが懐からナイフを取り出す。このままではきっとこの学園を、いや王都そのものに甚大な被害を及ぼす魔力の暴走が起こる。それを防ぐにはリタの選択肢が最もうまくいく可能性が高いのは理解している。理解はしているが、決して納得できるものではない。こんな残酷な結末を受け入れられるはずがない。
だがどうすればいいのか、その手段が見つからない。浄化と言えば教会だろうが、教会絡みの内通者がこの事態を引き起こしたと考えると、門前払いされるのが目に見えている。
イフリールはまだ意識が戻っていないが、苦しそうな表情を浮かべている。せっかく助けられると思ったのに、このまま終わってしまうのだろうか……
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「う……うう……」
「大丈夫ですよ、もう戦わなくていいんです……こ、これは……」
エフィがイフリールの小さな体を抱きおこすと、未だ呪紋は残っていた。姿形を頻繁に変えながら、まるで今のイフリールを喰らうために最適な形状を探しているかのように蠢きながら。イフリールの素肌を通して、呪紋から伝わる禍々しい魔力に思わず顔を顰めるエフィ。
きっと元はとても可愛らしい顔だったであろう、しかし今は呪紋により歪に化粧されてしまっている。さらに戻ってきたリタという猫獣人の表情から、イフリールを救う手立てが無いことを悟るエフィ。再び自分の無力さに打ちのめされる。先ほどのアルトとリタの会話を拾った限りでは、この女の子は争いごとが嫌いだという。もしこの状況を認識しているのだとしたら、どれほど苦しむだろうか。しかも彼女の身体に刻まれた悪意の象徴は、未だその獲物を探している。おそらく次の獲物はこの少女自身なのだろう。
「どうして……どうしてこんな……」
幼い頃貧しい暮らしをしていたエフィにとって、理不尽な死というものは身近なものだった。しかしそれでも周囲の者たちは必至に生きていた。苦しいことや辛いことが多かったが、それでも喜びくらいは見つけられた。だがガルシアーノ家に拾われてお嬢様暮らしを始めてから、その格差に打ちのめされた。決してこの世界は平等ではないのだ、と。
かつての自分たちが宝物のように感じた小さな幸せは、いとも簡単に毟り取られてしまうものなのだと。力なき者、心優しき者がより狙われやすいと。そして今、理不尽に生き方を、命を歪められて破滅に向かおうとしている少女がいる。それを仕組み、ほくそ笑む者がどこかにいる。エフィは教会の教義などに興味はないが、もし慈愛に満ちた神がこの世界にいるのならば、哀れに消えゆく命に救いの手が差し伸べられないのかと苛立つ。しかし彼女が苛立ったところで何が変わる訳でもない。そんな無力な自分により一層悲しみが沸き上がる。
「ごめんなさい……わたしでは……」
苦しむイフリールの頬を優しく撫でながら、エフィは自分が何も出来ないことを謝罪する。ならばせめて、かつて自分の記憶の中にある母の温もりを感じた時を再現しようと試みる。朧げな、しかし幸せだった母との時間。仕事を終えて疲れていたであろう彼女の母は、甘えてくるエフィを拒むことなく、優しく受け止めてくれた。
せめて優しい時間の中で終わってほしい。そう考えたエフィは、涙を零しながらイフリールの顔を、身体を、全身を蝕む呪紋を撫でる。せめてほんの僅かでも苦しみを軽減できれば、との思いからの行動だった。
自分がまだまだ無力であることは理解している。それでも何か、ほんの僅かでも助けになりたい。その一心でイフリールの身体を優しく撫でるエフィは身体の奥に、暖かいものを感じた。とても柔らかくて、しかしはっきりとした強さも感じる暖かい何かは、次第に彼女の中で大きくなり、はちきれんばかりに膨れ上がる。
(何かしら……でも……嫌じゃない……)
彼女自身も経験したことのない不思議な感覚は、嫌悪を呼び起こすようなものではない。むしろいつまでも包まっていたいと思わせるものだ。エフィはその暖かさを感じたまま、イフリールの苦しみを少しでも和らげようと撫で続ける。あたかも我が子を愛おしむ母親のように……
「あれ? エフィさん? 呪紋が……」
「はい?」
「呪紋が……消えていくニャ!」
不意にかけられたアルトの声にイフリールを見ると、エフィが撫で続けた場所から呪紋が……消えている。それどころか手が触れていない場所の呪紋までもが、まるで何かから逃げるように蠢き、そして消えていく。呪紋が消えていくにつれてイフリールの顔から苦しみが消え、すべての呪紋が消える頃には安らかな寝息をたてるまでになった。
「奇跡ニャ! 呪紋の魔力を感じなくなったニャ! イフリールを助けてくれてありがとうニャ!」
「く、苦しい、です」
「エフィさん、すごいよ! おかげでイフリールは助かったよ!」
「ア、アルト君……」
リタに力いっぱい抱きしめられながらもエフィにはまだ自分が何をしたのかがよくわかっていなかった。ただはっきりしているのは、エフィが何かをしたおかげでイフリールが呪紋から解放されたということ、そして……
(やっと……アルト君の笑顔を見れます……)
何よりもただ護られるだけではなくなったことへの安堵だった。
読んでいただいてありがとうございます。




