《 第五・五話・其の一 》
《 第五・五話・其の一 》
そのとき、何が起きたか――?
それを正確に理解できた者は、おそらく、一人もいなかっただろう。
大人も子供も、荒波に呑まれるように翻弄され、抗うことも逃げることもできないまま、与えられた運命を受け入れるしかなかった。
それは、ライナとサーシャも例外ではなかった。
少女たちは、部屋の片隅で、冷たい死の予感に怯えていた。
火竜にとって、低温や冷気は死に直結する。
それは、かつて『冷窟』で感じたのと同じ恐怖だったが、そのとき以上に強い不安がライナの胸を占めていた。
何故なら、彼女は、知っていたからだ。
自分たちは、大人たちから見捨てられたのだという事実を。
もはや、誰も助けてはくれないという現実を。
(……どうして、こんなことになったの…?)
二日前の夜。みんなが眠るまでは、町の様子は変わらなかったように思う。
変わったことといえば……サーシャの体調が、いつもより優れなかったということくらいだろうか。
サーシャは、仮契約をすませてからというもの、どうにも具合がよくなかった。
どこかが痛むとか、身体の動きが悪いとか、そんな具体的な症状こそ口にしなかったが、顔色が悪く、浮かべる笑顔もどこか元気がない。
そんな親友を心配したライナは、週に三日ほど、サーシャの家に泊まることにしていた。
あの日も――焔の地が滅んだ、あの夜も――二人は、一緒だった。
(……みんな、大丈夫かな…)
ライナが身体を縮めるようにして、白い息を吐く。
サーシャの部屋の片隅。
家中にあるありったけの毛布をかき集めて、二人で身を寄せ合うことで何とか生命を保っているが、これから先、どうなるかは考えるのも恐ろしい。
空腹と寒気で、声すらまともに出せない。凍えきった白い息が口から漏れるたびに、身体中の熱が奪われていく。もはや、指先を動かせることすらできないほど、少女たちは衰弱しきっていた。
ライナは、どこか虚ろな瞳で白くなった室内を見渡す。
吐く息は、相変わらず白く、普通に会話するだけの力すらない。
そんな彼女たちが、か細い生命を繋ぎとめていられるのは、二人の周囲を覆っている氷の精霊が張った結界のおかげだ。
「…キラちゃん、頑張って」
ライナが、消え入りそうな囁き声で、友達の精霊の名を呼ぶ。すると、白い輝きが何度かチカチカ光って応じてくれた。
「――……サーシャ、頑張って」
氷の精霊と親しいためか、ライナは他の火竜よりも寒さに対して耐性ができているようで、どうにか囁くだけの力は残っている。
しかし、サーシャはもともと体調を崩しているせいもあって、ずっと震えながら目を閉じている。このままでは、長くもたないかもしれない。
「――…どうして、こんなことになったの?」
誰に問うでもなく、床を見つめて呟く。
零れそうになる涙を我慢して、ギュッとサーシャの身体を抱き締める。
「………どうして、誰も助けにきてくれないの…?」
呟いても、誰も応えてくれないし、誰も来てくれない。
そんなことはわかっていた。わかっていたけれど――それでも、救いを求めずにはいられなかった。
祈りを繰り返すたびに、絶望はどんどん深くなっていく。
もう、この場所には、希望なんてものは存在しない。
あるのは、死という名の狂気だけ。
――…あのとき、一体、何が起きたんだろう?
あの日。わずかな異変に気づいたのは、火竜一族のなかでは、ライナただ一人だった。
氷の精霊と交信ができる彼女だけは、そのときの異様な気配に敏感に反応した。
ふわりと暖かな空気が、重く白濁していく感じ。
熱いはずの身体の芯が、急速に冷え込んでいく感覚。
それらは、誰も気づかない、ほんのわずかな変調にすぎなかった。
しかし、ライナは気づいた。
「……何か、変な感じがする」
いつもとどこか違う、居心地の悪さ。
ライナにはっきりとわかったのは、それだけだった。他の誰に聞いてみても、違和感を感じているのは自分だけ。だから、これは気のせいなのだとライナは判断した。しかし――不意に、氷の精霊・キラが耳元に語りかけてきた。
『ライナ。早く逃げないと、凍えてしまうよ』
一瞬、意味がわからなくて、ライナは小声で訊いた。
「…え? 何て言ったの?」
氷の精霊のことは、サーシャ以外の人には内緒だったので、大きな声で話すことはできない。
精霊は、警戒するみたいに声を抑え、
『ボクの仲間が、たくさんくるよ。冷たい風が、たくさん吹くんだよ。ライナ、急いで。サーシャと一緒に、早くここを逃げるんだよ』
「…仲間? キラちゃんの仲間って、氷の…水の精霊さんたちのこと?」
『うん、いっぱいくるよ。みんな、すごく怒ってるんだよ』
「怒ってる? どうして?」
確かに、ここには火の精霊がたくさん棲んでいて、対立関係にある水属性の精霊たちにとっては敵地かもしれないが――だからといって、恨まれるようなことをした覚えはない。
火竜も火精一族も、日々、平平凡凡と暮らしているだけなのだ。
しかし、氷の精霊・キラは言う。
『…火の精霊が、ボクの仲間を殺したんだよ。すごく、たくさん――本当に、すごくすごくたくさんの仲間が死んだんだよ。だから、みんな、怒ってるんだよ』
その悲しげな声音に、ライナは驚いた。
「う、ウソ……そんな話、知らない。誰も、そんな話してないよ。火の精霊さんたちは、みんな優しいもん。絶対に、キラちゃんの仲間を殺したりなんかしないよ」
そう言い募るが、精霊はチカチカ輝きながら呟く。
『――…ボクたちは、ライナたちとは違うんだよ。大きな意思が働けば、みんなそれに引きずられてしまう。そこに、理由なんてないんだよ。ただ、誰かが強く念じれば――それだけで、みんな、同じ意思を持ってしまうんだよ』
「…よくわかんないよ」
ライナは混乱しつつも、少し不安げに目を伏せた。
「…よくわかんない、けど――もし、本当に、火の精霊さんたちがキラちゃんの仲間を殺しちゃったんだとしたら……キラちゃんは、ライナを嫌いになるの? もう、お友達じゃなくなっちゃうの?」
ライナの単純すぎる思考では、精霊同士の抗争よりも、友達であるキラが離れていく恐怖のほうが大きかった。
心なしか泣きそうな顔になっているライナを安心させるように、キラが断言する。
『ボクは、ライナの友達だよ。みんなとは違うよ。だから、守りたいんだよ、君とサーシャを』
「…でも、そしたら、キラちゃん、仲間外れにされちゃうよ。ライナの味方したら、他の水の精霊さんたちから、いじめられちゃうよ」
ライナは、子供ながらにわかっていた。
羽を失ったとき――両親を含め、大人たちが冷めた目で自分を見つめていたことを。羽を失った竜族は、欠陥品のように扱われる。さすがに両親は同情するような素振りを見せたが、その心の底にあるのは、失望と落胆だった。
これまで仲良くしていた友達も、近所の人たちも、ライナと距離を置いて付き合うようになった。唯一、サーシャはこれまで通りに接してくれたが、それでも、胸に生まれた孤独感は消えなかった。
サーシャが体調を崩して、半ば寝たきりになったのは、その頃だ。
家でも居場所を失ったと感じていたライナは、見舞いと称して、可能な限りサーシャに付き添うようになった。すでに、サーシャの隣にしか、ライナの居場所はなかったのだ。
どんなに明るく振る舞ったところで、羽を失った自分に価値はない。
大人たちの視線、さりげない言動がそれを物語っていた。
だから、というわけではないが――ライナは、考え始めていた。この地を離れることを。
(……わかってる。羽がないと、外には行けないってことくらい)
だが、そんなのはやってみないとわからない。大人が無理だと言っているからといって、本当に不可能とは限らないのだ。
(…絶対無理だって言われてた、氷の精霊さんとだってお友達になれたんだもん)
だから、頑張れば何とかなるはずだ。
しかし、そんな無謀な行動を諫めるかのように、サーシャの具合が悪化した。
火竜はもともと体温が高いが、それでも、通常よりも五度以上も高くなる日が続き、薬を飲んでどうにか落ち着かせているような状況だった。
焔の地を出るときは、二人一緒に。
そう思っていたから、ライナは、必死でサーシャの看病をした。
病名は、不明。対症療法は、ただ、症状を治めるために与えられた薬を服用することだけ。その場しのぎの治療しかできず、やきもきしていたが、それでも、サーシャは何度もライナに笑顔を見せてくれた。
「ごめんね、ライナ。ありがとう。早く元気になるからね」
握りしめた熱い手は、幼かった頃よりも、ずっと弱かった。それでも、ライナを気遣うだけの気力だけはどうにか保っている様子だった。
そんなときだったのだ。
焔の地が襲撃されたのは――…。
* * *
あの日、キラの助言を聞いたライナは、急いで周囲の大人たちに逃げるように勧めて回った。長老に掛け合って話だってしてみた。しかし、誰も信じてはくれなかった。キラの存在を隠したまま話すとなると、どうしても、胡散くさい話になってしまうのだ。思いきって、氷の精霊の話をしてみても、誰も耳を貸そうとはしない。それは、悲しいけれど当然のことなのだと、キラは思った。
(…だって、ライナは、火竜たちにとっては必要のない子になってしまったから)
羽を失った竜族は、仲間として扱われない。だから、誰もライナを信じない。ただ、友達のサーシャだけはライナの味方でいてくれているが、それもいつまで続くか怪しいものだ。残酷な大人たちの手で引き裂かれる未来は、きっと、そう遠くない。そう感じていたからこそ、キラは焦っていた。
ライナから羽を奪った責任は、自分にある。『冷窟』の外に出たいからといって、ライナに余計なお願いをしなければ、こんなことにならなかったのだから。
しかし、どんなに過去を悔いても、何も変わりはしない。だから、キラは決めた。焔の地では、ライナの役には立てないかもしれないけれど――それでも、何があっても彼女を守ろうと。そのためには、何を犠牲にしても構わない。今の自分は、後悔などしないし、する権利もない。
だから――水属性の魔法を使えば、大人たちはライナの言葉を信じてくれる。そう考えたライナに、魔法を使ってほしいと頼まれたとき、キラは、頑として、その願いを聞き入れなかった。
何故なら、キラにとって、ライナとサーシャ以外の火竜は、みんな敵だったからだ。
キラが助けたいのは、あくまでも、ライナとサーシャの二人だけ。それ以外の火竜など、どうでもよかった。むしろ、サーシャ以外の火竜は、友達であるライナを苦しめる憎い存在でしかなかったからだ。
表面上は、穏やかで寛容に振る舞ってみせるライナの両親が、陰で娘を罵倒していることを知っている。サーシャの両親が、ライナの来訪を望んでいないこと。それどころか、サーシャの病気はライナのせいではないかと疑っていることも知っている。だからこそ、キラは思った。
ライナとサーシャ以外の火竜は、必要ないと。
いないほうが、ライナのためになるのだと。
だから、あの夜。
動けないサーシャの傍から離れようとしなかったライナと、そんなライナを何とか逃がそうと言葉を尽くすサーシャの二人だけを守った。
部屋に結界を張り、誰も入れないように、可能な限り冷気を遮断して、二人を保護した。
そして、他の火竜たちが水竜一族に一掃されるのを、ひたすら待った。
これで、ライナをいじめた火竜たちがいなくなる。そうすれば、彼女は、サーシャと二人で楽しく過ごせるに違いない。誰の目を気にすることなく、また、眩しい笑顔を見せてくれるはず。
そう思っていたのに――キラの目論見は、大きく外れた。
確かに、水竜一族は焔の地を滅ぼしたが――生き残った火竜たちを殺さずに、捕虜にしたのだ。
このままでは、ライナの不安は解消されない。孤独感を消し去るなんてできない。
火竜一族を滅ぼすために、多くの仲間を犠牲にしたというのに……これでは、何のために頑張ったのか、わからない。
キラは、結界で防ぎきれない冷気に震えるライナたちを見やった。
とにかく、この寒さから二人を安全な場所まで運ばなくてはいけない。一秒でも早く、死の恐怖から彼女たちを救わなくては。
どうすればいいのか考えて、ふと、脳裏に白い人影が思い浮かんだ。
『……そうだ。あの方なら、きっと助けてくれるはず…!』
今回の一件――火竜を滅ぼすための計画を与えてくれた、彼の人。
孤独に悩むライナを救う術を自分に授けてくれた、あの人物ならば。
キラは、大急ぎでその気配を辿り、教えを請いに向かったのだった。




