第三話・其の三
《 第三話・其の三 》
心地よく風を切りながらも、速度に気をつけて空を行く。あまり早く飛びすぎると七糸に負荷がかかるので、その辺りには細心の注意を払う。
ちょうど森の上を飛んでいるせいか、ほのかに緑と木の香りが漂ってきて、ちょっとした空中散歩を楽しめそうだが、さすがに今はそれどころではない。
(…そういえば、誰かを連れて空を飛ぶということ自体、あまりなかったな)
ふと、そんなことを思う。
仕事や知り合いの子供にせがまれて飛ぶことはあっても、自主的に誰かを連れて飛行することはなかった。もっとも、メアと婚約している間は、都合よく顎で使われたものだが――。
(……あれは、まさに、地獄の日々だった…)
こちらの都合を無視して呼びつけたかと思うと、タクシーよろしく些細な用事であちこち引き摺り回しておいて、礼の一つもない。しかも、深夜だろうが早朝だろうがお構いなしで、規則正しい生活を心がけているラビィは、一睡もできないまま、仕事に向かうことも一度や二度ではなかった。そのうえ――…駄目だ、嫌な記憶が次々と蘇ってきて何だか泣けてきた。
とりあえず気を取り直して、腕のなかの重みに意識を向ける。
何はともあれ、七糸に怪我がなくてよかった。しかし、呪いのドレスを脱がさない限り、この事態は収まらないだろう。
(――しかし、人の多い屋敷内に残るのは危険だな)
人目がなくて、なおかつ、安全そうな場所はどこか考えていると、
「わあっ、ホントに単身で空を飛んでる! すごいやっ!」
能天気な感嘆の声が、大音量で耳に響いた。
「! ナイト殿、急に叫ばないでもらえるか」
「あ、ごめんなさい、つい。あ、ていうか、ありがとうございました。さっき、助けてくれて」
「いや、礼を言われるほどのことはしていない」
あらゆる危険から七糸の身を守ること。それは、自分に課せられた使命なのだ。
そう言おうとした、瞬間。
―――ザアッと。
強く吹いた風が、七糸が被っていたシーツを勢いよく吹き飛ばした。
「わっ!?」
突風に驚いた七糸が声をあげ、ウエディングドレスを纏った愛らしい花嫁の姿があらわになった。それを目にした途端、思わず、呼吸するのを忘れた。
「? ラビィさん、どうしたんですか? 変な顔して」
不思議そうにこちらを見つめてくる七糸は、確かに彼そのものだが……いつもとは、明らかに違っていた。何がといって、そのすべてが、だ。
風に吹かれてさらさら靡く黒髪も、色白で小さめの顔も、眼鏡越しにこちらを見つめる控えめな眼差しも、耳に心地よく響く声も。
「ラビィさん?」
息が触れそうなほどの至近距離で見た彼は、メアやリシリーが言う通り、非常に愛らしかった。いや、非常に、なんて言いかたでは足りない。
猛烈に、激烈に、破壊的に――とにかく、尋常ではないレベルの可憐さだ。
(――…これは、本当に、何というか…)
本気で、ヤバい。ヤバすぎる。ざわざわと、嫌な感じに胸が騒ぐ。
こちらにその気はないというのに、心臓が尋常ではないくらい高速で動いている。全身が緊張し、気持ちが高ぶっているのがわかる。ぞわっと悪寒にも似た感覚に襲われる。
――心が奪われるとは、まさにこのこと!
不意に、メアが言っていた言葉が、耳の奥で再生された。
視線を外したいのに、外せない。
意識しているつもりはないのに、気になって仕方がない。どんなに平常心を保とうとしても、心が乱れる。掻き回される。
これまでメアから受けた数々の精神攻撃が児戯に思えるほど強烈な感情が、身体の奥底から湧き上がる。
(…マ、マズい!)
このまま、七糸を連れてどこかへ逃避行でもしたくなってきた。メアやリシリー、侍従たち、他の誰の目にも触れさせたくない。そんな馬鹿みたいな独占欲まで湧いてくる。
(…ど、どうすればいいのだ!?)
魔法のせいで思考がおかしな具合に捻じ曲げられているだけだとわかっているのに、だんだんとそうしなければいけないような気になってくる。
早く、遠く。
誰もいない、安全な場所へ。
二人きりになれるところへ、行かなくては。
(い、いやいや、違うだろう! 何を考えているのだ、私は!)
駄目だ。とにかく、早く、七糸をどこか安全な場所に降ろして、着替えてもらわなくては大変なことになる。
魔法刺繍の放つ、強烈な媚薬効果。それさえどうにかしてしまえば、馬鹿な頭も冷えるに違いない。
「ラビィさん、急に黙っちゃってどうしたんですか? どこか具合でも悪いんじゃ」
「! き、気にするな。それより、とりあえず、下に降りるぞ」
早口で言うラビィを不思議そうに窺いながら、七糸が頷く。
「はい、そうですね。あ、できれば、ドレスが汚れないようなところに降ろしてくれませんか? これ、リシリーの妹さんのドレスなんですよ。汚したり破いたりしたら、大変だし」
そう言って申し訳そうに微笑むその姿は、本当に花の妖精か女神のようで――直視するには、あまりにも眩しすぎた。良薬も量を間違えれば毒になる、ということだろうか。
(……あのメア様ですら、抗えないと言っていたくらいだ)
神々しいほどの可憐さの前では、どんなに強靭な精神力を持とうが、高い魔力を保持していようが、関係ない。心を支配する者、それこそが、本当の覇者なのではないだろうか。
「あの、聞いてます? ラビィさん?」
訊かれて、はっと我に返る。
「! あ、ああ。しかし、ドレスが汚れないところといっても……」
婚儀用といえば、たいてい、足先を隠すくらい長いものが主流だ。ということは、室内、もしくは清掃された石畳くらいの場所でなければ駄目ということになる。
しかし、あいにく、周囲をメアの結界に囲まれているため、行く場所は限られている。
「とはいえ、屋敷に戻るのは危険だしな…」
その呟きに、七糸がきょとんとする。
「? 屋敷が危険って、何でですか? そういえば、今日はみんな、様子がおかしかったような気が…」
「…ああ、そうか。お前は知らなかったな」
ラビィが簡潔にドレスに施された媚薬魔法について説明すると、彼は得心がいったとばかりに大きく頷いた。
「そっかあ、うん、これで納得しました。その魔法が原因で、侍従のみんなが僕のことを女の子扱いしたわけか。よかった、全部、魔法のせいだったんですね!」
「――それだけとも言い切れんがな」
思わず漏れた声は、幸か不幸か、風の音で掻き消された。
「あれ? ってことは、ラビィさんも魔法の影響を受けてるってことですか? 何か、他のみんなと違って普通っぽいですけど」
「…ま、まあ、そうだな」
普通どころか、平常心すら保てているかどうか怪しいものの、表情にまでは出ていないらしい。
(…実をいえば、かなり危険な感じなんだがな…)
先ほどから、七糸の周囲に、幻覚の花だのキラキラした謎の輝きだのが飛んで見えるようになってきた。心臓なんかは、数百年分働いたくらいの動きをみせている。
そんなことは露知らず、七糸は感銘を受けたとばかりに、罪つくりな笑顔全開で褒め称えた。
「うわー、やっぱり、騎士ってすごいんですね! 何か、格好いいです、ラビィさん!!」
「…そ、そうか。ははは」
純粋な称賛の言葉に、良心がズキズキと痛む。
ついでに、七糸の言葉を否定することのできない勇気のない自分が恨めしい。
「あ、ラビィさん。降りる場所、あそこなんかどうですか?」
無邪気に七糸が指差したのは、森のなかにある、ちょっとした広場のような場所だった。
そこには大きめの岩が四つほど並んで転がっている。
確かに、ここならばドレスが土で汚れる心配はない。見たところ、足場も悪くなさそうだ。
「…ああ、そうだな」
ラビィは、ゆっくりと降下して、並んでいる岩の一つに着地した。そして、足元に注意するように言ってから、七糸を降ろしてやった。
「っと」
七糸が、ちょっと危うげに岩の上に立つ。そして、安全な足場を確保してから、何を思ってか、突然、ドレスの裾をまくりあげた。瞬間、揺れるドレスの下から、ほっそりとした脚が白く輝くのが見えて、心臓がびくりと飛び跳ねた。
「なっ!? ななな、何をしているのだ、お前はっっ!?」
いきなりすぎる大胆な行動に、思わず抗議の声をあげる。慌てて視線を逸らすも、脳裏に眩しい光景が焼きついてしまった。不可抗力とはいえ、騎士としてあるまじき行為だ。
しかし、その点に関して七糸はまったく無遠慮で、無神経だった。
ドレスをめくりあげたまま、とんでもないことを言い始めたのだ。
「え? 何って、ドレスを脱ごうかと思って。すみませんけど、ラビィさん。手伝ってくれませんか? 一人じゃ、なかなか脱げなくて」
「!!!! な、なななな、何だとっっ!?」
よりにもよって、ドレスを脱ぐのを手伝え、だと!?
(…い、いや、まさか、いくらナイト殿でもそんな非常識なことを言い出すはずがない!)
そうだ。今、とんでもない発言が聞こえたような気がするが、きっと、気のせいだ。空耳に違いない。そう、ただの聞き違いだ。
ぶつぶつと自己暗示をかけていると、再び、ありえない要求が突きつけられた。
「あの、背中のリボンを解いてもらえませんか? 自分じゃ、ちょっと難しくて」
そう言った七糸のドレスの背中には、小さめのリボンが結ばれていて、それが左右に分かれた生地を固定している。
「? ラビィさん、聞いてますか?」
その声に、反射的に叫んでしまう。
「! き、聞いていない! 私は、何も聞いていないからな!?」
「もう、聞こえてるじゃないですか。変な冗談はいいですから、早くしてくれませんか?」
そう言って、背中をこちらに向けてくる。
白を基調としたドレスは華奢で、七糸の細い背中にぴったりと張りつくようにして目の前にある。小さなリボンの先が、急かすようにひらひらと風に揺れた。
「? ラビィさん、どうしたんですか?」
しばらくの間、無反応だったせいか、白い背中がわずかに動いて、七糸が肩越しに振り返った。その際、レンズ越しにぱっちりとした綺麗な黒い瞳が見えて、思わず、息がとまりかけた。ザッと、全身の血が沸き立つ。
(――何なのだ、この異常なまでの愛らしさはっっ!?)
わずか一秒、目が合っただけで、心臓が張り裂けそうな衝撃が走る。どっと汗が噴き出して、呼吸が乱れる。このまま顔を合わせていると、それだけで寿命が確実に縮む。それくらい、全身が過剰な反応を見せている。
「?? ラビィさん、どこか具合でも悪いんですか?」
小動物のように可憐な瞳が、こちらを見ている。ラビィは、持てる限りの力をもって、それから視線を外した。
「! い、いや、何でもない! それよりも、ナイト殿。ドレスを脱ぎたいのであれば、何とか自力で行ってもらえないだろうか? 何というか、その――私には荷が重すぎて、手伝えそうにないのだ」
「?? 何、言ってるんですか?」
訝しげな声で訊かれても、答えられるはずがない。
今現在、魔法刺繍の媚薬効果のせいで、平常心を保つだけで精いっぱいなのだ。これ以上、おかしな刺激を与えないでほしい。正直、メアやリシリーほどではないが、理性を保つこと自体が難しい状況だ。どうにかギリギリのところで踏みとどまっていられるのは、自分は七糸を守る騎士であるという誇りと責任感が失われていないからだ。
ところが、そんなラビィの葛藤を知らない七糸は、どこまでも能天気で無責任だった。
「よくわかんないですけど、今、頼れるのはラビィさんしかいないんですから、お願いしますよ。ほら、背中にあるリボンを外すだけだし、簡単でしょう?」
ちょっと急かすような声に、ラビィは慌てた。
「な、難易度の問題ではない! 何というか、その、お前が男だということは重々承知しているのだが、身体的にはそうではないことが問題なのだ!」
「……身体的にって――ああ、そっか」
七糸は、ようやくこちらの躊躇いに気づいたとばかりに、明るい声で言う。
「大丈夫ですよ、ラビィさん。着替えを見られたからって、別に、慰謝料を請求したり、裁判沙汰とかにはしませんから。男同士なんですから、遠慮しないでください」
「い、いやいやいや! 遠慮するだろう、普通!」
七糸の気持ちは、この際、どうでもいい。
問題は、完全にこちら側にあるのだ。
「お前は自分で見慣れているから気にならないかもしれないが、私にとっては、そうではないのだぞ。だ、だいたい、仮にも女性の服を剥ぐような真似などをしては、騎士として生きていけないではないか!」
「生きていけないって、そんな大げさな…」
「大げさなどではない! そもそも、ナイト殿は無防備すぎるのだ。いくら自分で男だと思っていても、そう思わない相手もいるということを自覚すべきではないのか?」
「そんなこと言われてもなあ」
七糸が困ったように、吐息する。
「っていうか、僕も頼む相手くらいは見極めてるつもりですよ? 今回の件にしたって、唯一まともなラビィさんに頼みごとするのは、おかしなことじゃないと思いますけど」
「! だ、だから、そこからおかしいだろう!」
パッと見、平気そうだからといって、安直に頼みごとをしないでほしい。しかも、内容が内容だ。素直に応じてしまえば、今後の主従関係に歪みが生じかねない。
(とにもかくにも、ナイト殿には自力で着替えてもらわなければ!)
女性の服を脱がせる手伝いなんて、どうやってもラビィにはできそうにない。たとえ、命令されても、これだけは絶対に譲れない。その旨を必死に伝えると、
「わかりました。要するに、アレですか。ラビィさんも、僕のことを男として見てないってことですか?」
七糸の声が、みるみるうちに沈んでいく。
「…はあっ。これまでも、他のみんなは僕のことを半分女の子扱いしてたけど、ラビィさんだけは違うって信じてたのに。やっぱり、ラビィさんも僕のこと、女扱いするんですね」
心底、悲しげな声で言われても困る。
「べ、別に、女扱いしているわけではない! だ、だが、その――騎士が、頼まれたからといって、容易に服を脱がせるなどと妙な噂を立てられては困るのだ!!」
現に、リシリーは騎士を始めとした貴族連中は女遊びをするものだと思い込んでいる節がある。無論、なかにはそういう不届き者もいる――というか、実のところ、ラビィのように品行方正な生き様を貫くほうが稀有なのだが――少なくとも、騎士は名誉ある神聖な職業であり、そこに賤しい部分があってはならないとラビィは考えている。
「だから、その――いくら命令とはいえ、誤解を生むような行為は慎むべきだと、そう思っているだけで」
「…っていうか、僕は男なんだから気にしなくてもいいのに」
言いながら七糸は思案顔になり、溜息と共に妥協案を提示した。
「…はあっ。わかりました、じゃあ、こうしましょう。僕が自力で、何とか背中のリボンを解きますから、ラビィさんはドレスの裾が汚れないように持っててくれませんか? これなら、問題ないでしょう?」
「――…た、確かに、まあ、その程度なら…」
脱がす手伝いは心理的に無理だが、それくらいなら、問題はないだろう。
そう判断して、七糸の代わりにドレスの裾を持つことになったラビィだったが――肝心なことを忘れていた。
そう、ドレスを脱いだあとのことを、何も考えていなかったのだ。
ラビィがそれに気づいたのは、七糸の細い指が背中にあったリボンを手探りで解いていたものの完全には解けていない、どうにか、ぎりぎりのラインでドレスが支えられている、そんな際どい瞬間だった。
「――ナ、ナイト殿! 一つ、確認しておきたいのだが――ドレスの下に服は着ているのか?」
声を上擦らせた遠慮がちな問いに、七糸はきょとんとした。
「え? ああ、はい。一応、ホットパンツとタンクトップを着てますけど」
「…ほっとぱんつ?」
聞いたことのない響きだったが、おそらくズボンのことなのだろうと察しがつく。一方、タンクトップが何なのかについては、すぐにわかった。
「たんくとっぷ、とは、袖なし服のことだったか?」
「そうです。ドレスを試着するときに脱いだほうがいいと言われたんですけど、女の子の前で裸になるのはちょっと問題かなと思って――…でも、何でですか?」
「い、いや、ドレスを脱いだあとのことを考えていなかったと思ってな。そうか、着ているのならば問題はない」
それならそうと早く言ってほしかった。いらない心配をしてしまったではないか。
ほっとしているうちに、七糸が背中のリボンをどうにか解き終え、
「……よしっ、解けた!」
喜びの声と共に、純白のドレスが支えを失う。
「ラビィさん、ドレスを持ち上げてくれませんか?」
「あ、ああ」
ラビィが慌ててドレスを持つ手を持ち上げると、七糸がドレスの下から潜り出てきた。
「あー、やっと脱げた! ふうっ、女の人は大変だよね。こんなヒラヒラして肩が凝る服着なきゃいけないなんて」
「ああ、そうだな」
ラビィがしわにならないようにドレスを腕にかけながら言うと、七糸は白いタンクトップから伸びた細い腕を思いきり伸ばした。
「うーん、疲れた! 帰ったら、昼寝でもしようかな。あ、その前に、リシリーにドレス返すのが先かな」
「…とりあえず、今後、リシリーのつくった服は着ないことだな。面倒なことになる」
注意して七糸のほうを見やったラビィは、硬直した。
「……ナ、ナイト殿。その、失礼だが――…」
先の言葉を呑み込んで、七糸の姿を見つめる。
彼は、聞いた通り、白のタンクトップに黒のホットパンツ姿だった。
(…た、確かに服は着ているが――)
その衣装は、シンプルすぎるが故に、身体のラインを嫌でも強調してくる。
折れそうに細い腰や、いつもは布か何かで押さえつけているのであろう、メアとは比較にならないサイズの胸の膨らみ。太ももの付け根が見えそうなほどに短いズボンから覗く細くて白い脚は、年頃の少女らしい優しいラインを描き、不思議そうにこちらを見てくる上目遣いの瞳は、小動物のようにきらきらと無邪気にきらめいて、とてつもなく愛らしい。
(――ん? 愛らしい…?)
ちょっと待て。何かが、おかしい。
ラビィは、手に引っ掛けたままのドレスを凝視した。
(……今のナイト殿は、ドレスを着ていないというのに…??)
何故、可愛いだなんて思うのか。ドレスを身につけていたとき同様、きらきらとした魅力を七糸に感じてしまうのは、魔法刺繍の効果が持続しているということなのか…。
「? どうしたんですか、ラビィさん。ぼーっとして」
「! いや、何でもない。とりあえず、ドレスを脱いだ以上、連中もおかしな真似はしてこないだろう」
やや視線を逸らしながら言うラビィを訝しみながらも、七糸が頷く。
「そうですね。じゃあ、帰りましょうか」
「あ、ああ。そうだな」
頷き、何も考えずに羽を動かせて宙に舞い上がる。
「え、ちょっ、ラビィさん!? 一人で飛んで行かないでくださいよーっ!」
地上で声がして、はっとする。
七糸は羽がないので、飛べない。そんなことは最初からわかっていたはずなのに、思わず失念していた。いや、正確には、本能的に警戒して身体が動いたというべきか。
「…す、すまない。誰かを連れて飛ぶこと自体、あまりないからな。つい、忘れていた」
降りてすぐ言い訳するように謝罪したラビィに、七糸は目をしばたたかせた。
「そうなんですか? でも、確かに、ラビィさんが誰かと飛んでるところって見たことないですもんね」
「あ、ああ。だから――すまない」
「いえ、そんなに何度も謝らないでいいですよ。気にしてませんし。えっと、それで、僕はどうしたらいいですか? 背中に乗ったら羽が動かせないだろうし、やっぱり、首にしがみつくのがいいのかなあ?」
「し、しがみつくっっ!?」
動揺のあまり、危うく舌を噛みそうになった。
(…そ、そういえば、今さらだが、私は何と大胆なことをしてしまったのか…)
緊急事態だったとはいえ、とんでもないことをしてしまった。
メアの目の前で、七糸を掻っ攫うような真似をして、ただで済むはずがない。いや、それ以前に、大きな問題が一つ。
(――…ナイト殿が半分は女性という事実だ!)
いくら切羽詰まった状態だったとはいえ、何の許可もなく強引に女性を抱き上げるだなんて、騎士として適切な対応だったとはいえない。そもそも、仕事でエスコートする以外で、恋人でもない女性に触れること自体、個人的に認めていないラビィである。ちなみに、メアは女性云々以前の存在なので、カウントされない。
(い、いやいや、そもそもナイト殿は男ということになっているのだから、気にする必要はないはずだ!)
そう思うものの、もう一度、冷静な状態で同じことをやれと言われたら、絶対にできない。まず、心にブレーキがかかる。これ以上、近づいては危険だと。
「…あの、ラビィさん? しがみつくと、やっぱり飛びづらいですか?」
おずおずと訊かれて、ラビィは反射的に否定した。
「い、いや、そういうわけではない。ただ、その――どうも、お前の格好がアレなせいか、いつもと同じというわけには…」
言いにくそうに語尾を弱めるラビィの様子に、七糸はちょっと考えて、ポンっと手を打った。
「あ、そっか。わかりました。ラビィさんは騎士ですもんね。騎士なりのこだわりって奴があるんですね」
「! そ、そうだ。わかってくれるか」
女性、それも、やたらと露出の多い過激な服を着た女の子を抱き上げて飛ぶとか、いくら状況が状況でも、恥ずかしすぎる。それに何より、目のやり場と気の持ちように困る。
(…しかし、さすがはナイト殿だ!)
多くを語らずとも複雑な男心を察してくれるとは、さすがとしか言い様がない。自分を男だと言い張るだけのことはある。
そう感心したのも束の間、七糸は何かを決意したように握りこぶしをつくってみせた。
「大丈夫です。男たる者、一時の恥くらい我慢しますよ! ってわけで、安心して飛んでください!」
「――?? 何を言っているのだ?」
どうも、話が噛み合っていないようだ。
眉をひそめるラビィに、七糸が小首を傾げた。
「え? あれ? 違うんですか?」
「だから、何が違うというのだ?」
わけがわからず、じっと顔を見合わせていると、七糸がパチリとまばたきした。
「え? だって、リシリーが『騎士は、何をするにもビジュアルを重んじるんです!』とか言ってたから、誰かと空を飛ぶのも格好つけてお姫様抱っことかじゃなきゃ駄目なのかと思って――」
「は?」
意味がわからない。リシリーの頭のなかでは、一体、どんな騎士像が暗躍しているというのだろうか。
「そ、そんなことにこだわりはない! だいたい、見た目を気にして騎士が務まるわけがないだろう! 主を守り、付き従う者。それが、騎士というものだ!」
「はあ、そうなんですか。だったら、何で僕をつれて飛びたがらないんですか?」
「っっ」
率直な質問に、ラビィは思わず黙り込んだ。
(……い、言えない…)
七糸の格好が、どう見ても女にしか見えないからだなんて。
それを意識しすぎて、抱っこするのが恥ずかしすぎるからだなんて。
「ラビィさん? まさかとは思うんですが――」
七糸が、責めるような視線をこちらに注ぎ、ズバリと指摘してくる。
「飛びたくないのは、僕のことを女扱いしてるからじゃありませんよね? ましてや、女の子をお姫様抱っこして飛ぶのは恥ずかしいから嫌だなんて、そんなくだらない理由なんかじゃないですよね??」
「うっ!?」
図星だった。それこそ、ぐうの音も出ないほどに的確すぎる指摘に、ただただ、押し黙るしかない。
しかし、自分にも他人にも基本的に嘘がつけないラビィは、露骨に顔色を変えて、不審なほど視線を泳がせているため、本音がだだ漏れ状態だった。
「――…ラビィさん。一つ、言っておきますけど」
心なしか、七糸の声音に冷やかなものが混じる。
「僕は、正真正銘、男なんです。そりゃ、身体的には男っぽくないかもしれないですけど、でも、それだって好きでこうなったわけじゃないんですからね。まあ、確かに、メアに比べれば女性的な身体つきだとは思いますけど、僕にしてみれば、この胸だってただの脂肪の塊と同じなんです。その証拠に、ほら」
そう言ったかと思うと、七糸は何を思ったのか、むんずとラビィの手をつかんで自分の胸に押し当てた。
「!!!!!??????」
ふにょん、と。
これまで感じたことのない柔らかくて温かな質感に、頭のなかが真っ白になる。
(!!!!!??????)
ついでに心のなかも真っ白になってしまって、騎士らしからぬ間の抜けた顔をさらしてしまうが、それすら自覚できない。
一方、七糸は、唐突すぎる出来事に呆然としているラビィに気づかず、一人、演説を続ける。
「僕は男ですから、こんなふうに触られても別に何も感じないんですよ。同じ男同士ですから、当然ですけど。そりゃまあ、女の子に触られたら、緊張もするしドキドキもします。でも、ラビィさん相手に、そういった意味で意識したことはないですし、ラビィさんも僕に対して変に気を遣ったりしなくていいんですよ――…って、あれ? ラビィさん、どうしたんですか? ラビィさん??」
七糸がようやくラビィの異変を感じ取って、声をかける。
七糸につかまれ、胸に押し当てられたままの手が、ぷるぷる震えている。色白な顔は、髪の朱色が溶けだしたように真っ赤に染まり、目に至っては、完全に焦点が合っていない。しかも、病気ではないかと思えるほどの汗が額や頬を伝い落ちていく。
「ラ、ラビィ、さん??」
明らかな異状に、七糸が心配そうに再度名前を呼んだ瞬間、どうにか現実に繋ぎとめられていたラビィの意識が飛んだ。
ちなみに、それから先のことは、まったく覚えていない。




