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第三話・其の一

こんにちは、谷崎です。ようやく、第三話が完成しました。今回は、物語にとって重要なお話になってます。ラビィに春が来たり、メアの思わぬ一面が見られたりします。ちょっと長いですが、楽しんで読んで頂ければ幸いです。

       《 第三話・其の一 》



 騎士とは、ときに良心に反し、非情でいることを強いられる過酷な職業だ。

 戦闘能力が高いのはもちろん、品行方正であることも求められ、プライベートであっても礼儀を欠いてはならない。それは、騎士の称号を得た者に課せられた絶対的な義務である。

 実際、騎士なんてものは、堅苦しいうえに苦労が絶えない職業なのだが、意外や意外。平民出身者の間では、一番人気の職種だったりする。何故なら、騎士になれば、出自に関係なく貴族階級へと昇格できるからだ。ただ、その狭き門を通れるのは、一握りどころか一つまみ程度。しかも、合格者の大半は、貴族出身の生まれついてのエリートばかり。結局のところ、実力よりも、家名や権力がモノをいう不平等な世界なのだ。

 そんななかで、彼・キールケは、異質な存在だった。

 騎士を目指す者は、焔の地の僻地にある騎士の養成施設で一定期間の修行及び精霊との交渉術を学ぶことになっている。そこでラビィが出会ったのは、訓練中、いかにバレずにサボるかを真剣に画策しているような少年だった。

 聞くところによると、キールケは、波乱万丈な人生を送ってきたらしい。物心ついた頃に貧しい実家を飛び出し、とりあえず、最低限の衣食住が保障されている兵士になろうと養成施設に入ったもののそりが合わず、数ケ月で脱退。それからというもの、町から町へ、転々としながら働いていたが、ある日、滞在中の街で大規模な火災に見舞われた。思った以上に被害が広がり、あわや大惨事になりかけたとき、事態を収束したのが、兵士にすらなれなかった、おちこぼれのキールケだったのである。

 彼に武の才能はないが、精霊との交渉が異常にうまい。わかりやすくいえば、精霊に好かれやすい体質なのだ。一般的には、交渉力が高いと表現するが、彼のようにさほど魔力が高くないうえに何の教養も受けていない者が、高揚して我を忘れている精霊を鎮めたという例は他にない。それ故に、将来を期待され、特別枠で騎士養成施設へと送り込まれた逸材だった。

 しかし、所詮は根っからの遊び人。

 賭けごとや喧嘩は日常茶飯事で、施設を抜け出しては夜遊びに繰り出したり、町ですれ違う女には片っ端から粉をかける始末。それでも施設を追い出されなかったのは、その憎めない性格のせいだ。

 自由気ままに生きながらも、同僚や先輩後輩に妬まれたり疎んじられることがなかったのは、彼が誰に対しても自然体で接していたからだろう。飾らず、媚びず、かといって、空気が読めないわけではない。そんな彼だからこそ、四枚羽のうえ生粋の貴族であるラビィを敬遠することなく、接してくれた。

 そんなこんなで、性格や価値観は恐ろしいほど違っていたが、二人は友人になり、一緒に騎士の称号を得た。しかし、キールケには規律まみれの騎士の生活は肌に合わなかったのだろう。手当たり次第、本能のままに、片っぱしから貴族令嬢に声をかけるわ、主である女性も遊びで口説き落とす始末。あまりにも騎士らしからぬ軽率な言動に、騎士免許剥奪の憂き目にあった彼は、落ち込むどころかカラリと笑って、こう言い放った。

「好みの女も自由に口説けねえとか、ありえなくね? 男たるもの、いい女を手に入れてナンボだろ。でなきゃ、男に生まれた意味がねえじゃん。つーかさあ、実際、何が楽しみなわけよ、騎士様は?」

 そう言われても、生まれたときから騎士になることを義務づけられたラビィには、キールケの自由すぎる発想自体が理解不能だった。

 たとえば、強くなりたいからだとか、貴族としての身分を手に入れたいからだとか、体裁がよくてモテるからだとか。そういう理由で騎士を目指す輩は大勢いるが、よく考えてみれば、ラビィのように、半ば刷り込み状態で騎士を目指す者はさほど多くない。貴族の男たちが騎士を目指すのは、あくまでも親の教育の一環でしかなく、実際、ラビィの友人である貴族たちは、誰も本気で騎士になることなど目指してはいなかった。ただ、親がそうしろというから、そうするだけ。騎士という称号を得られれば、そこで目的は果たされるのだ。

 しかし、ラビィの場合はどうなのか。

 騎士になって、代々守るべき相手を守って、国の要請に従って戦って、それから先は?

 そんなこと、考えたこともない。

 だからこそ、あのとき、キールケの言葉に応えることができなかったのだ。

 騎士として生きるうえで、何が重要なのか。

 一体、何を目的にして騎士になったのか。

 かつては見えなかった答えが、今ならはっきりとわかる。

「……ズバリ、世界平和だな」

 そう。究極的には、それこそが目的なのだと思う。

 世界が平和だということは、自分もその平和の一部として、心を乱されることも悩まされることもなくなるということだ。

 たとえば、朝っぱらから不機嫌なメアに八つ当たりされることもなければ、七糸の愛犬・アルトに吠え回されることもない。玉の輿を狙うメイドたちに迫られることもなければ、キルトバの無責任な噂話に振り回されることもない。

 至って、平和。騎士としてやるべきこともなくなるかもしれないが、とにかく、悩みは少ないほうがいいに決まっている。

「………はあっ」

 ここ最近、すっかり日課になりつつある、湖の桟橋に座りこんで溜息をつく行為。

 騎士としてはあまりにも情けないのだが、身にしみついてしまったものは仕方がない。

 ラビィの憂鬱な表情とは裏腹に、相変わらず、湖面はきらきらと眩しく輝いて、翳りつつある心を明るく照らし出してくれる。

 きらきら、きらきら、ぎらぎら、と――。

「?」

 そういえば、今日はやけに湖が輝いているような気がする。まるで、油でも流したみたいに、不自然な虹色に輝いて―――不思議に思ったラビィは目を凝らし、上半身を乗り出して水面を見つめてみた。

 世界を照らす光が、映っている。それなのに、ラビィの姿は、そこにはない。

「??」

 奇妙だ。あまりにも、不気味だ。

 どこからともなくそよ風が吹いているのに、湖面にはさざ波も立たず、それどころか、そこに映っているはずのラビィの姿もない。これは、異状事態だ。よくないことが起ころうとしている兆しに違いない。

「――とりあえず、メア様に報告するべきだろうな」

 ラビィの主は七糸だが、こういう話はできない。この辺り一帯を仕切っているのは、メアだからだ。彼女がこの事態に気づいていないなんてことはないだろうが、一応、伝えておくべきだろう。

 そう考えて立ち上がろうとしたラビィを、突然、女のか細い声が妨げた。

『……だ、駄目ぇ。メ、メア様には、言わないでぇ〜』

 その震える声は、どういうわけか、桟橋の下から聞こえてくる。

「???」

 桟橋と湖面との間には三十センチほどの隙間があるので、何者かが潜むのは不可能ではない。ましてや、水棲生物ならば水中を住処とすることができるし、たとえ、生物が棲まずとも、そこに水がある限り必ず精霊が存在する。

(……生物の気配はない、ということは――)

 おそらく、精霊の類だろうと思うのだが、その種類まではわからない。

 声からすると、かなり若いように思える。種族による違いはあるが、精霊の寿命は、平均的に見て二千年程度。だとすれば、この声の主は、せいぜい二百歳かそこらといったところだろうか。

(…敵意はなさそうだ。湖にいるということは、水属性の精霊という可能性が高いが…)

 火竜一族は、火炎属性に位置するため、水属性の精霊とは異常に相性が悪い。気配くらいはわかっても、話をすることは不可能だ。ということは、桟橋の下にいる者は、一体何者なのだろうか?

 ラビィが足下を見つめて思考を巡らせていると、不意に、謎の気配が揺らいだ。

『…あ、あのぅ、そのぅ〜、そんなにぃ精神集中して探られるとぉ、はっ、恥ずかしいんだけどぉぉぉ!』

 雰囲気的には、くねくねと恥じらいつつ身を捻じっている、といったところだろうか。いかんせん、その姿が見えないので、実際のところはわからない。しかし――。

『い、いやぁん、見ないでぇぇ〜っ!』

 甲高い少女のような声で訴えられると、正体不明の相手とはいえ、動じずにはいられない。もちろん、何一つやましいところはないのだが、急に悪いことをしているような気分になってきて、

「す、すまない!」

 気づけば、堅苦しいほど真面目な謝罪の言葉が飛び出していた。

 こういうとき、友人のキールケならば、冗談っぽく振る舞って乗り切るのだろうが、真面目一徹のラビィにはそれができない。

 そのせいか、妙な緊張感が生まれ、漂う空気が重くなった。

『…………』

「…………」

 どちらともなく、どう場を繕えばいいのかわからずに黙り込む。

 どれくらい、沈黙が続いただろうか。

 どんよりとした空気を振り払ったのは、桟橋の下からの声だった。

『…あ、あのぅ、そのぅ……ごめんなさいぃ。わ、わたしぃ、そのぅ、ちょっとぉ人見知りでぇ、上手に場を盛り上げられなくてぇ、メア様にぃ、『何か、ウザいから湖の底にでも沈んでなさい!』とか言われてぇ、ずっとそうしてたんだけどぉ、やっぱり寂しいしぃ、誰かとお話したいなぁ〜とか思ってたところにぃ、鴨がネギ背負ってきたっていうかぁ』

「…ちょっと待て。その鴨っていうのは、私のことではないだろうな?」

 念のため訊いてみると、声の主はもじもじしながら答えた。

『だってぇ、だってぇ、前々からぁ、好みだなぁ〜って思っててぇ。でもぉ、メア様の玩具に手を出すわけにはいかないしぃ、湖に沈んでろって言われてたしぃ、お兄さんとは相性が悪すぎてぇ、どうせ話しかけても聞こえないだろうなぁって思ってたからぁ、我慢してたのぉ。そしたらぁ、ナイト様のおかげでぇメア様がちょっとだけ寛容になってぇ、もう出てきてもいいかなぁなんて思ってぇ』

「…いろいろ言いたいことはあるが…とりあえず、お前は何者だ?」

 七糸と契約してからというもの、自分が周囲の人間にどう思われているかということを正確に理解できるようになった。できれば知りたくないことばかりだったが――とりあえず、現状把握をしておいて損はない。相手に悪意がなくとも、間接的に悪い方向へと引き摺られることは多々あるのだ。

 その一つが、相性の良し悪しだ。精霊で言えば、火炎属性の者と水属性の者が一緒にいると、互いに競り合い、消耗し合う。もし、桟橋に潜む何者が水属性の精霊で、こちらに過剰干渉してきた場合、いろいろと面倒なことが起こる。

 ラビィと契約している火炎属性の精霊は、比較的おとなしい性格だが、本能的に攻撃性が強い。自分の契約主に水属性の精霊が近づけば、必ずといっていいほど、反発する。最悪、魔法攻撃の応酬になりかねない。

 やや警戒しつつ相手の出方を待つラビィに、桟橋の下の誰かさんは出し惜しみするように、でもぉそのぉちょっとぉ心の準備がぁまだっていうかぁなどと言い続け、いい加減、面倒くさくなってきたとき、頭上から聞き慣れた少年の声が割って入った。

『ああ、もう、ウザいっスねー、こいつ! 出し惜しみするほどの器でもねーってのに、何をモジモジしてやがるんスかね。あ、ちょいと攻撃とかしてみたら、びっくりして出てくるかもしんねースよ? いっちょ、やってやるッスか?』

 唐突に現れ、ラビィの頭を小さな手でポンポン叩きながら物騒なことを言い出したのは、ラビィの契約精霊・コルカである。大きな声のわりに手のひらよりも小さな体躯をしていて、赤黒い肌に鮮やかなオレンジ色の炎でできた髪と尻尾が特徴だ。一見すると愛らしいマスコットのようにも見えるが、無断で触ろうものなら、瞬時に炭にされる。

 そもそも、精霊には性別がないので、少年と表現するのもいかがなものかと思うが――雰囲気的に男っぽいので、ラビィはそのように扱っている。

「…コルカ。何度も言うようだが、初対面の相手にとりあえず攻撃しようとするのはよせ。メア様に叱られたいのか?」

 メア、という恐怖の代名詞に、コルカは、あからさまなほど反応した。

 ラビィの髪をぎゅっと握り、ガタガタと震え始める。

『メ、メメ、メメメメア様のお仕置きっっ!? そ、そそそそそんなもの、おいらは屁でもねーんスけどっっ! で、ででででも、そうッスね! ととととりあえずよくわかんねーから攻撃しようなんて時代錯誤で野蛮な発想は、同族を貶めるだけッスからね! ま、まずは話し合いをしたほうがいいスかね…』

「………そうだな…」

 我が精霊ながら、この変わり身の早さと怯えっぷりはどうしたらいいものか。もっとも、ラビィ自身、メアに対しては恐怖心と苦手意識しかないので、コルカの気持ちは痛いほどわかるのだが――それにしても、情けない。

(…まあ、怯えるのも無理はないか…)

 メアの精神攻撃は、生きとし生ける者だけでなく、実体のない精霊にも通用する。むしろ、精霊のほうが肉体という壁を持たないため、直接的にダメージを食らってしまう。

 当然ながら、コルカも最初のうちは、粋がっていた。メアに対しても、本当に迷惑なほど強く出ていたのだが、当然ながら、彼女が放置したりスルーしてくれるはずもなく……誇り高き火精一族も、メアの精神攻撃に呆気なく撃沈した。それ以来、メアが傍にいるとわかると、出てくること自体、拒絶するようになってしまった。

(……私も本音をいえば、メア様とは一生関わりたくないからな…)

 それができればどんなにいいかと何万回と考えてみたが、不運な運命からは抜け出せそうになかった。持ち前のウザいほど律儀な騎士道精神がそれを許さないのだ。

(…主であるナイト殿がメア様から離れてくれれば一番いいのだが――無理、だろうな…)

 相変わらず、メアは七糸にべったりで、最近では、こちらの世界の文字を勉強したいという彼の希望を叶えるべく、親身になって教えている。その甲斐甲斐しさは、傲岸不遜に他者を苦しめることしか頭にないと思われていたメアの意外な一面ではあるが――だからといって、七糸以外の者への態度は何も変わらない。容赦がなくて腹黒く、計算高い。唯一、変わったことといえば、メイドや侍従といった使用人たちを長く使うようになったということだろうか。これまでは、気持ちの良し悪しだけで平然と首を切っていたというのに、七糸が来てからは、使用人たちが不当に解雇されることはなくなった。その点では、ちょっとは寛容になったのかもしれない。まあ、これまでがこれまでなので、楽観視はできないが。

「…というわけで、どこの誰かは知らないが、いい加減に姿を見せてくれないか。話が進まない」

『えぇ? は、恥ずかしいんだけどぉ、そこまで言うならぁ』

 ラビィの声に、桟橋の下の精霊は、恥じらいつつもゆっくりと姿を見せた。

 案の定、現れたのは、水の精霊以外の何者でもなかった。淡く色づいた青くて小さな体。魚のヒレのような髪飾りを頭の左右につけて、まん丸でつぶらな瞳がこちらを見つめている。

『あのぅ、そのぅ、あたしはぁ前から知ってたからぁ、初めましてじゃないんだけどぉ、ナナシって言いますぅ。以後よろしくぅ』

「…名無し? お前には名前がないのか?」

 契約していない精霊には、基本的に名前がない。ただ、例外もあり、長く一か所に留まっていると、自然とその場所にちなんだ名称を自分の名前だと思い込む場合がある。たとえば、川の名前、湖の名前などがそうだ。

 それにしても、名無しとは、おかしな名前もあったものだ。記憶によれば、この湖にはきちんとした名称があったと思うのだが。

 すると、水の精霊ことナナシは、もじもじと小さな身体を揺すりながら言う。

『だからぁ、ナナシっていう名前なんだってばぁ。お兄さんの言う名無しとはぁ、発音が違うっていうかぁ、ちゃんと名乗ったんだからぁ、ご褒美ほしいとかぁ、思ってるんだけどぉ』

 すると、それを聞いたコルカが、小馬鹿にしたような顔でラビィの頭をぽふぽふ叩く。

『フン、たかが自己紹介くらいで偉ぶるとか、どーなんスかね。っていうか、自己紹介なんて、初対面ならやって当然じゃねースか。この程度で褒美を要求しようなんざ、水精一族ってのは、随分と安い種族なんスねー。ホント、嫌んなるッスよ。そういう低次元な奴が精霊名乗るとか、マジ、ありえねーんスけど。ホント、何考えてんのか、疑問ッスよねー』

 偉ぶる火の精霊に、ラビィが吐息まじりに言う。

「…そう思うなら、お前も自己紹介をしたらどうだ?」

『! も、もちろん、今から言おうとしてたッスよ? 別に、忘れてたとかじゃないッスからね?』

 早口で言うと、コルカはポッと小さな音を立てて飛び上がり、空中でくるんと一回転した。その際、尻尾の炎がふわりと舞い、ほのかな熱が肌を焼く。ナナシは、その熱から逃れるようにふわりと距離をとった。

『ない耳かっぽじって、よく聞くがいいッスよ! おいらは、栄光ある火精一族が一人、コルカ! 蒸発したくなかったら、さっさと湖の底に帰るがいいッスよ!』

 コルカは、自己紹介とは名ばかりの宣戦布告を叩きつけ、尻尾の炎を大きくしたり小さくしたりを繰り返した。どう好意的に見ても、挑発にしか思えない行為だ。

 それを見たナナシは、明らかに気分を害した様子で丸い目をすがめた。

『…蒸発させるよりぃ、消火されるほうがぁ、早いかもぉ?』

 言って、周囲に大粒の水滴を浮かべてみせる。

『へえ、おいらとやるんスか? 後悔しても遅いッスよ?』

『それはぁ、こっちのセリフぅ』

 バチバチと目に見えない火花が散る。それを呆れた様子で見ていたラビィが、手を伸ばしてコルカをわしづかみにした。

「いい加減にしろ、コルカ。ナナシも。ここで無闇に暴れると、メア様におしおきされるぞ?」

 それを聞いた精霊たちのテンションが、一瞬で下がる。

『い、嫌ッス、マジ、勘弁してほしいッス!』

 コルカは、今にも土下座しそうな悲惨な声で訴え、

『い、嫌ぁぁぁ! メア様に殺されるぅぅぅぅぅっっっ!』

 ナナシが涙声で叫び、ものすごい勢いで湖に飛び込んだ。

 ドッボオオオオオン!

 豪快な水しぶきと轟音が巻き上がり、湖に大きな渦が巻く。ナナシの小さな体躯からは考えられない変化だ。もしかすると、ナナシは水の精霊としてはかなり強力な部類に入るのかもしれない。

 それにしても――ナナシの怯えっぷりは、度を越している。一体、メアにどんなひどい目に遭わされたのだろうか。ラビィもコルカも、想像以上の反応に唖然とするしかない。

「……す、すごい逃げっぷりだな…」

『…そ、そうッスね。けど、わからないではないッスよ。マジで、おいらたち精霊にとってのメア様効果は半端ないッスから』

 言いながら、ラビィとコルカがじっと湖面を見つめる。

 ナナシが飛び込んだ勢いでしばらく湖面が渦巻いていたが、しばらくすると湖面の揺らぎが消えて静まった。

『……あー、こりゃ、完全に引きこもったみたいッスね。ビシバシ恐怖の波動が伝わってくるッスから、当分、出てこないッスよ』

 ラビィの頭の上に腰掛け、コルカが呟く。

「そうなのか?」

 ラビィにはわからないが、精霊同士、通じ合うものがあるのだろう。

「…そういえば、コルカ。今まで姿が見えなかったが、どこに行っていたんだ? いくらメア様が苦手とはいえ、お前らしくない」

 七糸が来てからというもの、コルカはぱったりと姿を見せなくなった。ラビィ自身、いろいろと大変な目に遭いすぎて、コルカの事情にまで気が回らなかったが――もしかすると、彼の棲む精霊界に何か緊急な用事でもあったのかもしれない。

 そう思い、訊いてみると、コルカは頭の上でちょこんとあぐらを組んだ。

『――何もないといえばないッスけど、あるといえばあるッスかね』

「? 何だ、それは?」

 曖昧な答えに、ラビィが首を傾げる。そのせいでバランスを崩したのか、コルカがぱっと肩に着地した。

『…つーか、前々から思ってたんスけど。兄貴には、ちょっくら危機感というか、身内に対する警戒心ってモンが足りてねーんじゃないッスかね』

「警戒心?」

 急に何を言い出すのかと思いきや、警戒心のなさをダメ出しされるとは。

「騎士である以上、それなりに持っているつもりだが。それがどうしたというのだ?」

 きょとんとするラビィに、コルカがポッポと尻尾の炎を大きくしながら小さな手を握りしめた。

『つもりじゃ、駄目なんスよ。そもそも、兄貴は、お人好しすぎるんス。キールケの兄貴もよく言ってたじゃないスか。ほら、覚えてないんスか?』

「?? キールケが言っていたこと?」

 基本的にキールケはお調子者で会話の八割はくだらないことなので、聞き流していた節がある。そのせいか、コルカの言いたいことが何なのか、見当もつかない。

 それでも、何とか思い出してみようと試みるものの、それらしい内容が一つも思い浮かばない。

 すると、コルカが大きな溜息をついた。

『…はーっ、本当に、昔っから手のかかる兄貴ッスね。いいッスか? キールケの兄貴が言ってたことってのは――まず、一つ。話しかけられても知らない人にはついて行かないこと。二つ、たとえ知り合いだとしても絶対に金を貸さないこと。三つ、不自然なほど親切にしてくる奴には近づくな。四つ、女は魔物だと思ってすぐに気を許さないこと、等々。他にもいろいろ言ってたじゃないッスか。本当に覚えてないんスか?』

「――覚えてない、というか……そんな話、したか?」

 どう考えても、親が子供相手に言うことばかりだ。同い年の男相手に言うような内容ではないと思うのだが――。

 しかし、コルカは言う。小さな手を、くびれのない腰に押し当てて。

『はーっ、これだから、おいらが見張ってないと駄目なんスよ、兄貴は』

「…いや、さすがに、そこまでひどくはないと思うぞ?」

 確かに、少々隙が多いとは言われるが、精霊の見張りが必要なほど危なっかしくはない。第一、今の言いかただと、ラビィが取り返しのつかない失態を演じたみたいではないか。

 ちょっと不満げな視線を送ってやると、コルカが、困ったような目つきでこちらを見てきた。

『…マジで何も気づいてねーみたいッスから、はっきり言うッスけど。おいらが兄貴の傍を離れてたのは、メア様が怖いからなんて理由じゃないッスよ? そりゃ、メア様のことは苦手ッスけど、兄貴のピンチには華麗に優雅に登場する心積もりでいるんスからね』

 けど、と小さな目をしばたたかせて、彼は続ける。

『…ありゃ、厄介ッスよ。おいらたち精霊に対する干渉力が強すぎるんス。傍にいると悪影響を受けそうだったんで、なるべく離れてたんスけど――それはそれで問題があると、この間の一件でわかったッスからね』

「? 何の話だ?」

 唐突に始まった話についていけずにいると、コルカが本当にどうしようもないなと言いたげな顔つきになった。

『あの、ナイトとかいう男女おとこおんなのことッスよ。ありゃ、ヤバいッスよ! 猛烈、壮絶、超絶、危険人物ッスよ! 一緒にいて、何も感じないんスか?』

「ナイト殿が危険…?」

 何を言い出すかと思えば――よりにもよって、七糸批判とは。

「そんなはずはない。ナイト殿は、私がこれまで出会った誰よりも非力で無害な人物だぞ?」

 剣も魔法も扱えないし、運動能力も高いとは言い難い。身体つきは細く、筋肉なんてついてないのではないかと思えるほどで、どう考えても戦闘向きではない。むしろ、最近なんて、暇潰しに始めたものの、凝り性なのか、裁縫や菓子づくりの腕を磨いている場面をよく見かける。その姿は、まるで、平凡な村娘そのもの。

(……いや、そうではないな…)

 村娘、というのは七糸に失礼だ。七糸自身が、自分を男だと言い張っているので、少年と言い直すべきだろう。しかし――どうにも、近頃、七糸が普通の女の子のように見えて困るのも事実。

 いや、もちろん、身体的には女性なので、見た目は、ごく普通の少女なのだが――それでも、これまでは、容姿に惑わされるなんてことはなかった。それなのに……今では、男として認識することのほうが難しく感じられる。

(…それもこれも、あの一件のせいだ)

 どこでどう話がこじれたのか、ラビィが七糸を好きらしいという根も葉もない噂が広がり、そのせいで、七糸への接近禁止令が発動した。そして、仕方なく距離を置いてみて、わかったことが一つ。

(――…ナイト殿は、どうやっても男には見えない…)

 それは、容姿だけではなく、中身もそうで、男というよりはボーイッシュな少女というくくりで収まるレベルに思えてならない。

 そうなると、男として扱おうとしても扱いにくくなってくる。そのせいか、この頃、七糸に対して、妙に気を遣うというか、距離を取ろうとしてしまうというか――騎士らしくないことは承知しているが、とにかく、どうしていいものかわからずに逃げ腰で接してしまう。

 そんなラビィの複雑な心情を察したわけではないのだろうが、コルカが珍しく慎重な声音で言った。

『…ラビィの兄貴。できるなら、あまり深入りしないほうがいいッスよ、あの男女には。でないと、今度こそ取り返しのつかねーことになりかねないッスからね』

「…男女とか言うな。ナイト殿は、私の主だぞ。というか、今度こそとは何だ。前に、何かされたというのか? お前はナイト殿とは直接面識がないはずだろう?」

 ラビィの訝しげな声に、コルカはやや苛立ったように頭の炎を大きくした。

『――ったく、マジで、何もわかってねーんスね。あのとき――あの男女が兄貴の手に触ったとき、おいらは、感じたんスよ。おいらたちの契約が一瞬で切られたのを』

「…何? そんなことあるはずがないだろう」

 念のため、試しに魔法を使ってみる。精霊との契約が切られていると、魔法が使えなくなるのだが――問題なく、手のひらサイズの火の玉がぽんっと目の前に現れた。

「…見ろ。契約は維持されているぞ?」

 何の違和感もないし、危惧するような事態には陥っていないように思える。しかし、コルカは、真剣そのものの顔つきで言い募る。

『それは、おいらが気づいて、すぐに結び直したからッスよ! そうじゃなきゃ、今頃、兄貴は魔法が使えなくなってるところッスからね?』

 その言葉に、嘘の臭いは感じない。ということは、彼の話は真実だということになる。

「――…しかし、そんな嫌な気配はなかったぞ?」

 七糸が何かしようとしたのなら、本能的に察知していてもおかしくはないはずだ。

 あのとき、自分が感じたことといえば、思っていた以上に細くて白い手の感触に戸惑ったぐらいで――…。

『…問題なのは、それだけじゃねーッスよ、兄貴。さっきのナナシの件にしても、あの男女が絡んでるの、気づいてねーでしょう?』

「……ナナシの件? ああ、水の精霊との会話、か」

 確かに、それに関しては奇妙だと思う。

 本来、話せない相手と話したのだから。

 それが、ただの偶然で可能になるような事柄ではないことくらい理解している。しかし、メアの結界内にいるのだから、多少精神におかしな作用があってもおかしくない気もする。

 思案顔になるラビィを見つめ、コルカは続ける。

『…あの男女には、マジで、ヤバいものを感じるッスよ。それこそ、世界の理を歪めちまいそうな、そういう悪質な何かがある気がしてならねーんス』

「――とはいえ、それはお前の見解であって、真実かどうかはわからないだろう? ただの思い込みや勘違いということもある以上、迂闊なことは口にしないほうがいい」

 咄嗟に、七糸を庇うような発言をしてしまったのは、コルカの意見を信じていないからではない。むしろ、長年の付き合いであるコルカの勘は、誰よりも当たると知っているだけに、月並みなことしか言えなかったというほうが正しい。

 だが、何があろうとも、主である七糸の味方で居続けることは、騎士として当然のことだ。

 そんなラビィに、コルカは、容赦なく、最も恐ろしいことを口にした。

『…兄貴。おいらの見たところ、あの男女の能力は、ある意味、メア様よりも質が悪いッスよ。おいらたちの契約をあっさりと切るなんて真似、さしものメア様にも不可能ッスからね。それに……あのとき、兄貴とあの男女との契約も一緒に切れた可能性もあるんスよ。精霊との契約を強制的に解除するような超強力な術なら、何の通告もなしに主従契約を切ることくらい容易いッスからね』

「――なっ!?」

 それは、聞き捨てならない話だった。

「馬鹿を言え。そんなことがあるはずがない。第一、それならそれで、私自身何かしら感じるものがあるはずではないか」

 主従契約を切る場合、原則として、主から直接その旨を聞く必要がある。そして、前の主との絆が切れた瞬間のことを、ラビィは、今でもよく覚えている。

 まるで、帰る家を失ったような漠然とした不安に襲われ、奇妙なほどの虚脱感を覚えたが、七糸と契約してからは、そんな感覚に襲われたことはない。そのことからすると、七糸との契約は問題なく継続しているということになるが――…絶対に何も変化がないかと問われれば、自信はない。

 そもそも、主従契約を交わしたからといって、目に見えて大きな変化が起きるというわけではないのだ。潜在能力が引き出されるといっても、戦う機会がなければ、それを実感できる場はないわけで――。

(…ナイト殿に仕えてからというもの、戦闘とはかけ離れた生活をしていたからな)

 だから、今、自分と七糸の間にある主従関係が正常に働いているかどうかと問われると、正直、戸惑う。何せ、このところ、七糸と微妙に距離をとっているため、契約が弱まっていてもおかしくはないからだ。竜族の主従契約は、絆の強さ――つまりは、執着や愛着と置き換えることもできるためだ。

『――とにかく、兄貴。あの男女と契約が切れてるのなら、早く離れるべきッスよ。このままだと、おいらだけじゃなく兄貴まで悪影響を受けちまいそうッスからね』

「いや、しかし、悪影響といっても――今のところ、ナナシと話ができるようになった以外、何もないしな」

 もっとも、水属性の精霊と会話可能になったということ自体、充分すぎるほど大問題なのだが――それでも、七糸から離れなくてはいけないという絶対的な動機にはならない。

(…コルカの心配もわからないでもない。しかし……)

 七糸が悪意をもって何かをやろうとしている、もしくは、行っているとは思えないだけに、早まった判断はしたくないし、疑うようなこともしたくはない。いや、それどころか、七糸に関しては猜疑心を持つこと自体、悪いことのように思えてならない。

(…何せ、私がこれまで見てきたなかで、一番、欲だの悪意だのからはかけ離れた存在だからな)

 もともと、自分が他者を信じやすい性格で、容易に騙されるということは自覚しているが、それでも七糸を信じたい気持ちは何よりも強い。

(…それにしても、気になるな……)

 コルカが言っていた、七糸との契約が切れているという可能性。

 そんな事実はないと思うが、もしそうなら、メアの報復さえどうにかできればこの場からいち早く離れるべきだ。そうすれば、魔王に敵対しただの、一族を裏切っただのという濡れ衣を晴らす機会にも恵まれるだろうし、これまで通り、何の疑問も後悔もなく思い通りの騎士道を貫くことができるに違いない。

(…とはいえ、それはそれで気に食わないような……)

 騎士にとって、契約を切られるということは、即ち、存在否定に繋がる。主に必要とされてこその騎士なのに、いらないと言われると――それは、プライド云々の問題ではなく、死活問題に近いものがある。それだけに、七糸との契約が継続中なのかどうかということは、ラビィにとっては、何を置いても優先すべき問題だった。

(……一応、それとなく探りをいれておくべきだろうな)

 七糸との契約。それ自体は不本意なものだが、契約を交わした以上、ラビィにとっては何よりも優先される事柄だ。もし、それが失われているとしたら――…七糸に問わなくてはいけない。解約の理由を。何故、自分ではいけないのかを。

 ラビィは気難しい顔つきで、目の前の精霊を見やった。

 コルカは、もの言いたげにこちらを見つめている。共有した時間が長いせいか、精霊と契約者というよりは、兄弟や友人という感覚で付き合っているため、その心中を察することは難しくない。

「――そんなに心配するな、コルカ。とりあえず、ナイト殿が何者であるかは私にもわからないが、メア様が常に傍に控えているのは、不用意に深入りしないようにという警告やもしれん。だとすれば、余計な追及はしないほうが賢明だろうな。ただ…ナイト殿との契約の件に関しては、はっきりさせておく必要がある」

 その結果次第では、この地を離れるという選択肢もありえる。

 コルカとラビィが緊張気味に視線を交わしていると、不意に遠くからラビィを呼ぶ声が聞こえた。シリアスな空気を一瞬で吹き飛ばす、陽気で伸びやかな声音だった。




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