第7話
◇
「だからすぐに帰りましょうと言ましたのに」
破流姫の部屋で、居室の大きな机の上で、世界地図を写し描きしながら、三杉はそう零した。
「だが楽しかっただろう?」
確かに楽しかった。久し振りにギルドへ行けたし、華青にも会った。とんでもない問題に首を突っ込む羽目になったが、済んでしまえば滅多にない経験ができて面白かった。落ち込むことの方が多かった気もしないでもないが、それもやっぱり済んだことだ。
「二度はありませんからね。これに懲りたら少しはお淑やかにして下さい」
入り組んだ北方の海岸線は大変だ。何度も紙をめくって、下の地図の線を確認しながら写し取って行く。
「こんなことぐらいで負けるものか。知識は経験して得るもののほうが素晴らしい価値がある」
自国の地図を写し描きする破流姫がそう強気で言った。
「姫様には必要のない知識です」
ばさりと切って捨てると、屁理屈が返ってきた。
「必要のない知識などこの世にない」
あまりにも正論な答えに、思わず納得してしまった。感心して破流姫を見る。
三杉には細かい世界地図を押しつけ、自分はやや簡単な自国の地図を描いていた。簡単とは言え、国内の詳細な地図を完成させるのはかなり面倒な作業だ。世界地図の方が形だけをなぞり、国境、山脈、大河など、大きなものを大雑把に描き入れれば済む。どちらがよりマシかは、破流姫の作業を見たら何も言えない。
「休むな。終わらないぞ」
三杉に目も向けず、手を動かしたまま破流姫が言った。
終わらなくても叱られるのは自分じゃない。そう思ったが、破流姫が叱られればその腹いせは自分に回ってくるのだと思い至って、黙って続きを描いた。
「姫様、宿題はご自分でやらなければ意味がないのでは?」
話題を変えてチクリと責めると、またもや屁理屈が返ってきた。
「これは単に私の学力を伸ばすためのものではない。考えてもみろ。こんな量をひとりでこなせるわけがないだろう? だから、これは私の総合的な力を試す宿題なんだ」
何のことだかよくわからないが、きっと教師の思惑とはまるで見当違いの方向へ向かっているに違いなかった。
「総合的な力、ですか?」
脱力覚悟で訊いてみた。
「つまりは権力だ」
手を止めずに物々しい言葉を放った破流姫を、まじまじと見た。
「私がいかに人を使って迅速に宿題を終わらせるか、それを試しているんだ。適材適所に割り振ればものの数日で終わる。誰が何を得意としているか、そしてそれを本来の仕事に支障なくやらせる。ただ命令して丸投げするのでは駄目だ。いかに快く引き受けてもらうか、それが問題になっているんだ」
ものすごい解釈だが、そう言われると、なるほど、と納得してしまいそうになるから怖い。
「では、ほかの宿題も誰かが肩代わりを?」
「そうだ。数学の計算問題は料理人のロシェ、詩の創作は侍女のクラリー、隣国で採取した花についての論文は父上、そのほかすべてを割り振った」
さらりとものすごいことを言われた気がしたが、聞かなかったことにした。
「三杉は細かい性格だからこういうのが性に合うだろう? 私も頭を突き合わせてやれば問題はないよな?」
自分も一緒にやるのだから文句はないだろう、という意味なら大いに問題ありだ。
「姫様、私が思うには、先生たちは姫様の学力を見るために宿題を出したはずです。どれほどの宿題が出されたのかはわかりませんが、無断欠席した分の予習と復習、それに多少の意地悪を込めた量なのではないでしょうか?」
破流姫は初めて視線を三杉に向けた。ただ、視線だけを向けたので目つきが悪い。
「意地悪か。そうか、この私に意地悪を仕掛けたのか。あの教師ども、よくもやってくれたな。全員まとめて城から叩き出してやる」
やると言ったら本当にやりそうで、三杉は慌てて発言を取り消した。
「違います! 私の間違いです! 姫様が城を開けていた分だけの勉強です、きっと。姫様の力ならわけもなくこなせる量です、多分」
自分の失言で教師たちを一斉に解雇されては、彼らに謝っても謝り切れない。責任も取れない。間違いでしたと、すぐさま頭を下げることならいくらでもできる。罵倒されることだって慣れている。
「きっととか、多分とか、随分適当だな」
そう嫌味を言われても平気だ。
「申し訳ありません……」
この一言で許されるならいくらでも言える。言い過ぎて口癖だと思われているのは否めないが。
「お前の十八番は聞き飽きた。どうでもいいから早くそれを仕上げろ。まだ次があるからな」
案の定、どうでもいい扱いをされた。しかも世界地図には手を付けたばかりだと言うのに、他にもまだ宿題が待っているらしい。
「頑張ります……」
改めて世界地図に向き直った。
◇
「ふぅ」
ようやっと輪郭線を描き終え、三杉は目頭を押さえて椅子の背にもたれた。
途中で少々お座なりになり、それを目敏い破流姫に指摘されて後戻りしてしまった。二度手間になるくらいなら手抜きをするんじゃなかったと反省をしながら、自室に戻ってもせっせと描き続け、二日目にして陸地の輪郭線だけは終わった。この後は山脈や大河、湖などを描き入れ、色付けをし、国々の名称も記入して行く。
まだ半分も終わってない……。
これが終わっても次の何らかの作業が待っている。それが何なのかはわからないが、どんな面倒な作業でも黙って引き受けるしかない。それで裏切りが許されるのだったら、難しかろうが手間がかかろうが、寧ろ喜んでやらせてもらう。
三杉は凝り固まった肩を回し、大きく背伸びした。そこここの関節がパキパキと小気味いい音を立てた。
そう言えば華青はどうしただろう?
近衛隊長の禎那に連れて行かれ、それっきりになっていた。地図にかまけてすっかり忘れていた。
明日、様子を見に行ってみよう。
目も肩も腰も、今日はもう無理、と言っているから、華青は明日に回した。
さぁ、寝ようかと立ち上がった直後、いきなり部屋の扉が開いた。驚いて振り向くと、目の前に華青の姿が迫っていた。
「な、何だよ、いきなり。びっくりするじゃないか」
飛び上がった心臓が痛いほど大きく胸を叩く。両手で押さえて宥めつつ華青に抗議したが、華青は怖い顔で三杉の胸倉を掴んだ。
「アイツの弱点を知ってるか? 教えてくれ」
「あ、アイツ? 誰のことだよ?」
「禎那だよ。あのおっさんの弱点は何だ?」
「禎那様? 何で禎那様のことなんか……」
近衛隊長とのあいだに何かがあったようだ。それも華青を怒らせるような不快な何かが。
訳も分からず、おろおろとする三杉に焦れたのか、華青は舌打ちして突き放した。機嫌の悪さが力に籠められていて、三杉はよろけて机にぶつかった。華青は構うこともなく、寝台に座り込んで頭を掻きむしった。
「クソッ。アイツにだけはどうしても勝てねぇ」
どうやら打ち合いは禎那の勝ちだったようだ。
「禎那様は近衛隊の一番上の方だからな。華青一人じゃそうそう勝てないだろうよ」
「だから弱点はないかって訊いてんだよ」
埒が明かなくて卑怯な手に出るらしい。それもまたひとつの方法だが、そんな手を使ってまでもなぜ勝負を仕掛けるのだろうか?
「どうして禎那様に勝ちたいんだ? 負けたっていいじゃないか。あの人は近衛隊長なんだから、華青の上司になる人だぞ?」
「ならねえよ。俺は城を出て行くんだからな」
そのわりには兵士に支給されている制服を着こんでいる。どこからどう見ても城の近衛兵だ。
「良く似合ってるよ、その服」
華青は自分の格好を見下ろしてから、憮然として言った。
「仕方ねぇよ。前に着てた服、お前が破ったんだから。それに何日も着てられないし。洗濯場の姉ちゃんに洗ってもらって、繕いも頼んであるんだ。それまで着るものがないから、モリスに借りた。アイツ、いい奴だな。何くれとなく気使ってくれるよ」
昨日の今日でこの城にすっかり馴染んでいるようだった。渋々ながらも近衛隊の制服に袖を通せば、仮初めでも立派に近衛兵だ。
御世辞じゃなく、そう言ってやると、華青はますます嫌な顔をした。
「やめてくれ。勤め人なんてガラじゃねぇよ」
「すぐに慣れるよ。みんないい人たちだし」
実際、三杉は人間関係で苦労したことなどなかった。厳しい人も優しい人も、楽しい人も物静かな人もいる。でも意地悪な人はいない。腹の中までは見通せないが、妙な派閥があったり、誰かの足を引っ張ろうと隙を窺っている人など見たことはなかった。
どこにでも大なり小なり人の諍いはあるものだが、この国の人たちはみんな穏やかで明るい。国王からして親しみのある人だから、おのずと国民も朗らかなのだろう。
「お前はいいよ。美人の嫁さんと暮らせるんだからな」
厭味ったらしくそう言われた。
「な、何言ってんだよ。嫁さんなんて……」
嫁などと言う言葉がまるで似合わない、破流姫の凛とした美しい姿が咄嗟に浮かび、三杉は瞬時に赤くなった。
「まだ渋ってたのか? 往生際の悪いヤツだな」
三杉の動揺などもう取り合う気もないらしく、華青は冷たく言い捨てた。
そうは言われても単純に喜べないのだから、往生際が悪かろうが、臆病風に吹かれようが、あるいは優柔不断になろうが仕方がない。
他人事だから軽く言えるんだ、と恨めしく思った。
「俺はあのおっさんと取引した」
三杉のことなどさて置いて、華青が言った。
「ここの兵士、全員ぶっ倒せば逃がしてもらえる」
「は? どういうことだ?」
全員ぶっ飛ばすとは穏やかじゃないが、それ以前に、まだ逃げる気でいたらしい。往生際が悪いのはお互い様だ。
「おっさんと決闘したんだけどよ、まぁ、いい線は行ってたんだけど、僅差で負けちまったんだ。腹が立つからあの二人の兵士に八つ当たりしてやった。こっちはちょっと手こずったけど、俺の勝ち」
隊長にはやはり勝てなかったようだが、近衛兵に勝てるとは大したものだ。三杉ではきっと無理だ。この城に来てからというもの、剣を振るうことなどほとんどなく、あっても時折身体を動かす程度だ。実戦の中に身を置いている華青とは、力の差が大きいようだ。
ものすごく負けたような、遠く引き離されたような気がした。
「あのときやっておけば今頃外にいるんだけどな。お前が、あいつらは腕が立つ、なんて言うからどれほどのものかと思ったけど、まあまあだったぜ」
三杉には腕が立つと思えたのだ。華青がまあまあと言うなら、華青は三杉よりもはるかに実力が上だ。
かつては肩を並べて仕事をしていたと言うのに、何という体たらく。本気で片耳の宝石を返さなくてはならないのかもしれない。
そう思うのと同時に、闘争心も、ほんのわずかだったが芽生えた。
これでは駄目だ。忙しさを理由に鍛錬を怠っていれば、いざというときに破流姫を守れない。そして、もしも城から放り出された場合、すぐに以前の仕事に戻れない。片耳のダイヤに恥じないよう、心身共に鍛え直さなくてはならない。
三杉は密かに決意した。