二・五話 其の二
《 第二・五話 其の二》
目覚めたとき、最初に見えたのは、見慣れた天井だった。
次に、熱に強い赤煉瓦でつくった壁とお気に入りの本棚を確認して、サーシャは思った。
帰ってきたのだ、と。
ゆっくりと身体を起こして、軽く頭を振る。
身体も頭も、何もかもが重くて、まるで夢の世界にいるかのように感覚が鈍い。
「…ライナ? パパ、ママ…?」
ベッドから起きて、素足を床につける。ひやりとした板の感触は驚くほどリアルなのに、やはり、サーシャの頭はどこかぼんやりとしている。
ふらふらと立ち上がり、窓へと向かう。
外光を遮る薄緑色のカーテンを開き、窓を開ける。
ふわりと熱を帯びた風が吹いて、サーシャは首を傾げた。
「……あれ? サーシャ、どうしてここにいるんだろ?」
最後の記憶に残っているのは、氷の洞窟で凍えていたこと。
しかし、今、自分がいるのは、よく知っている場所。自分の部屋。
「…だれかが、たすけてくれたのかな?」
ライナだろうか?
しかし、彼女も一緒に倒れていたはずだ。
だったら、一体、誰が――?
(……もしかして、ここって、てんごくなのかな?)
生きとし生けるものは、死んだら天国という場所へ行くのだと母親が教えてくれた。そこは、死者にとって一番幸せな世界なのだ、と。
もし、それが本当なら――もし、ここが、本当に天国だったなら。
「……ラビィにーさまもいるのかな?」
呟いてみて、サーシャは急に悲しい気持ちになった。
天国は、死んだ人がいる場所なのだから、彼がいるはずがない。そう、気づいたからだ。
「…ライナは……」
彼女も、ここにいるのだろうか。
いればいいと思う気持ちと、いなければいいと思う気持ちが交錯する。
(…ライナがしんじゃうのは、いや。でも…ひとりぼっちもいやだよ……)
しんと静まり返った部屋は、もの悲しくて、心なしか肌寒い。独りきりでいると、心まで冷たくなってしまいそうになる。
「――いやだよ。ひとりぼっちは、いやっ!」
サーシャは、泣き出しそうな心を抱えて、部屋を飛び出した。
「パパ、ママ! ライナぁ!」
声をあげて、人影を探して家中を走り回る。しかし、誰もいない。
家を出たサーシャは、足が痛くなるほどがむしゃらに町中を駆け回ったが、やはり、どこにも人の気配はない。それどころか、探せば探すほど、希望どころか絶望の兆しばかりが見えてきて――やがて、恐ろしい現実に突き当たる。
――ここには、誰もいない。
いるのは、自分だけ。家族や友達、近所のおじさんおばさんたちも。誰一人、見当たらない。それどころか、虫や動物、精霊すら存在していない。
「……なんで、いないの? だれもいないの、なんで――?」
みんなに、置いて行かれた。
もう、二度と会えない。会うことはできない。
そう考えると、ぼろぼろと涙が零れた。顔中をぐしゃぐしゃにして、サーシャは泣きじゃくった。
いつもなら、泣いていれば誰かが心配して駆けつけてくれるはずなのに、今日は誰も来てくれない。それどころか、物音一つ、聞こえない。その事実が、余計に孤独感を際立たせる。
「うっ、うっ、うわあああんっっ」
しゃがみ込んで、大声を上げて泣き喚くが、やはり、誰も来ない。可哀想な子供を、助けてはくれない。
独りぼっちだ。
世界のすべてに、置いて行かれた。
泣いて泣いて、叫んで、泣いて――体力のすべてを使って嘆いた。
そして、どれくらい泣いていたのか。泣きすぎて、瞼がぼってりと腫れて、視界が悪い。そんな彼女の潤んだ視界の端に、ふと何かの影が見えた。
「……?」
目を凝らしてみるが、よく見えない。ただ、それが大人であるということだけは、かろうじてわかった。
砂利道を踏みしめるようにして歩く足音は、子供のものではない。
大きな靴を履いた大人の足が、ゆっくりと、近づいてくる。
「…うっ、ひっく…」
しゃくりあげながら、サーシャがその人物を見つめる。しかし、逆光のせいで、顔が見えない。
「………だあれ?」
訊いてみるが、こちらを見下ろす影は、何も答えない。その表情どころか、身体の輪郭そのものが薄く消え入りそうだ。
「……ラビィにーさま…?」
身長と雰囲気から、そんな気がして呼んでみる。
すると、謎の影はちょっと笑ったようだった。
「…なるほど、君にもそう見えるのか。なら、そういうことにしておこうかな」
「……? にーさまじゃないの?」
その問いに影は答えず、優しく叱るような口調で一言。
「――行きなさい」
「えっ?」
謎の人物の発した声そのものに魔力があったのか――サーシャの意識は、身体ごと、どこか遠くに吹き飛ばされた。
そして――今度こそ、はっきりと意識を取り戻したとき、目の前にいた見知らぬおかっぱ頭の少女と目が合った。
「…サーシャ、起きた? どっか痛いトコない?」
「…? ライナ…?」
その声と喋りかたから、見当をつけて訊く。すると、少女は大きく頷いて、ぎゅっと首に抱きついてきた。
「よかったーっ! なかなか起きないんだもん、すっごく心配したよ!」
「う、うん……で、でも、ライナ、本当にライナなの?」
サーシャが戸惑いがちに確認する。それも無理はない。
少なくとも、サーシャの知っているライナは、彼女のように身長が高くなかったし、顔立ちももっと幼かった。それなのに、ぎゅっと首に回してきた腕は細長くしなやかで、年頃の少女らしい柔らかな腰のくびれがあり、胸は、まあ、子供の域を脱しないが、それでも、以前のような幼い感じはどこにも残っていない。しかし、顔立ちや体つきは変化しているものの、口調や仕草はライナそのもので――一体、何がどうなっているのか。混乱してしまう。
戸惑うサーシャに、少女は、元気な微笑みを浮かべてベッド脇でくるりと一回転してみせた。ふわりとしたワンピースの裾が、綺麗な弧を描いてひらめく。
「えへへっ。見て見て、ライナ、大人っぽいでしょー?」
「う、うん。でも、何で…」
混乱しているサーシャの問いに、彼女は悪戯っ子みたいな目つきになった。
「あのね、よくわかんないけど、起きたら、おっきくなってたの! きっと、『冷窟』に長いこといたから、大人になったんだよ!」
「そうなの?」
よくわからない。氷の精霊の話によれば、あの氷の玉を壊さなければいけないという話だったような気がするが――。
ライナは、浮かれた様子で、手鏡をサーシャに手渡した。
「サーシャも大人になってるよ! 見て!」
「…え?」
言われて、恐る恐る、鏡を見つめてみる。
「――…!」
鏡のなかで、見知らぬ少女が驚いた表情を浮かべているのが見えた。
かつての幼さはどこにもなく、おとなしそうな少女が鏡越しにこちらを凝視している。
「……本当に、サーシャなの?」
サーシャが唇を動かせると、鏡のなかの少女の唇も同じように動く。ちょっと不安げな瞳がこちらを見つめていて――サーシャは、念のために頬を軽くつねってみた。
「……いたい…」
鏡のなかの少女がしかめ面になる。それを見て、ようやく、ライナの言葉が本当だと理解できた。
「…ホントだ…ホントに、大人になってる」
嬉しそうにライナのほうを見たサーシャは、はっとした。
彼女の背には、あるべきものがなかったからだ。
「…ライナ、羽はどうしたの?」
その言葉に、彼女の表情が一瞬で暗くなる。
「……ライナ、羽は…?」
震える訊くと、彼女は、ちょっと困ったような顔つきになって、ベッドの端に座った。
「…うん、あのね。ライナたち、ずっと『冷窟』にいたでしょ? そのせいで、羽が凍っちゃって使えなくなったんだって。だから、もう羽ないの。二度と飛べないって」
「――えっ?」
その言葉に、頭が真っ白になる。
竜族にとって羽を失うということは、自由を奪われるのと同じだ。焔の地は高い山々に囲まれているため、徒歩で他の土地まで行くことは困難を極めるし、空が飛べなければ、竜族として半人前と見なされてしまう。無事成長することができたとしても、奇異な視線にさらされることは避けられない。そして、何より恐ろしいのが、拒絶だ。
(……羽がなくなったら、みんなに嫌われちゃうから…)
いろんな理由で羽を失った大人の竜を何人か知っている。そういう可哀想な人々を、影で大人たちがどう言っているのかも、知っている。だからこそ、これからライナを待つであろう過酷な運命が容易に想像がついた。
きっと、竜族の恥だとか言われて、蔑まれて、それで――。
「………ライナ…」
どう励ませばいいのかわからないでいると、ライナがにこっと笑った。
「大丈夫だよ、サーシャの羽は飛べるもん。にーさまのトコに行けるよ」
「…でも、そんなの」
「サーシャが飛べるようになったら、ライナも一緒につれてってね。約束だよ?」
元気にそう言われて、サーシャが何も言えずに黙り込んでこくんと頷いた。それを見たライナは、ベッドから勢いよく飛び降りて、くるりとこちらを向いた。
「……ね、サーシャ。寝てる間、夢でラビィにーさまに会わなかった?」
その質問に、ふと夢で見た正体不明の影がよぎった。その姿は、ラビィのようでいて、そうではなかった、とサーシャは思う。
「――う、うん。でも、にーさまじゃなかったよ?」
どうして夢の内容を知っているのかと疑問に思いながら言うと、ライナは腕を組んで首を傾げた。
「…えー? にーさまだと思うけどなあ。だって、ライナが独りぼっちで泣いてたら、助けてくれたんだよ? サーシャのことも助けなきゃって言ってたし。にーさまだよ、絶対!」
「…サーシャもね、最初はそうかなーって思ったけど、でも、違うみたいだったよ?」
その証拠に、あの声の主は、こう言っていた。
――君にもそう見えるのか。なら、そういうことにしておこうかな。
そんな言いかたをしたのは、きっと別人だったからだろう。しかし、ライナはすっかりラビィだと信じきっている様子。まあ、サーシャ自身、その気持ちはわからないでもなかった。
(……だって、にーさまは、ライナとサーシャを助けてくれたから)
命の恩人、といってもいい。その出会いは、二人にとっては何よりも大切な思い出で――あまりにも、運命的すぎたから。
火竜一族の掟では、ある一定の年齢に達した者たちは、王都や都会に出ていくことになっている。だから、基本的にこの町にいるのは、女子供や年寄り、守護と警備を司る兵士たち、そして、武術や魔術を学ぶ訓練生たちだけだ。
ラビィと初めて会ったのは、ライナとサーシャが生まれて十五年後のことだった。病気のせいで、二人はまだ赤ん坊が少し大きくなった程度しかなくて、その頃の記憶はおぼろげだ。それでも、二人がラビィのことを覚えているのには、理由があった。
竜族の子供は、常に狙われる。たとえ、成長不全症の子供であったとしても、それは変わらない。
理由の一つとして挙げられるのが、竜族の習性である契約を悪用するため。一度、契約してしまえば、それから逃れる術はない。死ぬまで、道具のように使い潰される。
しかし、竜族が狙われるのはそれだけが理由ではない。その能力は、戦闘のみに特化しているわけではないのだ。たとえば、火竜一族の場合、鱗は火炎魔法への耐性を高める護符になり、その血は、最高級の強心剤になる。つまり、利益を求める者にとっては、子供であろうが病気であろうが関係ない。竜族は金のなる木なのだ。
そして、それは、欲に目が眩んだ同族にとっても同じこと。
どこにでも、悪い輩はいる。同族だから安心というわけではない。誰の心にも、悪魔は棲んでいるのだ。
そして、不運にも、ライナとサーシャを含む複数の子供たちが、その悪意に晒されることになった。
ある日の夜、闇に紛れて攫われたのだ。徒党を組んだ、同族の男たち――守ることを役職とする、兵士たちの手によって。
覚えているのは、暗闇のなかで激しく揺れる身体。麻袋のようなものにでも入れられていたのだろう。手や頬、足など、露出した部分にちくちくとした感触があった。
視界は当然なく、逃げる男たちの息遣いと急げと囁く低い声、そして、慌ただしい足音だけが聞こえてきた。子供を複数担いでいるせいで飛べないのか、それとも、空を飛ぶことで人目につくことを恐れたのか――兵士たちは、悪路にも負けず、子供の入った袋をいくつも担いで走って行く。
どこかで、子供の泣き声がした。同じように、捕まった子供なのだろう。うるさいと誰かが言って、直後、ひどく嫌な音がした。
――ただ、ただ、無性に恐ろしかった。
子供ながらに、とてもよくないことが起きているとわかった。それこそ、生命にかかわるほどの恐ろしい何かが、強烈な不安となって襲ってくる。
そのときだった。
ひどく乱れた犯人たちの足音が、ぴたりととまったのは。
それと同時に、勝ち気な少年の声が勢いよく暗闇に響き渡った。
「待て待てーっ! あんたら、兵士のくせに何やってんだよ!?」
その声に、兵士の一人が鼻で笑うのが聞こえた。
「――ふん。なんだ、誰かと思ったら、キールケじゃねえか。ガキがでしゃばんじゃねえよ」
「なんだとーっ!? そっちこそ、大人のくせにおかしな真似すんじゃねえよ!」
「チッ、うるせえガキだな。ぶっ殺されてえのか?」
口の悪い兵士に、キールケと呼ばれた少年が噛みつく。
「殺されんのは、そっちだろ! 誘拐は死罪だぞ! 断罪者に見つかったら、お前らなんか一発でオダブツだかんな!?」
断罪者、という言葉に、一瞬、兵士たちの間に動揺が走る。しかし、すぐに平常心を取り戻して、子供の入った麻袋を担ぎ直した。
「ふん。要するに、見つからなけりゃいいんだろうが!」
「そ、そうだ! それにいくら奴らでも、法の及ばない他国に逃げちまえば無茶はできねえんだ。そこまで逃げきりゃいいだけの話だろ」
「ハッ、逃げきれるわけがねえだろ、バーカ! 往生際が悪ィぜ、おっさんたち!」
キールケの嘲りを込めた声に、兵士たちは強気の態度で応じる。
「――ふん。んなもん、やってみなきゃわからねえだろ」
「そうだな。とりあえず、このガキを始末しとこうぜ。騒がれちゃ面倒だ」
「ああ。オレがやっとくから、お前らは先に行っとけ」
どさり、とサーシャの入った袋が乱暴に地面に落とされる。その勢いで、袋を縛っていた紐が緩み、サーシャの上半身が外に出る。すぐ傍には、一緒に担がれていたのだろう。泣いているライナの姿があった。
「…しかし、運が悪かったな、キールケ。恨むなよ? ガキがこんな時間まで夜遊びしてるのが悪いんだぜ?」
暗闇でよく見えないが、おそらく、残忍な笑みを浮かべているのだろう。急速に彼を取り巻く空気が張りつめ、温度をなくしていくのがわかる。
兵士は、殺気を隠すこともせずに、すうっと腰にさげた剣の柄に指をかけた。その銀にきらめく凶器を引き抜こうとしたとき――異変が起きた。
「……ぐっっ!!」
前方で、男のくぐもった声が聞こえた。先に行った兵士の一人だろうか。その直後に、何かが地面に転がる音が響き、続け様に複数の悲鳴らしき声と剣戟が耳に届く。
「っ! まさか、もう嗅ぎつけやがったのか!?」
断罪者を警戒する兵士の注意が前方に向かったのを見て、キールケが強く地面を蹴った。
「油断大敵だぜ、おっさんっ!」
叫んで、腰に差した剣を抜き突進するが、鍛錬を積んだ兵士には何の脅威にもならない。さらりと攻撃を受け流されただけでなく、あっさりと剣を弾かれ、腕をつかまれたまま腹から地面に叩きつけられる。
「ぐふっ!」
肺が潰れるような声を上げたキールケの背中に、兵士が鋭い剣の切っ先を向けた。その動きには、同族を殺すことへの躊躇いはない。
「じゃあな、あばよ!」
兵士が薄く笑い、容赦なく凶器を振るおうとした瞬間――キンッと甲高い音が響いた。前方の暗がりから飛んできた何かが、兵士の手から剣を弾いたのだ。
「っ、誰だ!?」
兵士がキールケの背中を踏みつけたまま、鋭い視線で周囲を探る。
ここには、光なんてものはない。遠くに、道しるべのように灯された光が見えるが、ここまでは届かない。暗く静かな闇に満ちた、森のなか。ざわざわと不安を煽る木々の葉音と、不気味なほど押し殺された兵士の呼吸音、呻くキールケの苦しげな声しか聞こえない。
しかし、何者かがいる。それは、確かだった。
「………」
兵士の息遣いが変わる。戦闘に適した、独特な呼吸法。身体能力を最大限に発揮できるように、全身に気を巡らせる。
「――…そこかっ!」
鋭い視線を投げた兵士は、俊敏な動作で懐から取り出した細長いナイフを放った。ひゅんと闇を切り裂きながら、銀の刃が獲物を狙う。しかし、それは呆気なく弾かれ、太い樹木に突き刺さった。
それを見た兵士は、にっと薄い笑みを浮かべた。そして、素早く、ナイフを弾いた何者かが潜む闇へとつま先を向け、力強く大地を蹴った。その一連の動作に一切の無駄はない。一秒にも満たないうちに地面に転がる自らの剣を拾い上げ、突進していく。
「っ、ラビィ!」
キールケが苦しげに胸を押さえながら、友の名を叫ぶ。
それと同時に、闇の奥で剣戟が聞こえた。剣と剣がぶつかり合って、ぞっとするような鋭い音が鳴り響いた。闇どころか、魂までも切り裂きそうな危機迫るやりとりは――長くは続かない。
「っっ」
ザンッと、荒く空気を切り裂く音がしたと同時に、悲鳴にならない声が聞こえた。
「! ラビィ!」
キールケが地面に手をついて、立ち上がる。そして、ふらつきながら音の消えた森の奥へ向かおうとして、足をとめた。その目から焦燥と警戒の色が消え、ほっと安堵の息が漏れる。
「! よかった、無事か?」
「ああ。お前こそ、平気か?」
澄んだ声が気遣うように聞こえて、一人の少年が姿を見せる。
竜族は夜目が利くとはいっても、幼いサーシャには、声と気配しかわからない。
そんなとき、ふっと、視界が明るくなった。
少年の一人が、魔法で炎を出したのだ。ふわふわと火の玉のように浮かぶ光に照らし出されたのは、大人と呼ぶには若すぎる少年二人組だった。一人は、やんちゃそうな吊り目の二枚羽の少年で、もう一人は優しげな雰囲気を纏う四枚羽の少年。兵士たちを倒したのは、意外にも後者だった。
「ったく、無茶するよなあ、お前。誘拐犯を見つけたら大人に知らせるのがセオリーってもんだろ」
吊り目の少年・キールケの呆れ声に、もう一人の少年・ラビィが眉を寄せた。
「大人に知らせてたら、間に合わないじゃないか。それに、子供の夜間外出は掟で禁止されているだろう?」
「あ、そういやそうだったな。バレたら、面倒だもんな」
キールケがからりと笑い、頭の上で手を組む。
「しっかし、夜に剣の特訓しててよかったよなあ。おかげで、こいつら、誘拐されずにすんだしよ。んで、他の兵士どもはどうしたんだ?」
「――…とりあえず、動けないようにしてある。二、三日は身動きがとれないだろうから、その間に大人たちが見つけるだろう」
「動けねえって、何したんだ?」
興味津々なキールケに、ラビィはちょっと苦い顔つきになった。
「とりあえず、急所を切っておいた」
「うっわ、えげつねえ!」
キールケが顔をしかめて声をあげた。
竜族にとっての最大の急所は、背中にある。羽の付け根部分なのだが、そこを突かれると意識を失うほどの激痛が走り、それが数日間続く。その間は、動くどころか、意識を取り戻すこともできない。例えるなら、全身を熱した鉄串でザクザクと攻撃され続けている感じだろうか。もっとも、竜族ならば誰もが一番に保護すべき場所で、当然ながら兵士が何の防具もつけずにいるはずがないが――子供とはいえ、四枚羽の竜であるラビィのハンデにはならない。結局のところ、防御も攻撃も、魔力の強さがものを言うのだ。現段階においても、ラビィの魔力は兵士たちを大きく上回っている。だからこそ、奇襲を仕掛けようという話になったし、キールケも囮になることを即断できたのだ。
「…仕方ないだろう。相手は、プロだ。手加減したらこちらが危ない」
「よく言うぜ、お前が本気になりゃ瞬殺できただろうに――けど、あいつらにとっては死ぬよりも最悪な事態になったことは確かだけどな。誘拐は死罪だし、いたぶるのが大好きな断罪者どもにとっちゃ、久しぶりの獲物だ。どんな目に遭うか、考えただけでぞっとするぜ。まあ、悪いことしたんだから自業自得だけどさ。ま、それはそれとして。早くガキどもを家に帰してやらねえか? 可哀想だろ、いつまでも袋のなかとかさ」
「ああ、そうだな」
「んじゃ、俺はあっちのほうを見てくる。つか、何人くらいいるんだろうな? 俺たちだけで運べるのか?」
キールケが軽い足取りで奥へ向かいながら言う。ラビィはちょっと考えて、
「たぶん、全部で十七くらいだったと思う。一度には無理でも、何往復かすれば、大丈夫だろう」
「…はあっ。面倒くせえなあ。こういうとき、腕が十本くらいあったら便利だなーとか思わねえ?」
「? 何を言っている。腕が十本もあったら、日常生活に支障が出て大変なことになるではないか」
冗談の通じない真面目すぎるラビィの反応に、キールケが呆れたような吐息を返した。
「はあっ。ま、二本の手で地道に働くしかねえってことか。あー、マジ、ウゼェなあ。分身とかできりゃ、いろいろ楽なのになあ」
森の奥へ向かいながら、そんなことをぼやく。
「…分身? あいつは、ときどき、よくわからないことを言い出すな…」
友の背中を見送りつつ、ラビィも歩き出す。
じゃり、と土を踏む音がする。これまでの慌ただしいものではなく、静かな足音だ。
ゆっくりと麻袋へと近づいてくるその姿が、サーシャの目に焼きつく。
オレンジ色の光を浴びた、人影。
決して大きくはないが、それでも、これまで見たどんなものよりも遙かに巨大で、絶対的なものに思えた。
じわりと胸に滲むのは、先ほどまでの恐怖とは真逆の、安心感。
幼いサーシャは、まばたきするのも忘れて、その光景を見つめる。
大人しそうな目元や、かすかな風に揺れる赤毛、こちらに伸ばされた手がサーシャの頭を優しく撫でてくれる。細められた瞳が、何だかとても綺麗で――幼い心に、瞳に、夢のように映ったのをよく覚えている。
そして、それはライナも同じだったようで――。
あの日から、ラビィは二人にとっての英雄的存在になった。
いつも、どんなときでも、何が起きたとしても、絶対に助けに来てくれる。勝手にそう思い込んで、信じてきたけれど……それは、ただの願望だったと今ならわかる。
(……だって、にーさまは行っちゃったんだもん)
ライナとサーシャを置いて、彼は一人で行ってしまった。きっともう、あのときみたいに、助けに来てはくれない。それどころか、もう二度と会えないかもしれないのだ。
そう考えたら、何とも言えない気持ちがわき上がり、きゅうっと胸が苦しくなってきた。
「…サーシャ? どしたの?」
ライナが心配そうにこちらを見つめる。
「ううん、何でもないよ」
答えるものの、声に元気がない。
すると、何かを察したようにライナが笑いかけてきた。
「ね、ね、サーシャ。いいコト、教えてあげよっか?」
顔を近づけて、内緒だよと囁いた彼女は、そっとサーシャの目の前に手のひらを差し出した。
「よーく見てて!」
きらきらと瞳を輝かせたライナの顔を不思議そうに見やり、サーシャは手のひらへと視線を移す。
何の変哲もない、少女の手。白くて、細くて、頼りないだけの。
しかし――。
「……えっ?」
思わず、目を疑う。
急に、視界に淡い光の粒が現れたのだ。
「…これって…魔法?」
サーシャが驚くのも当然だった。二人は、ついさっきまで、魔法どころか竜族としての初歩である飛行さえできない幼い子供だったのだ。それが、何の教えもなく、唐突に魔法を使えるようになるなんてこと、あるはずがない。何より、彼女の魔法は異常だった。
「……どうして…?」
ライナの手のひらでひらひらと舞うのは、『冷窟』で見た氷の欠片。この辺りでは、あの洞窟以外では見られないはずの、淡い光を放つ氷の精霊。呆然とするサーシャの頬を、ひんやりとした空気が撫でていく。
「あのね、ライナたち、あそこで倒れちゃったでしょ? そのときにね、精霊さんが言ったの。ライナたちが危ない目に遭うとは思ってなかったって。自分たちは、あそこから出たかっただけなんだって」
ライナが手のひらを閉じると、すうっと熱を帯びた空気に融けるようにして消える。
「…出たいって、『冷窟』から?」
サーシャがまばたきをして訊くと、ライナはこくりと頷いた。
「うん。あの氷の玉がある限り、精霊さんたちは外に出られないんだって。だから、壊してしまおうって思ったんだって。でも、ライナたちは氷の精霊さんとお話できないでしょ? だから、諦めてたんだって」
「――けど、ライナは喋れるんでしょ?」
首を傾げるサーシャに、彼女は眉をハの字にして肩をすくめた。
「うん。前はね、何言ってるか全然わかんなかったのに、急にわかるようになったんだ。何でだろ?」
「うーん、わかんない。何でかな?」
ライナにしか聞こえない声。
それが本当に氷の精霊のものなのか、はっきりいって確証はない。だが、彼女がそう言うのだから、そうなのだろう。
ライナは、ちょっと困ったように首を傾げて、話を続けた。
「でね、それでね、氷の精霊さんが言ったの。ごめんなさいって。ひどい目に遭わせちゃって、いっぱい怖い思いさせちゃったから、今度は、ライナのこと絶対に助けてあげるって。だからね、ライナは悲しくないんだ、羽がなくなっちゃったこと。だって、氷の精霊さんとお友達になれるなんて、すっっごいことだもん!」
「――そっか。精霊さんとお友達になったんだね。すごいね、ライナ」
「うん! でも、ライナだけじゃないよ? サーシャもお友達だよ。氷の精霊さん、サーシャにもごめんなさいって言ってたもん。仲良くなりたいって言ってたもん」
「ホント? 精霊さん、サーシャともお友達になってくれるの?」
思わず身を乗り出したところへ、ノックもなくドアが開いた。
「おっ、何だ、起きたのかよ、サーシャ。って、ライナまでいやがんのか。道理で騒がしいはずだぜ」
悪態をつきつつ部屋に入ってきたのは、二人のよく知る人物・キールケである。ラビィ同様、背が高い赤毛の青年だが、雰囲気はまるで違う。
硬質な髪に意地悪そうな吊り目、皮肉っぽい口元に、礼儀や配慮を忘れたような所作が目立つ。
キールケは、だかだかとブーツの底で床を叩くようにしてこちらに近づき、無遠慮にサーシャの顔を見下ろした。
「…ふん、平気そうじゃねえか。つか、お前ら、あの状態で助かるとか、マジでついてるよなあ」
言って、無遠慮にドカッとベッドの端に座る。その振動で、体重の軽いサーシャの身体がふわんと上下した。
「わ、わっ。んもう、サーシャはまだ元気じゃないんだから、そういうの駄目って言われたでしょー? これだから、タラシは!」
お姉さんぶった口調のライナに、キールケは露骨に顔を歪めてみせた。
「おいこら。誰がタラシだ、誰が!」
「誰って、そんなの決まってるよね。タラシって一人しかいないもん」
ライナの声に、サーシャもこくこくと頷く。
「うんうん。にーさまが言ってた。キールケは女タラシだから、近づいちゃ駄目だって!」
「言ってた、言ってた。女の子の敵だって!」
「用心しなきゃね!」
「うんうん、用心しないとね!」
少女二人の警戒心に満ちた瞳を前に、キールケが大仰な溜息をついてみせた。
「はあっ。お前らって、マジでラビィの言いなりだな」
「言いなりじゃないもん。にーさまはいっつも正しいんだもん!」
ライナが断言し、サーシャも迷うことなく同意する。
「うん、にーさまはタラシと違って真面目だもんねー」
「そうそう。タラシとは違うもんねー」
「――お前ら、そろそろ口を慎まねえと痛い目みることになるぞ?」
はあーっと握りこぶしに息を吹きかける真似をしてみせるキールケに、少女二人は顔を見合わせた。
「女の子を脅すのは、悪い奴のすることだってにーさまが言ってた!」
「うん、タラシ、悪い奴! 近づいちゃ駄目だよ、ライナ!」
「わかってる。サーシャも気をつけて!」
その内緒話にもならない声量の発言に、キールケはやるせない顔つきになった。
「…あのなあ。人をタラシ呼ばわりしてっけど、俺にも口説く相手を選ぶ権利ってモンがあるってことを忘れんなよ?」
「聞いた? 権利だって!」
「タラシのくせに偉そうだよねー」
「うわー。マジ、腹立つわ、お前ら」
キールケは、苛々した様子で立ち上がると、ビシッと人差し指を少女たちの眼前に突きつけた。
「いいか、よく聞け、クソガキども! 俺が相手にすんのは、大人の女だけだ。お前らみてえなガキに興味はねえんだよ。あと百年経ってから出直しな!」
「? ライナたち、大人だよねえ?」
ライナの声に、サーシャが頷く。
「うん、もう大人だよね、サーシャたち」
しかし、キールケはあっさりと少女たちの思い込みを打ち砕く。
「は? 何、寝ぼけたこと言ってやがんだ。お前らみてえなのは、大人とは言わねえの。いいか? 大人の女ってのは、こう、胸がボンと出ててだな、ウエストはキュッとくびれてて、何もしていなくてもそこはかとなく色気っつーもんが漂ってるもんなんだよ。それがお前らときたら、色気のいの字もねえうえに、何かあるとすぐにーさまがにーさまがって喚きやがって。いつまでもそんなだと、ガキのまま寂しい一生を送ることになるぞ?」
そんなことを言われても、いまいちピンとこない。身長が高くなれば、自然と大人になれるものだとばかり思っていたので、いきなり色気がどうのと言われても困る。
「色気? って、どんなのかな?」
「さあ? 胸がおっきい女の人のことじゃない?」
「そっかあ。じゃあ、リシリーみたいな人のこと?」
「だと思うよ。…って、あれ? それじゃ、メア様はまだ子供なのかな?」
「あー、メア様も胸ぺったんこだもんねー」
「うん、ぺったんこだった。でも、おっきく見せたくて、いろいろやってるってリシリーが言ってたよ?」
「あ、前に胸に何かつめてるの、ライナ、見たことあるよ!」
「つめたら、おっきくなった?」
「なった、なった! ちょっとだけど」
「じゃあ、サーシャたちもつめたら大人になれるかな?」
「なれるよ、きっと!」
楽しげにガールズトークを続けていると、近くで同情たっぷりな独り言が聞こえた。
「…そうか。ああ見えて、メア様も影ながら苦労してんだな……ってか、メア様の場合、年齢的に成長はもう望めねえからなあ。可哀想に…」
「? メア様、可哀想なの? 何で?」
ライナの無邪気な質問に、キールケはどこか遠い目で答えた。
「ある程度の年齢になると、成長がとまっちまうんだよ。お前らの場合は、たぶんこれから成長するんだろうけど、メア様はなあ………惚れた相手が貧乳派だといいけどなあ」
「ひんにゅうは?」
「あー、つまり、胸のない女が好きっていう、ちょっとおかしな趣味の男どもだよ。俺にはまったく理解できねえけど、なかにはそういう変な奴もいるんだ」
「ふうん…」
ライナとサーシャは、自分の胸元に目を向け、
「にーさまはどっちが好きなのかな?」
「やっぱり、おっきいほうがいいのかな?」
あるのかないのか、微妙な胸元を触って呟く。
キールケは、そんな二人の様子に吐息しつつ、
「…ま、あいつの趣味はともかく。そろそろ本題に入るぞ。お前ら、こいつが何か知ってるか?」
懐から取り出した何かを投げて寄越した。
「??」
「これ、何?」
渡されたのは、可愛げも飾り気もない首飾りだった。しっかりと編み込んでつくった紐の先には、人間の形を模して削られた石がぶら下がっている。親指と同じくらいの大きさのそれは、焔の地でよく見かける赤い鉱石で、光に透かすときらきらと紅い輝きを放つ。別名、炎の石と呼ばれており、不思議なことに、それ自体が熱を発しているのが特徴だ。もちろん、火傷をするほどではないが、人肌よりは少し温かく、温度の低いカイロといったところだろうか。主に、防寒着をつくる際に保温効果を加えるための材料の一つとして使われており、もっとも身近な魔法鉱石といってもいい。
「お前らも知ってるとは思うが、俺たち竜族は、誰かに仕えることで潜在能力を発揮できるようになる。つまり、自分の身を守るという意味でも、主となる者と契約することは何をおいても最重要事項になるってわけだ」
キールケは、窓際の壁に背を押し当てて、これまでとは打って変わった真面目な口調で続ける。
「でもまあ、仕える相手が決まってるってのは、ほんのごく一部、いわば、貴族や使用人連中だけで、それ以外の奴ら、つまりは、俺みたく主がコロコロ変わるような流れの傭兵や雇われ兵、戦争に直接関わらねえ女子供はこいつと仮契約する」
言って、キールケは、自分の首にかかった鉱石人形を服の下から引っ張り出した。
「とりあえず、仮契約さえしとけば、間違っておかしな契約を結んじまったり、強制的に契約させられたりする事態は防げるからな。ただ、イキモノ相手じゃねえぶん、制約がある。今のお前らなら可能だろうが、以前みてえにガキすぎる状態だと契約自体が結べねえんだよ」
「ふうん。契約かあ」
話には聞いたことがあるが、それがどういうものかは、二人にはよくわからない。ただ、契約ができるということは、大人の仲間入りの第一歩だということだけはわかる。
「…あれ?」
自分の仮契約用人形とキールケの人形とを見比べるように眺めていたライナが、ふと首を傾げた。
「…何か、これ、色が違うよ?」
その指摘で、サーシャも気づいた。
自分たちの持っているものと、キールケの首飾りの石の色が、明らかに違っている。
「そっちのは黒いのに、サーシャたちのは赤いね」
「あ、わかった! きっと、女の子用だから赤いんだよ!」
ライナの思いつきを、キールケが即座に否定した。
「違う。仮契約状態だと、黒くなるんだよ。お前らはまだ契約してねえから、赤いの。んで、その人形との仮契約の仕方だが」
「ねー、契約ってコレとじゃなきゃ駄目なの?」
ライナが、キールケの言葉を遮る。
「あのね、前に、メア様が言ってたよ。契約は、ずっと一緒にいるっていう約束と同じなんだって。だったら、ライナ、ラビィにーさまと契約する。そしたら、ずっと一緒にいられるんでしょ? ねえ、サーシャもそうしようよ!」
きらきらした瞳で言われて、サーシャは、ハッとした。
(…そっか、契約したら、もう、置いてかれることもないんだ!)
また、前みたいに会って、話をして、一緒に遊んで、ご飯を食べて。それが毎日続くなんて夢みたいだけれど――どうしてだろう。その光景を思い浮かべるだけで、少し緊張してしまうのは。
(…何でかな…?)
これまで、どうということもなかったことが、急に特別なことに思えてしまう。
たとえば、一緒に遊んだり、話したり、手を繋いだり。
当たり前にしてきたことが、今の自分には遠い日の出来事のように思える。
(……ずっと、にーさまに会ってないからかな?)
寂しくて、ずっと会いたくて。ライナといるときでも、その存在を忘れたことなんて一度もなかった。そのせいなのかもしれない。会える、一緒にいられると思っただけで、こんなにも気分が高揚するのは。
これまで感じたことのないくらい、胸の辺りがモヤモヤするというか、ジリジリするというか、ドキドキするというか。
これまでにない違和感に、戸惑う。
「う、うん。サーシャも、にーさまと一緒がいいな…」
原因不明のまま騒ぎ始める胸に手を当てて呟くサーシャに、キールケはしかめ面になった。
「――駄目だ。つか、お前ら、ラビィとだけは契約するなよ。下手したら、とんでもねえことになっから」
「えー、何で駄目なの? ライナ、にーさまがいいんだもん! っていうか、にーさまとじゃなきゃ絶対ヤダ!」
駄々っ子のように声をあげるライナを面倒くさそうに一瞥して、彼は言う。
「契約ってのは、あくまでも、尊敬したり、守りたい相手とするもんだ。お前らの場合、子供時代が長かったから実感ねえかもしれねえけど、ラビィに対して恋愛感情とか持ってたりしたらヤバいんだよ。つか、そもそも、契約ってのは、恋愛感情のある相手とだけはしちゃ駄目って決まりがあるんだ。ついでに、契約して、そのあと好きになるってのもナシだ。契約の質が変わっちまうからな」
「??? 難しくてよくわかんないよ。恋愛って、何? ラビィにーさまが好きだと契約しちゃいけないの? 何で?」
ライナがクエスチョンマークを浮かべて訊くと、キールケは苛ついたようにガシガシと頭を掻いた。
「あー、クソッ! 何で俺がガキどもの面倒なんか見なきゃならねえんだ!」
「何でって、それがお仕事だからでしょー?」
さらりと図星を指されて、キールケが忌々しげに舌打ちする。
「チッ。ああ、もう、要するに、アレだ。一緒にいたり、相手のことを思い出したりしたときにドキドキするとか、顔が赤くなるとか、そういうんじゃねえの、ガキの恋愛ってのは。ま、とにかく、お前らの場合、男とは契約しねえほうが身のためってもんだ」
「……ドキドキ?」
サーシャが呟き、胸に当てたままの自分の手を見つめる。
(…にーさまのこと考えると、何か、変な感じがする)
手が少し汗ばみ、息苦しい感じがして、とくとくと心臓が大きな音を立て始める。でも、その変化はこれまで体験したことがなくて――これが、キールケの言う恋愛というものかどうかはわからない。
「…ドキドキする人と契約したら、どうしていけないの?」
やや小さめの声で訊いたサーシャを、キールケの瞳が捉える。心なしか、その眼差しは秘めた想いを見抜いてるようにも思えて、サーシャは反射的に視線を逸らした。
「……ま、考えようによっては悪いことばかりじゃねえんだが――悪用された場合、スゲエ数の死人が出るのは確かだな」
「死人?」
いきなり物騒な単語が出て、ライナとサーシャが顔を見合わせる。
キールケは、そんな二人を前に、教師のような口調で告げる。
「契約主に惚れた場合、もしくは、惚れた相手と契約した場合…まあ、どっちも同じことなんだが、普通の契約との大きな違いが二つある。まずは、一つ目だが」
右の人差し指をぴんと立てて、
「正常な契約なら、主の同意があれば主従関係を断つことができるが、盟約の場合――惚れた相手と契約してる状態のことを盟約っつーんだが――そうなると、どうやっても契約が切れなくなるんだ。次に、二つ目」
今度は、右の中指を立てて、ピースサインをつくる。
「契約で引き出される潜在能力はせいぜいが五、六十パーセント程度だが、盟約の場合、ほぼ百パーセント引き出される。要するに、尋常じゃなく強くなるってことだな」
「強くなるなら、いいんじゃないの?」
ライナの指摘に、キールケは吐息した。
「これだからガキは。いいか? 潜在能力ってのは、全部引っ張り出されちまうと、身体がもたねえんだ。だから、盟約した竜族は、馬鹿みてえに強くなる代償に、極端に寿命が短くなる。ついでに、思考や感覚もおかしくなっちまうから、自分の腕が切り落とされても気づかねえし、死ぬほどの大けがを負っても平気でそこら辺をウロウロしてたりする」
「…うわあ、怖すぎっ!」
血だらけでうろつく兵士の姿でも思い浮かべたのだろう。ライナが怯えて、表情を強張らせる。
「だろ? んで、一番厄介なのが、主に万が一のことがあった場合だ。盟約は、ある種の呪いに近いモンがあるからな。主に怪我でもさせようもんなら、敵味方関係なく、そこらにいる連中を皆殺しにしちまうんだ。たとえ、本人にその気がなくても、本能がそうさせる。つまり、正気じゃいられなくなるってことだな」
「ふうん。でも、そんな怖い話、聞いたことないよ?」
いくら子供とはいえ、もし、そういうことが起きたら、どこからともなく耳に入ってくるはずだ。ということは、随分昔の話か、もしくは、噂レベルの話ということになる。
しかし、キールケは気難しい顔つきになった。
「ま、どうおかしくなるかは個人差があるらしいからな。ともかく、盟約しちまった竜族は、速攻で殺されることが多い。本気でかかってこられたら、断罪者でも手に負えねえかもしれねえからな。基本的には毒殺とか、罠にかけて一撃で仕留めるのが常らしい」
「……え、こ、殺されちゃうの? 悪いことしてなくても?」
サーシャの不安げな声にも、キールケは容赦しない。
「盟約自体が重罪なんだ。殺されても仕方がねえんだよ。だから、そういうことにならねえように、人形と契約しとけばいいんだよ。どうせ、お前らは戦争には行かねえだろうから、仮契約だけで生きていけるだろ。わかったら、おとなしく仮契約の仕方を聞け」
「――う、うん」
さすがに、死をちらつかされたら怯えないわけにはいかない。
ライナもサーシャも頷いて、キールケの指導の下、何とか仮契約を済ませた。
キールケは、二人の仮契約の人形を確認して、満足げに頷いた。
「…よし。んじゃま、これで俺の今日の仕事は終わったわけだ! そこらの人妻でもひっかけて酒でも飲んでくっかな。つーわけで、俺様は行くが、あちこちうろつくんじゃねーぞ、サーシャ。つーか、ライナ。お前はさっさと医者んトコに行け。ここに来る途中で、診察中に逃げ出したって聞いたぞ。別にお前がどうなろうが知ったこっちゃねえが、面倒は御免だからな」
「ぶうーっ。だって、羽の切れたトコ触られるの嫌なんだもん。痛いし、チクチクするし、何か、こう――とにかく、気持ち悪いんだもん!」
「いいから、行っとけ。ちゃんと診察してもらわねえと、傷口からバイ菌が入って、死んじまうかもしれねーんだぞ?」
その脅しに、ライナがびくりとする。生死の狭間を彷徨ったばかりの身としては、二度とあんな思いはしたくない。痛いのも、怖いのも、まっぴら御免だ。その気持ちは、サーシャにもよくわかる。
「…ううー、わかった。行けばいいんでしょ、行けば」
うなだれるようにして呟いたライナが、ふとこちらを見つめる。
「サーシャ、ライナ行ってくるけど――すぐ、帰ってくるから待っててね?」
「……うん、わかった」
ベッドに寝転びながら答えると、ライナはちょっと心配そうな目でこちらを見てから、キールケと共に部屋を出た。
残されたサーシャは、眠るわけでなく、ぼんやりと、手にしたままの仮契約用の人形を見つめた。
赤かった鉱石は、汚れたように黒っぽく変色してしまっている。仮契約が成功した証らしいが――。
「……前の色のほうがよかったなあ」
赤くて、とても透き通っていて、光に透かすとキラキラと光る。以前、同じようなものを路上で拾ったことがあるが、これはもっと純度が高くて、綺麗な色をしていたのに。
「…まるで、にーさまみたいだったのに」
ライナやサーシャと同じ、赤い瞳。でも、誰よりも澄んでいて、真っすぐで、温かくて、優しくて――あの綺麗な瞳を思い浮かべるだけで、どうしようもなく切なくなるのは何故だろう。胸の辺りがモヤモヤして、焦れたように熱くなって――…じっとしていられなくなる。
「……にーさまに会いたいなあ…」
そう、ぽつりと呟いた瞬間だった。サーシャの前で、目を疑うような変化が起きたのは。
「………えっ?」
握っていた仮契約用の人形がわずかに震えたかと思うと、じわじわと黒から契約前の色へと戻っていったのだ。サーシャの好きな、鮮やかな赤色。だが、それは、見る見るうちに禍々しいほどの深紅へと色を深めて、泥臭く濁っていく。その変化は、魔法のように鮮やかに、呪いのように不気味に行われて――本能的に、とてもマズイことが起きているとサーシャは直感した。しかも、恐ろしいことに、異変はそれだけでは終わらなかった。
「っ!?」
毒々しいまでの深紅の鉱石人形が、ゆっくりとサーシャの手のなかで崩れ落ちた。砂が零れるように形を失ったかと思うと、一匹の蛇のように細長く姿を変えて、するりとサーシャの細い腕に巻きついていく。まるで、イキモノのように。それ自身が意思を持っているみたいに。
「っ、い、嫌ぁっ!」
ぞわぞわと、巨大な毛虫が這うような感覚に、血の気が失せる。吐き気がする。
何とか引き剥がそうと皮膚に爪を立てるが、赤い砂礫の蛇は、あっという間に肌に馴染んで融けてしまった。腕に残ったのは、自分の爪で引っ掻いてできた傷跡だけ。
「――い、今の、なに…?」
わからない。痛みや違和感はないが――ねっとりと纏わりつくような倦怠感がある。
サーシャは青い顔のまま、仮契約の人形を握っていた右手を見つめて――息を呑んだ。
「…な、なんで…?」
先ほど、手のなかで砂のように崩れて消えたはずの人形は、数秒前と変わらない姿でしっかりと紐に繋がれていた。黒く変色したままで。何も、変わらない姿で。
「――…見間違い…?」
そうとしか思えない。それ以外に、考えられない。しかし……。
「……」
薄気味悪いものを感じながらも、サーシャはゆっくりと呼吸を整える。
いろんなことがあって、今日は疲れてるのだろう。
だから、ありもしないものを見たに違いない。
そう、自分に言い聞かせて、心を落ち着かせようとするが、うまくいかない。どうやっても、全身に纏わりつく嫌な気配を振り払えない。
どくどくと、何かを警告するように心臓が騒いでいる。身体が小刻みに震えて、身も心も冷たい不安の波に押し流されてしまいそうだ。
(…お願い。ライナ、早く帰ってきて!)
サーシャは、ぎゅっと目を閉じ、祈るようにして親友の笑顔を思い浮かべたが、心に染みついた恐怖心は消えてはくれなかった。
《 第二・五話 完 》