20.まよえるこひつじ
闘技場全体にうっすらと靄がかかり、次第に強くなっていく。いつものような召喚のゲートが現れることなく、靄は闘技場全体を覆いつくす。手を伸ばした先すら見えない程に靄に包まれているが、特別不安感は生じない。
【データ構築順調、縮尺を特定領域に限定、使用済みデータの廃棄ルートの確立を申請……承認。再現時間を対象の無力化までに設定、対象以外への影響を遮断します】
アオイの声が継続して響き、それに伴い闘技場の靄がゆっくりと晴れていく。一体何が起こるのか、僕にもわからない。だが今までにない発動までの時間の長さは、とても高度な術であることを予感させる。
【データ構築完了、再現率99パーセント、発動いたします】
「……何これ」
靄が晴れた時、闘技場はどこにもなく、薄暗い礼拝堂のような部屋へと変わっていた……
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アルトがイフリールと対峙し、何かの術を発動させたのはエフィにもわかった。アルトの身体をうっすらと包み込む、透き通った青い何か、だがそれは決して悪いものではなく、むしろアルトを護ろうとしていると感じた。
(とても綺麗……でも水属性の青さじゃない。あれはいったい何なの?)
聖属性を持つエフィには他者にはない能力があった。それは属性魔力の色を見えるというもの。とはいえただ見えるだけであり、それが直接何かに影響を齎すことはない。戦闘を主とする者であれば敵の属性が見えることは大きなアドバンテージになるが、戦うことを好まないエフィにとっては意味のない能力だった。
アルトを包む青い何かから湧き出た靄が闘技場全体へと広がり、やがて完全に視界を閉ざす。強大な戦闘力を持つ敵がいる状況で視界を奪うなど自殺行為に等しいが、不思議と危機感を感じなかった。
「エフィ嬢、傍におりますか?」
「はい、大丈夫です」
「これはアルト殿の術の一端でしょう、そこを動かないように」
『いっしょにいるからだいじょうぶー』
「あなたも私を護ってくれるんですね」
姿は見えないが、バーゼルの声がエフィの緊張を解し、足元に柔らかな獣毛を擦りつけるオルディアの感触に安堵する。アルトの力は以前も見たが、こんな術は見たことが無い。それは他の者たちも同じようだった。
次第に靄が晴れていき、全容が明らかになると、誰もが言葉を失った。至る所に血肉が飛び散り、凄惨な赤い装飾を施されていた闘技場はどこにもなく、薄暗い礼拝室のような部屋へと変わっていたからだ。
「これは……何が起こっているの?」
「教会の礼拝堂っぽいけど、教会のはもっと下品で派手だから違うワケ。理解?」
エフィも教会について一通り学んでおり、ここが教会の礼拝室ではないことは即座にわかった。失神しているマクマード達を引きずりながら、エマとクレアがエフィの傍へとやってきた。博識なエマでも、冒険者経験豊富なクレアでも、今起こっている現象に理解が完全に追いついていないようだ。
「ここは見守るしかありませんな」
「バーゼル殿……わかりました」
「アルト君の力、見極めさせてもらうから」
薄暗い部屋の片隅で固唾を飲んでアルトの背中を見守る一同。周囲を見れば見るほど異質な光景だ。中央には木製らしき粗末な長机と長椅子、そこにイフリールが座っている。イフリール自身も何がどうしてこうなっているのかを理解できていない。それもそうだろう、先ほどまで一方的に攻撃していたはずが、いつしか椅子に座らされているのだから。
イフリールの正面には磔にされた男性の像がある。決してスマートとはいえない、下腹の出た無精ひげだらけの男性の像は、静かに眠っているようにその目を閉じている。
『迷える子羊よ、祈りなさい』
『う? あ? あー……』
男性像のすぐ横に、一人の初老の眼鏡姿の男性が立っている。全身黒づくめで、柔らかな物腰とは裏腹に眼鏡の下の眼光は鋭い。静かな圧に気圧されたのか、イフリールは暴れることなく座っている。しかしそれも一時のこと、理解不能であれば焼き尽くしてしまえばいいとばかりに再び全身に炎を纏わせる。いや、先ほどとは明らかに炎の強さが異なる。先ほどまでは本気ではなかったということか。
『あああぁぁ!』
イフリールの放った炎が男性像とその横の男性に襲い掛かる。が、その業火にも礼拝室の内部は全く焦げることなく、男性もまた無傷である。さらにイフリールは炎をまき散らすが、何かに護られているかのように届くことはなかった。
「あれは邪教の司祭? でもあんな服装の宗教は存在しません……」
「あの炎魔族の炎が全く効いていないってどういうワケ?」
効いていないというよりも、そもそも攻撃自体が打ち消されているような状態だった。果たしてあれほどの攻撃を、しかも自分たちを含めて周囲に全く被害を出さないなど、エマは知らない。博識なエマが知らないのだから、この場にいる誰もが知らない。まさに未知の力、当然ながらそれを行使するアルトに向ける視線に畏怖のよなものが混ざり始める。
「アルト君、頑張って」
ついエフィが言葉を漏らした。しかしそこには畏怖の感情など微塵もこもっていない。かつての自分もまた、アルトに対して同じような視線を送ってしまった。命の危機を救ってもらったにもかかわらずだ。そのことをずっと後悔していたエフィだからこそ、ここで再びアルトにあの時のような思いをさせることは許されないという決意の表れだった。
アルトは術に集中しているせいか、エフィの言葉に反応を示さないが、像の傍らに立つ男性司祭が僅かに微笑みを浮かべたようにも見えた。術を行使するアルトが決して孤独ではないと知り、安心したかのように……
『祈りなさい』
『ああああぁぁぁ!』
男性司祭の度重なる言葉にも、暴走を始めたイフリールは耳を貸さない。通用しないとわかっていても、いや、通用しないことが理解できていないのかもしれない。ただ闇雲に猛烈な炎をまき散らし続けている。それがどれくらい続いただろうか、状況は突如変わった。
「像が……動く?」
おそらくそれに気付いたのは護られているエフィだけだろう、他の皆はイフリールの攻撃に目が向いていた。だから気付けた、磔にされた像がゆっくりと動き始めていることに。しかしそれはとても緩慢なもので、鈍重という言葉がしっくりくるものだった。先ほどの猫獣人の女性が言っていたが、イフリールの弱点は水属性、しかしここに水に関わるものは存在しない。あの像による物理攻撃が如何に強力なものだとしても、それでは無力化ではなく殺してしまいかねない。
像はゆっくりと両腕を動かし、頭の上で大きく円を作るような動きを見せた。その顔にはいつの間にか微笑みすら浮かんでいる。しかしその腕の動きは止まらず、やがて胸の前で大きく交差させる格好になった。そして像の表情は微笑みから一変し、イフリールの憤怒の形相が可愛らしく見える程の怒りの顔になった。そして……
この場の誰もが想像もできない現象が起こった。
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