朝の日課
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」
二人の呼吸音だけが、早朝の学園に響きます。
風で木の葉が擦れる音と鳥のさえずり声は、耳の奥へとは届かず、どこかへ聞き流していました。
日が昇って間も無くの時間帯には、昼間の学園からは想像出来ない静けさがあります。
「フランお嬢様、今日はお体の調子が良く無いのですか? ペースが落ちてきました」
「ハッ、ハッ、ハッ…… だ、大丈夫。ハッ、ハッ、ハッ…… もう少しペースを上げます」
侍女のニコルは、学園の離れにある宿舎に寝泊まりして、学園にいる間もわたくしのお世話をしてくれます。
そして、本来は侍女の仕事では無いのに、こうして朝のランニングにも付き合ってくれるのです。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」
確かに今日は調子が良くないようです。
いつもよりも息が切れているのが分かりました。
「あと少しです。そのペースを保って最後まで頑張りましょう!」
「ハァ、ハァ、ハァ…… はいッ。ハァ、ハァ、ハァ」
ニコルが励ましてくれます。
彼女の細身の体の、どこにそんな体力があるのでしょう。
わたくしは、返事するのにも精一杯です。
足が重くて、前に進もうとしても思うように動きません。
寒さもいつも以上に感じて、手足の末端の感覚が失われていくようです。
「フランお嬢様、もう少しです!」
「ハァ、ハァ、ハァ…… 」
今度こそ返事もできず、わたくしはただ頷きました。
景色も殆ど目に入りません。
いつの間にか、ゴール地点の近くまでやってきたようです。
「寮が見えてきました! 頑張りましょう!」
「ハァ、ハァ、ハァ…… 」
最後には、ニコルに手を握ってもらいながら走りました。
最近では、もう少し走れるようになったはずなのに、どうしてでしょうか。
情けなくて、目が熱くなってしまいそうです。
「フランお嬢様、ゴールです。よく頑張りました」
「ハァ、ハァ、ハァ…… ありがとう、ニコル」
やっとゴールに辿り着きました。
実際には精々20分弱でしょうが、今日は特に長く感じました。
わたくしは地面に横たわりたい衝動を抑えながら、腿に手を置き、呼吸を整えます。
一歩自室の外に出れば、たとえニコル以外に誰も見ていなくたって、わたくしは【侯爵令嬢】なのですから当然のことです。
「フランお嬢様、今日はいつもより調子が良くないようですが、昨夜はよくお眠りになられましたか?」
「ありがとう、ニコル。でも、心配しないでください。昨日は少し興奮して眠れなかっただけです」
「やっぱり! フランお嬢様はいつも頑張り過ぎです! もっとご自分を大切にしてください!」
見上げたニコルの目に涙が浮かんでるのを見て、わたくしはびっくりしてしまいました。
「あ、えっと…… 本当に、大丈夫ですわ。そう言ってくれるのはお兄様とニコルだけです。いつもありがとう」
「いいえ、そんな滅相もありません!」
ニコルには、本当に感謝しています。
ニコルがいなければ、こうやって朝のランニングだって続けられなかったと思います。
「でも、フランお嬢様。くれぐれもお体にはお気をつけください」
「えぇ、もちろんです。では、そろそろ行きましょうか。わたくし汗だくで、早く着替えたいので」
「あぁ、失礼しました! お体が冷えないうちに着替えに行きましょう」
実家でしたらお風呂に入るのですが、寮のお風呂の時間は決まっています。
わたくしはニコルと共に、一度、寮の自室まで戻りました。
着替えを済ませると、食堂での朝食の時間まで、少しだけ時間がありました。
「フランお嬢様、お茶をどうぞ」
「ありがとう。うん、いい香り」
すかさず、ニコルがお茶を出してくれます。
火魔法と水魔法の両方に精通していなければ、キッチンもないところで、こうも簡単にお茶を用意することは出来ません。
「流石ね、ニコル」
「フランお嬢様にお仕えする者として、当然です」
「まぁ、わたくしはあなたが誇らしいわ」
ニコルは最初毅然としていましたが、我慢できずといったように破顔して、はにかみました。
「ふふふ。お褒めに預かり光栄です、フランお嬢様」
「うふふ」
わたくしはニコルが大好きです。
ニコルは、わたくしには勿体無い侍従です。
ニコルが入れてくれたお茶は、香り高くて、心が落ち着きました。
「わたくしもニコルぐらい美味しいお茶を入れたいわ。今度、教えてくださいな」
「それは嫌でございます、フランお嬢様」
何となしの発言ですが、ニコルに否定されて、わたくしは驚きました。
「それは、どうしてですか?」
「それはですね…… フランお嬢様が美味しいお茶を入れられるようになれば、私の仕事が無くなるからでございます」
「まぁ、それは困りますね。うふふ」
ニコルとの二人きりの時間は、本当にわたくしの癒しの時間になっています。
できることなら、ずっとこうして部屋でお喋りしていられたなら……
その時、
「コン、コン、コン」
とノックの音が聞こえました。