第三話・其の五
《 第三話・其の五 》
「………」
分厚いカーテンの引かれた薄暗い部屋に引きこもってからというもの、日課になっていた溜息すら出ない。自己嫌悪もあるレベルを超えると、考えること自体が面倒くさくなるらしい。
ベッド脇の冷たい床に膝を抱えて座っていると、顔近くの空中で、呆れ果てたコルカの声が聞こえた。
『…ったく、いつまで落ち込んでんスか? 兄貴が悪いわけじゃねーでしょう。むしろ、こっちは被害者だって胸張ってもいいと思うッスよ?』
喋るたびに火の精霊の尻尾の炎が明るく輝き、
「――む、胸っ!?」
その単語で、思い出してはいけない感触が蘇る。
柔らかくて弾力のある、温かな膨らみ。
ちょうど手のひらに収まるぐらいのほどよい大きさ。
忘れたくても忘れられないその記憶は、脳だけでなく指先に刻み込まれるようにして残っている。そのせいで、少しでも気を抜くと、エンドレスであの一件を思い出してしまう。
(……わ、私はどうすればいいのだろうか…)
こともあろうに、女性の胸を触ってしまった。しかも、主である人物の胸に触れるなど、絶対に許されない行為だ。
たとえ、それが自分の意思ではないとしても、何かしらの責任を負わなければならない。それなのに――肝心の七糸ときたら、こともあろうに、引きこもったラビィ相手に、責めるどころか労わるような言葉をかけてくるのだ。ドア越しに、何度も。毎日のように。
これなら、メアを相手にしているほうが、まだマシだ。彼女は直情的で容赦がないが、七糸のように真綿でひたすら包んでくるような息苦しい気遣い攻撃はしてこない。
(…ナイト殿は、無駄に優しすぎるのだ…)
部屋に引きこもってからというもの、心配そうな七糸の声が聞こえてくるたびに、胃がキリキリと痛みだし、心が奈落の底へと落ちていくのを感じる。
(……駄目だ。考えれば考えるほど、鬱になる)
頭では、わかってはいるのだ。
こんなところに引きこもっていたところで、何も変わらない。七糸は気にしていないのだから、何もなかったような態度で接すればいいのだということくらい。
問題なのは、七糸の不用意な行動というよりは、ラビィの心にある。
(――…忘れなくてはいけないとわかっているのに、何故、こうも繰り返し思い出してしまうのか…)
思い浮かぶのは、あのときの光景。怖いくらいに鮮明に蘇る、感触、声、表情、白い手足。それと――とてつもなく大きな罪悪感と、わずかな期待。
(……何故か、今でも、ときどき考えてしまうのだ)
七糸が、両性具有などではなくて、ごく平凡な少女であればいいのに、とか。
花嫁姿の似合う、可愛い女の子のままでいてくれたらいい、だなんて。
それが、リシリーの魔法の影響なのはわかっている。それでも――今でも、その感覚が胸に残っているのはどうしてだろうか。それも、強い願望として。
だから、引きこもった。
今の心境では、とてもではないが七糸を男として扱うことなんかできない。それどころか、主として敬う気持ちすら持てない。何故なら、あの瞬間――魅了魔法の影響下とはいえ、一瞬でも、七糸に強烈な好意を抱いてしまった。しかも、その余韻が未だに続いているらしく、七糸を前にして平常心でいられる自信がない。
「…一体、いつになったら治るのだろう…」
あのメアすら魅了したほどの、強力な魔法。その影響を引き摺っているのは間違いないが、どうにも七糸のことを考えると平静ではいられない。扉越しに声を聞くだけで、意味もなく、ドギマギしてしまう。どうしようもなく胸が騒いで、じっとしていられなくなる。
『――はあっ。兄貴、いつまでもウジウジとしてねーで、いい加減、ここから出るッスよ。どうせ、あの男女との契約は切れてるんスから』
ふわふわと目の前を飛ぶコルカの発言に、ラビィがムッとする。
「…何度も言うようだが、コルカ。ナイト殿との契約は、切れてなどいない。その証拠に、ナイト殿を暴走したリシリーからお助けする際、身体が軽くなった。それはつまり、ナイト殿との契約が正常に働いているということだ」
引きこもってからというもの、コルカは、何とかして七糸とラビィを引き離したいらしく、あれこれと意見してくる。そのなかで、最も強く言ってくるのが、主従契約の無効化だ。
コルカは、ものわかりの悪い子供を叱るような口調で訴える。
『だーかーらー、兄貴とあの男女の交わした契約そのものが、最初から不自然だったんスよ! 思い出してみるッスよ! あのとき、何があったか』
「…あのとき…?」
コルカの真剣な瞳を見つめ、ラビィは記憶を辿る。
竜が契約を結ぶ際に必要とされる儀式――それは、形式張ったものから、簡易的なものまで様々存在する。しかし、竜族にとっての契約は、他者を守護したいという本能を満たすと同時に、自己の能力を高めることができるため、たいていの竜は完全な形での契約を望む。もっとも、それが意にそぐわないものだった場合、ごく簡潔にすませることもあるが――ラビィが結んだのは、完全に近い形のものだった。
半ば脅迫に近かったとはいえ、契約すると決めた以上はきっちりしないと気がすまない性格なので、それはごく自然な流れだったといえる。
(――だが、ナイト殿はこちら側のイキモノではないから)
異世界人である彼との契約が、安全にかつ完璧に行われたかと問われると、はっきりと大丈夫だとは言いきれない。
実際、七糸との契約の折、違和感がなかったわけではないのだ。
契約するにあたり、まず初めに必要なのは、以前、メアが言っていたように、竜族を平伏させる行為。それは、契約するにあたり、必要不可欠な最低限の儀式である。ただ、平伏といっても、土下座させたり屈服させる必要はない。片膝でも地につかせてしまえばいいのだから、さほど難しくない。もちろん、それだけでは儀式を完了させることはできないのだが。
(…竜族を縛るのは、あくまでも、主の血と言霊だからな)
竜を支配するためには、その二つは欠かせない。
契約主がその血を竜の額に与え、呪縛の言葉を刻む。大雑把に言えば、それだけで契約は完了してしまう。
(…だが、あのとき、ナイト殿は)
メアに言われるまま指先を針で突き、小さな血の玉を浮かばせた七糸は、それをラビィの額へ落とし――そのあと、普通ならば、ただ一言。我に従え、と言えばよかったのだ。そうすれば、何事もなく儀式は終結するはずだった。
それなのに、七糸は何も言わなかった。申し訳なさそうにこちらを見つめるばかりで。
これでは埒が明かないと思い、とりあえず何か言ってほしいと言ったら、彼は困ったように曖昧な笑みを浮かべて、こう言った。
――えっと、じゃあ、ふつつか者ですけど、これからお願いします…でいいのかな?
思えば、この時点ですでに小さな違和感は感じていたのだ。
七糸は、どこかおかしい。価値観の違い、育った環境の差異もあるだろう。だが、それだけでは語れない何かを、確かに感じ取ったのだ。
(…おそらく、あのときの言葉が悪かったのだ)
竜を縛るために契約主から与えられる、最初の言葉。それは、何を置いても優先すべきことを命じるのが普通だ。だから、以前の契約主の令嬢は、こう言った。我が国、我が領地、我が民を守るために戦いなさい、と。
しかし、七糸が放ったのは、あまりにも抽象的すぎる内容だった。そのせいで、契約主である彼に対してどうあるべきかの指針が何一つ持てないでいる。そう考えると、契約は未だ完成には至っておらず、不充分なまま続いているのかもしれない。
(――だとしても、私にとっての主はナイト殿以外、存在しない)
竜族は、契約主を守ることで、己の能力を高める生粋の戦闘種族。そして、騎士とは、主の絶対的な守護者にして、忠実なる従僕。
そんな二つの性質を併せ持つラビィは、契約主である七糸に尽くすことでしか己の存在意義を見出せない。キールケのように、自由気ままで、自分本位な生きかたができないからこそ、七糸の存在は、ラビィにとっては神様並みに大事な存在といえた。それなのに…。
(……私は、取り返しのつかないことをしてしまった)
よりにもよって、敬い守護すべき相手に、不貞を働くとは。絶対にあってはいけない出来事だ。しかも、それだけでは飽き足らず、自分を男だと言い張る彼の主張を無視して、女の子扱いするなんて、主従関係を無視した愚行といえよう。
コルカは、考え込むラビィを正面から見つめて話を続ける。
『…おいら、ずっと心配してたんスよ。兄貴があの男女と契約するって決めたとき、ヤバいことになるんじゃねーかって』
「……何だ、それは?」
確かに、完全な契約ではなかったかもしれないが、これまで不都合なことは何一つ起こっていない。七糸が優しすぎてたまに不安になるくらいで。
しかし、長年の付き合いである火の精霊は、目をすがめて言う。心中の不安を表すように、ポッポッと尻尾の炎を揺らしながら。
『――…おいらたち精霊は、肉体を持たないぶん、余計に相手の気配や精神状態に敏感なんス。だから、あの男女との契約のときに、やめたほうがいいって忠告しようとしたんスよ。けど、結局、メア様に強く脅されて何も言えなくって……やっぱり、あのとき、メア様に殺されても忠告すべきだったんス。そうしてたら、きっとこんなことにはならなかったッスからね』
「? 婉曲な言い回しをするな。つまり、お前は何が言いたいのだ?」
コルカは性格上、何でもズバズバ口にするはずだが、今回はやけに言葉を濁している。いつもの彼らしくない様子を心配しつつ訊くと、コルカはわずかに尻尾の炎を小さくしてポツリと呟いた。
『――あの男女は、どうにも得体が知れねーってのに、兄貴には警戒心ってモンがねーでしょう? だから、不用意に近づいて、痛い目を見るんじゃねーかとヒヤヒヤしてたんスが……案の定、引っ込みのつかねーことになってるじゃねーッスか』
「痛い目? 別に、ナイト殿には何もされていないぞ?」
メアにはしょっちゅう苛められているが、七糸にはむしろ優しくしてもらっていると思う。
すると、コルカは、不思議そうに首を傾げるラビィを心底心配しながら、
『……伊達に、ラビィの兄貴と一緒にいたわけじゃねーッスからね。おいら、薄々感じてたんスよ。兄貴があの男女に対して、主従関係以上の好意を持つんじゃねーかって』
「主従関係以上の好意…?」
ますますわけがわからない。
コルカが何を危惧しているのか。何故、七糸を嫌うような発言を繰り返すのか。
その答えが、次の一言であっさりと解明された。
『…要するに、兄貴があの男女に恋するんじゃねーかって予感があったんスよ。おいらたち火の精霊は、イキモノの感情、特に激情に敏感ッスからね。あの男女と兄貴が契約するって決めた瞬間、こりゃ、ヤバいことになると直感したんス。何せ、竜族にとって、契約者への恋情は命取りになるッスからね。だから、おいらは早くここから離れるべきだと言ってるんスよ。今なら、たぶんまだ間に合うと思うッスから』
心配そうな顔を前に、ラビィはぽかんとした。
「…こ、恋、だと? 私が、ナイト殿に…? 何を言い出すかと思えば、お前までそんな馬鹿話を信じているのか?」
まさか、親友と呼べる間柄のコルカまでもがラビィが七糸に片想いしていると誤解しているだなんて思いもしなかった。確かに、リシリーの媚薬効果のある魔法刺繍の件では、いろいろあったが――今は、これまでと変わらず七糸に対して邪な気持ちは抱いていない、はずだ。
すると、コルカが宙を蹴り、ぽふっとラビィの頭の上に着地した。
『単なる馬鹿話ですめば、いいんスけどね。けど、おいら、兄貴のことは誰よりもわかってるつもりッス。だからこそ、忠告してるんスよ。これ以上、あいつの傍にいるべきじゃねーって』
「――だから、何故、お前までそんなことを言い出すのだ? 付き合いが長いのだから、私がナイト殿をそういう目で見ていないことくらいわかるはずだろう?」
呆れつつ、コルカの思い込みを正そうとするが、彼は頑として譲らない。
『わかってねーのは、兄貴のほうッスよ。何とも思ってねーのなら、何で部屋に引きこもってるんスか? 何で、契約してからというもの、毎日毎日、あの男女のことばっかり考えて悩んでるんスか? まるで、それ以外は眼中にないみたいに』
「そ、それは、ナイト殿が私の主だからに決まっているだろう。守護すべき相手のことを常に考えて行動するのは、騎士として当たり前のことではないか」
『でも、前の主人のときは、そんなじゃなかったッスよ。少なくとも、今みたいに四六時中思い悩むなんてことはなかったッス』
「それは――…ナイト殿があまりにも頼りないというか、危なっかしいからであって、それ以上の理由は何もないぞ」
そう。前の主だった令嬢は、確かに優しかったが、七糸の優しさとは質が違う。公私混同せず、領民を慈しむ一方で、凛然とした厳しさを併せ持っていた。しかし、七糸は、ただ無闇に優しくて、甘いだけ。隙ばかり多くて、見ているほうがハラハラする。
だから、自分が何とかしてやらなくてはと思うのだ。
おそらく、主従関係がなくても、そう思ったに違いない。
竜とは、騎士とは、男とは。
目の前の弱者を守るべきだと思うから。
しかし、そんなラビィの意見は、あっさりと一蹴された。
『…そんなのは、屁理屈ッスよ。少なくとも、おいらからすりゃ、ラビィの兄貴は、あの男女に惚れてるようにしか見えねーッスもん』
「だから、何故、そうなる? 張本人である私が違うと言っているのだから、違うに決まっているだろうが」
どこまでも頑なに否定するラビィの様子に、コルカが何とも意味深な溜息をついた。
『…はぁー。わかったッスよ、その件はもう追及しねーッス。ただ、これだけは言っとくッスよ? 当分の間、おいらは兄貴と契約しねーッスからね』
唐突な発言に、ラビィの目が点になる。
「…? どうして、そんな話になるのだ? だいたい、今現在、私とお前は契約しているではないか」
『――ったく、何、寝ぼけたことを言ってんスか。兄貴が、あの男女に触ると契約が切れるって教えたばっかじゃねーッスか。もう忘れたんスか?』
「…? そういえば、そんなことを言っていたような…」
七糸のピンチを前にして、すっかり忘れていた。屋敷から逃げるとき、咄嗟にコルカの名前を呼んだのは、コルカとの契約破棄によって魔法が使えないことをわかっていたわけではなく、単に、七糸に意識を集中させていたために、代わりに魔法を使ってもらったにすぎない。
コルカは、ひどく面倒くさそうに顔を歪ませた。
「はーっ。じゃあ、忘れついでに言っとくッスけど。精霊界の掟では、同じ人物との契約は三回までしか許されてねーんス。だから、あの男女が精霊契約を破棄し続ける限り、おいらはもう兄貴とは契約できねーんスよ。すでに二回契約して、二回とも破棄されてるッスからね。三度目は――最後は、慎重にいかねーと』
「三回…? そんな掟があったか?」
初耳だ。
そんな重要な話、一度でも耳にしていれば、頭のどこかに残っていてもおかしくないというのに、聞いた記憶そのものがないのはどういうことか。
(…しかし、それが本当なら大変なことになる)
精霊契約を破棄するということは、ラビィが主従契約を切るというのとはわけが違うのだ。
たとえば、竜族における主従契約の破棄は、主従関係がなくなり、潜在能力が発揮できなくなる程度の変化しか起きないが、精霊契約の場合、完全に精霊魔法を使えなくなる。そのうえ、時間の経過と共に絆が薄れ、互いに接触することが難しくなってしまうという副産物までついてくる。つまり、コルカとの契約が切れた状態で長時間経過すると、二度と彼には会えなくなるということだ。魔法に関しては、他の精霊と契約すればいいだけの話だが――ラビィにとっては、そんなことは考える余地もない。コルカ以外のどの精霊とも契約する気がないのだから。
(――それにしても、奇妙だ)
二度も精霊契約を強制的に破棄されたというのに、実感がないだなんて。
コルカが嘘をつくはずがないので、疑うのもおかしな話だが――それでも、七糸が原因で凶事が起きているなんてことは信じたくない。
その意思を感じたのだろう。コルカが小さな口を開いた。
「そんなに信じられねーのなら、試しに魔法を発動させてみるッスよ」
「! そ、そうだな」
確かに、それが一番手っ取り早い。
精霊との契約がなければ、魔法は使えない。竜族単体で扱える魔法は、ほんのわずかしかないのだ。それも、並みの竜では扱えない特殊なもののため、使える者は竜族全体の一パーセントにも満たないだろう。
「…よし、やるぞ」
ラビィは、いつになく緊張した面持ちで、手のひらに意識を集中した。いつもなら、それだけで炎の玉が現れるはずなのに――どういうわけか、炎を出すどころか熱さえ感じられない。
「? どういうことだ?」
こんなことは、初めてだ。
深呼吸をしてから何度も試みるが、やはり、すべて不発に終わる。
「――こんなこと、あるはずが…」
さすがに焦りを感じてきたラビィを尻目に、コルカが目を閉じ、指を鳴らした。
パチン――。
指を弾く軽やかな音と共に、周囲に複数の炎の玉が浮かぶ。
オレンジ色の温かな光が部屋中に広がり、茫然としているラビィの表情を照らし出す。
『これでわかったッスか? 今の兄貴は、魔法が使えねーんスよ』
じわりと滲む、柔らかな夕焼け色の炎。それはとても身近で見慣れたもののはずなのに、今の自分にはひどく縁遠く感じられる。
「…どうして、こんなことに…」
独白するラビィの頭の上で、コルカが短い足であぐらをかいた。
『…これで、ようやく事態が把握できたみたいッスね。それもこれも、あの男女のせいッスよ。まあ、おいらとの契約が駄目になったとしても、兄貴は他の竜より強いッスから、簡単にやられたりはしねーだろうッスけど』
「――そういう問題ではない」
わざと気楽な声で言うコルカの言葉を、ラビィがぴしゃりと遮る。
「魔法が使えないことよりも、もっと重要なことがある。それは、コルカ、お前自身がよくわかっているはずではないか」
いつになく厳しいラビィの口調に、コルカはちょっとバツが悪そうにうつむいた。
『――わかってるッスよ。おいらは、普通の精霊と違って、兄貴からの魔力供給がなけりゃ長くは生きられねーッスからね。でも、それが理由で、あの男女と離れろって言ってるわけじゃねーんスよ? 確かに、おいらだって自分の生命は惜しい。けど、それ以上に、兄貴の不利益になるような事態は避けたいんスよ』
「…コルカ。私のことよりも、自分自身をもっと大事にすべきだと何度も言っているだろう」
竜でもヒトでも精霊でも。種族を問わず、生命は何よりも重く、大事なものだ。世界にたった一つしか存在しない、かけがえのないものだから。
初めてコルカと会ったとき、彼は、死にかけていた。ときどき、あるのだ。精霊が生まれる際、何かしらのアクシデントに見舞われ、生まれ損なうことが。
生命力も、存在感も感じない、実体のない何か。精霊としての能力どころか、己が何者かすら理解できず、誰にも看取られることなく消えていく存在。
それを最初に見つけたのはキールケで、保護したのはラビィだった。
ちょうどキールケと知り合い、よく話すようになった頃だから、今から百年ほど昔になるだろうか。当時のラビィには別の契約精霊がいて、その精霊から、生まれ損なって死んでいく可哀想な精霊の話を教えてもらった。竜族の間でも、死産として生まれる子供はいるが、それでも、誰にも望まれない生命などない。そう考えると、何と寂しくて悲しい話なのだろうか。あまりに不憫がるラビィに同情したのか、これまでいろんな町を旅してきた経験のあるキールケが教えてくれた。成功するかどうかはわからないが、生まれ損なった精霊の生命を繋ぐ秘術があるのだと。
そして、その秘術を行ったおかげでコルカは火の精霊としての本来の姿を手に入れることができたものの、ラビィからの強大な魔力提供がなければ存在を維持できない体質になってしまった。そのため、ラビィは、元々契約を結んでいた精霊と別れることになった。
それからというもの、コルカは張り切ってラビィのために獅子奮闘してくれている。
「――すまない、コルカ。私がお前の忠告に従わなかったせいで、お前を危険な目に遭わせることになるとは」
契約破棄は、コルカにとっては生命の危機に等しい。そのことを知っていたのに、彼の言葉を聞き流した罪は大きい。しかし、だからといって、七糸から離れるという選択肢はラビィの頭にはなかった。
「…コルカ。お前の話を要約すると、ナイト殿に触れさえしなければお前との契約が切れることはないのだろう? ならば、私が気をつければいいだけの話ではないのか?」
何も難しく考えることはない。そう言うラビィに、コルカが苦笑いを浮かべる。
『――言うほど簡単じゃないッスよ。いざというとき、触れもしないで相手を助けるのは難しいし、ちょっとした事故で手が触れることもあるッスからね。けど、まあ、おいらが自分の身以上に心配してるのは、あの男女の正体が何なのかってことッスよ』
コルカの声が、暗く沈む。よほど、七糸を警戒しているらしい。
「正体、といっても、ただのヒトではないのか? まあ、この世界には存在しない種族ではあるが、魔法も武芸も標準以下では、恐れる必要などどこにもないだろう」
身体は小さく、頭のなかは平和ボケしていて、戦闘力は皆無。脅威があるとすれば、七糸よりもむしろ愛犬のアルトのほうだろう。あれは、何とも得体が知れない。異様な迫力と存在感がある。
見た目だけは愛らしい、あの獣の姿を思い描くだけで、不気味な恐怖感が背筋を這い上がってくる。
思わずぶるりと身震いすると、その振動でバランスを崩したコルカがふわりと肩に着地した。
『――そりゃそうなんスけどね。とりあえず、おいらは魔力が尽きるギリギリまで、兄貴とは契約しないッスから、その間にいろいろ考えてほしいんス。もちろん、このまま、あの男女の傍にいるという選択肢もあるッスよ。どんな結末になろうとも、おいらは兄貴の意見を尊重するッスから――ただ、おいらとの最後の契約の前に、見極めてほしいんス。あの男女が何者なのか。兄貴にとって、危険かどうか』
「危険かどうか…?」
危険なはずがない。しかし、コルカが生命を懸けてまで忠告するということは、よほどのことだ。今度こそ、聞き流すわけにはいかない。
「――わかった。ナイト殿の件は、何とかしよう。だが、コルカ。お前との契約は、待たないぞ。今すぐ、再契約しなくては駄目だ」
『……嫌ッスよ。今のところ、まだ体内に魔力が残ってるッスから、しばらくはもつッスよ』
その声には、わずかな恐れが込められていて――ラビィは、ようやく気づいた。
コルカが、ぎりぎりまで三度目の契約をしないと決めた理由。それは、おそらく――。
(……コルカは、覚悟しているのだ)
ラビィの性格上、七糸からの離別の言葉がない限り、騎士としての立場を貫くだろうと。何があっても、七糸から離れることはないだろう、と。それはつまり、遠からず自分は消えてしまうであろうことを意味している。
迂闊なラビィが、うっかり七糸に触れてしまう確率はほぼ百パーセントに近いからだ。
だから、少しでも最後の契約までの時間を延ばしたいのだろう。一秒でも長く、この世界に留まるために。ラビィへの恩義に報いるために。
「――コルカ、約束しよう。お前が消えるような真似はしないと。だから、早く再契約をするんだ。今は平気でも、弱っていくお前を見ていたくはないのだ」
ラビィの真摯な声に、コルカは気難しい顔つきになった。
『――…それでも、おいらは…』
思い悩むように声を絞り出して――コルカは、パッと姿を消した。どうやら、ここではない本来の居場所、精霊界に戻ったらしい。近くに彼の気配を感じない。
コルカの姿がなくなるや否や、周囲を照らしていた火の玉が消え、再び部屋が薄闇に呑まれた。
「……すまない、コルカ」
ぽつりと、ラビィが呟く。
自分がもっとしっかりしていれば、コルカを不安がらせることもなかっただろうに――。
目を閉じて、自分の不甲斐なさを責めていると、コンコンと落ち着いたノックの音が響いた。その音にびくりとして、扉のほうを見やる。
「………誰だ?」
相手は何も答えず、ドアの下の隙間に何かを差し込んだ。どうやら、手紙のようだ。
即座に、扉の向こうの気配を探ってみる――が、どこにも人の気配はない。
「…ということは、持ってきたのは、ルーベクか、もしくは」
この屋敷内で、ラビィに気づかれずに近づけるスキルの持ち主は、ルーベクとメアに仕えるメイド長ぐらいしかいない。
(……まあ、どちらが手紙を持ってきたのかは、この際、重要ではない)
おそらく、手紙の主はメアだろうから、ろくでもない通告なのは想像がつく。
それだけに、手紙を手に取ること自体、今のラビィにとってはかなり重い精神的負担になる。
「――…読むと後悔しそうだが、無視した場合、さらに嫌な目に遭いそうだしな…」
憂鬱に呟き、ゆっくりとドアに向かって歩く。
ドアと床との隙間に挟まっていたのは、ごく平凡な白地の手紙。
ゆっくりと手を伸ばして、それを拾う。
表に書かれているのは、自分の名前。しかし、その筆跡に見覚えがない。
達筆とは程遠い、子供のような字。たどたどしく、慎重にペンを走らせた結果、ところどころインクが不自然に滲んでいる。
「…メア様の字ではないな。一体、誰だ…?」
裏を確認して、ちょっと驚く。思いもしない人物の名前があったからだ。
「! ナイト殿から…?」
どきりとする。その名前を確認しただけで、体温が、一、二度上がった気がした。
「――…な、何だろう?」
七糸が本を読んで、こちらの世界の言葉を学んでいたことは知っている。しかし、こんなにも早く文字を書けるレベルにまで達しているとは、驚きだ。
幾分か逸る気持ちを抑えて、ペーパーカッターを使い、手紙を開封する。
出てきたのは、白い紙。そこに、基本に忠実な文字が丁寧に書き込まれていた。
「……こんなにたくさん書くのは大変だったろうに」
何だか、ライナやサーシャの成長を見守っているような気分になってきた。そういえば、あの二人の場合、文字を教えるのが大変だった。ペンの持ちかたから始めて、あれこれ苦心しながら教えたのだが、病気のせいか、どんなに頑張っても自分の名前くらいしか書けなかった。それでも、新しいことができるようになったことが嬉しかったのか、二人は一日中、自分の名前を書き、はしゃいでいたのを思い出す。
それと七糸の成長とでは話が違うが――それでも、誰かが何かに対して懸命に取り組む姿というのは、見ていて微笑ましいものだ。
ラビィは、締め切っていたカーテンを開いて、外から差す眩しい光に瞳を細めた。
そして、窓際の壁に背を預けて、手紙の内容を確認する。
《 親愛なるラビィさんへ。
こんにちは。ラビィさんのことが心配で、メアに手伝ってもらって手紙を書いています。
僕は、ラビィさんが引きこもってから、何故、こんなことになったのかを考えていました。ですが、全然わからないままで、先日、メアに言われてようやく理解しました。どうやら、僕はラビィさんにとても失礼なことをしてしまったようですね。ごめんなさい。僕の軽率な行動のせいで、こんなことになるだなんて、思いもしませんでした。今後はこのようなことがないように注意しますから、そろそろ出てきてもらえませんか? 引きこもってばっかりじゃ、身体にも悪いですし、屋敷のみんなもすごく心配しています。
できれば、早めに外に出てほしいですけど、それが無理なら、せめて手紙の返事をください。待ってます。 川原七糸 》
メアが手伝ったにしては、随分とまともな内容だった。
どこにも邪気や悪意はなく、素直に、七糸らしい気遣いの感じられる優しい文章に思えた。
「――ナ、ナイト殿。なんと、寛容な御仁なのだろう!」
今回の件は、ラビィの身勝手な職務放棄にすぎないというのに、責めるどころか自分の非を謝るだなんて、簡単にできることではない。
しかも、書き慣れない文字を一生懸命書いて、気持ちを伝えようとするなんて、いじらしいにも程がある。
「……と、とりあえず、この手紙は、なくさないように厳重に保管しておかねば」
そして、一刻も早く返事を書かなくては。
本当ならば、面と向かって七糸に謝罪するのが一番だが、今の自分にそんな勇気はない。しかし、文章ならば何とか気持ちの整理もつけられる。そう考えて机に向かおうとしたラビィだったが、ふと、あることに気づいた。
「…? まだ、何か入っているな」
封筒のなかに、硬いカードのような感触がある。
中身を覗き込んで、手のひらにそれを出した瞬間、ラビィの表情が変わる。
真っ赤なカードには、一見上品なメアの字が書かれていた。
《 忠告。一時間以内にそこから出なければ、殺す。一時間以内に出てきた場合は、九分殺しにして湖に沈めるだけで許してあげるわ。寛容な私に感謝しなさい。 メア 》
「どちらにしても殺されるではないか!!」
思わず、ツッコミをいれてしまう。
第一、九分殺しとは何だ。瀕死の重傷を負った状態で水没させられたら、水棲生物でもない限り死んでしまうではないか。
この文面からして、メアの怒りメーターは完全に振り切っている。七糸がとめたところで、収まらないレベルだ。
そう直感したラビィは、反射的に窓を開け放ち、外に逃げようと窓枠に片足をかけたところで、はたと我に返る。
「――…ここから出たところで、メア様の結界を越えなければ逃げきれないのではないか?」
それに、逃げたと知ったメアがどんな手を使って追いつめてくるか想像するだけで身の毛がよだつ。きっと、死ぬよりも辛い目に遭わされるに違いない。
「………と、とりあえず、ナイト殿に返事を書かなければ」
最悪の場合、これが最後の遺言になるかもしれない。そう思い、神妙な面持ちで再度カードの文面を再確認した、その瞬間。
「――なっ…っっ!?」
カッと、視界で何かが弾けた。謎の白光が視界を奪い、ぐおん、と低く風の唸るような音が聞こえた。いや、直接、頭のなかに轟音が響いたといったほうがいい。
ラビィの手に握られているのは、真っ赤なカードが一枚。それは、メアからの死の宣告が書かれているはずだった。
しかし、再確認の際に見えたのは、メアの脅し文句ではなく、紛れもない、魔法陣。そこに込められた魔法効果が何かまではわからないものの、発動条件は容易に想像がついた。
(――子供騙しだが、虚を突くには充分な仕様だ)
最初に見たときは、ただのメッセージにしか見えず、カードを二度見することで、紙に封じられた魔法が発動するように仕掛けていたのだろう。
それは、用意周到なメアらしいやり口だった。
万が一、カードを七糸が見てしまっても発動しないように警戒したのだ。ラビィの臆病な性格を見越したうえで、もう一度、恐る恐るカードの内容を確認すると踏んで。
「――っ、一体、何の魔法をっっ」
その声は、最後のほうで途切れた。
ぐおん、ぐおん。
脳を掻き乱す轟音に、意識がぐらつく。
目を閉じても、耳を塞いでも、それは自分の内側から響いて、鳴りやまない。
そのあまりの騒音に、大きすぎる音量に、頭がぐらぐらしてきて、足元がふらついた。
立っているのも辛くなってきたとき、ふっと身体が軽くなり、視界ごと意識が白の世界に呑み込まれていった。