第五話・其の四
《 第五話・其の四 》
「…あら、随分と楽しそうだこと。私も混ぜていただけないかしら?」
その声は、まさにブリザード。
一瞬にして、全裸で氷の迷宮にでも迷い込んだような、絶望的な恐怖に襲われる。
当然ながら、火炎属性のコルカやラビィにとっては、冷気や寒気は苦手以外の何ものでもない。たとえ、それが感覚的な刺激だとしても、だ。
コルカは、ガタガタと震えながら、無言のまま視界から姿を消した。いつもは赤く見える炎が青白く変化したように見えたのは、気のせいではないだろう。
どこからともなく現れたメアは、立ち竦む七糸とラビィを交互に見やり、にっこりと微笑んだ。
「あら、どうかなさいまして、ナイト様? そこの駄竜も、顔色がよくないようですし――何かありましたの?」
「! な、何でもないよ、メア! ねえ、ラビィさん! ちょっと世間話してただけですよね!?」
わざとらしく甲高い声で取り繕う七糸の言葉に、反射的にラビィが頷く。
「あ、ああ。な、何でもない。何でもないぞ」
我ながら不自然に声を上擦らせながら答えると、メアが上品に微笑んだ。そして、こちらの動向を見透かしているような妖しげな目つきで、
「…そう、何もないの。それならば、よかったわ。この屋敷で何かあれば、私が直々に手を下さなくてはいけないものね」
そう言って、眼光鋭く口の端を歪ませる様は、悪の首領そのものだ。
無意識に、ラビィと七糸は背筋を正し、こっそりと目配せをした。
先ほどの内緒話をメアに知られるわけにはいかない。もし、そんなことになったら、血を見ることになる。何としても、この場を誤魔化さなくては。
強い意志を確認し合うように、七糸と二人、頷き合う。すると、メアが物騒な気配を弱めて、優しい瞳で七糸を見つめた。
「それはそうと、ナイト様。お捜ししておりましたのよ」
「え、僕を? な、何で?」
警戒する七糸の手を取り、うっとりとした瞳で言う。
「もちろん、今夜の披露宴のためのお召物をしつらえるために決まっているではありませんか。時間はそう多く残されていませんが、最高級の品をつくらせることをお約束いたしますわ。そのためにも、的確な採寸は必須。ですから、ナイト様。急いで、お部屋へ戻りましょう」
「! ち、ちょっと待って? 披露宴って、まさかとは思うけど――け、結婚式関連のヤツじゃないよね? ただの夜会とか、そういう類の何かだよねっ?」
縋るような声に、メアが容赦なく告げる。
「もちろん、私とナイト様の婚前披露宴に決まっているではありませんか。急なことですので、とりあえずは、簡易なものを先に行い、正式な披露の場は、後日改めてということになりますけれど」
「い、いや、けど、僕は結婚できる年齢じゃないし、まずは家族の承諾を得ないと駄目っていうか」
七糸が焦って訴えるが、メアはニコニコと笑って取り合わない。
「この世界では、そんなものは必要ありませんわ。それに、ご家族へのご報告ならば、あとでも構わないではありませんか。大事なのは、二人の心。互いに愛し、愛され、求め合う気持ちがあれば、結ばれることに何の問題があるというのでしょう? いえ、問題なんて、あるはずがありませんわ! 何故なら、私とナイト様は抗えぬほど強い縁に導かれて出会った運命の恋人なのですから! これ以上の定めなど、三千世界のどこにも存在しませんもの!」
「た、確かに、ある意味では縁が深いかもしれないけど! 結婚とは関係ないっていうか、僕の意見も聞いてほしいっていうか」
「もちろん、お聞きしますわ! 式は、ナイト様の世界の様式を取り入れるつもりでいますのよ? そのためにも、着用するドレスや儀式についてのお話を是非ともお聞きしたいと思っておりましたの」
メアの鼻息が荒くなってきた。
七糸が何とかこの場を逃げようとしているのが表情だけでなく声からもわかったが、一人、蚊帳の外のラビィは助け舟すら出せず、ただ、困惑しながら見守るしかできない。
「さあ、ナイト様。いざ、深遠なる愛の世界へと共に突き進みましょう!」
「い、いや、だから! 結婚なんて、無理だってば!」
必死の声も、夢見る乙女には届かない。メアは、艶っぽい仕草で頬に手を当て、
「まあ、そんなに恥ずかしがらなくてもよろしいのではなくて? 大丈夫ですわ、ナイト様。式なんて、目を瞑っているうちにすべて終わってしまいますもの。大事なのは、そのあと――二人きりになってからですわ。うふふふ、ようやくナイト様のすべてを手に入れることができますのね! あんなことやこんなこと、あまつさえ、あーんなことまで…。うふふっ、ふふふふふふふふっ」
微笑みが怖い。というか、邪気が全身から立ちのぼっていて、恋する乙女というよりは、獲物を前にした猛獣のようだ。
本格的に身の危険を感じた七糸が、青白い顔で震え始める。しかも、その目は、救いを求めてラビィに向けられていた。
(! な、何故、そんな目で私を見るのだっ!?)
無論、助けられるものなら助けている。しかし、どんなに助けたくとも、この場をどうにかできる力は、自分にはないのだ。
何故なら、ラビィは、七糸を生命の危機から守るための護衛であって、それ以上ではないからだ。何より、現在の雇い主は、七糸というよりはメアなのである。彼女の気分一つで屋敷を追い出される可能性がある以上、迂闊には動けない。
(――何があろうとも、私はナイト殿から離れるわけにはいかないからな)
七糸を取り巻く状況やメアの思惑など、わからないことだらけの今、彼から目を離すわけにはいかない。メアとしても、ラビィがいたほうが何かと都合がいいのは確かだとは思うが、何ぶん、感情的な女である。下手に刺激したら、何をやらかすか知れたものではない。
(…かといって、このままというわけにも…)
これでは、七糸本人の意思を無視したまま、強引に結婚させられてしまう。ラビィやメアのように身分のある者ならば、政略結婚なんて珍しくない世界で生きているため、拒絶するだけ無駄だと割り切っているが、七糸は違う。
七糸の反応から想像するに、彼の世界で結婚といえば、恋愛結婚を指すのだろう。それ故に、ただの友人であるメアとの結婚は認められないのだ。
(……しかし、だからといって、この場を収めるにはどうすればいいのか…)
見やれば、メアは両手で七糸の手をつかんで、無理矢理に引っ張っていこうとしているし、七糸は七糸で必死に踏ん張りながら、目で救いを求めている。
その様は、強制連行されていく小動物そのもの。悲壮で悲痛で、哀れな子羊のよう。
「さあ、ナイト様! 共に至高の楽園へと昇りつめましょう!」
メアの細腕からは想像もつかない力が発揮されて、七糸の華奢な身体が引き摺られていく。
「む、無理だってばーっ! ホントに、マジで、やめてっ!?」
「ふふっ。そう、恥ずかしがらずともよいではありませんか」
「恥ずかしいんじゃなくて、本当に嫌なんだってばーっっ!」
「あらあら、そんなに照れて。本当に、どこまでもウブで可愛い御方ですこと」
嫌い嫌いも好きのうち、とばかりにメアが微笑む。
七糸はというと、処刑台にでも追いやられているかのような青ざめた顔で、おろおろしながら状況を見守っているラビィに手を伸ばし、
「ラ、ラビィさん、助けてっっ!」
そう、悲痛な声で叫んだ。
――助けて。
それは、命令でもなければ、絶対的な強制力があったわけでもない。かといって、死を前にしたような悲壮感や絶望はなく、ただの懇願の言葉にすぎなかった。メアに言わせれば、戯れにも似た響きすらあっただろう。しかし――涙目で、懇願するように救いを求められた側からしてみると、その言葉は特別な意味を持つ。
ましてや、ラビィのように強い使命感と保護欲を持つ者ならば、なおさら、効果は倍増する。
(――助けなければ!)
そう、強く思った瞬間。
バチリ、と。
どこかで何かが弾けるような音がしたかと思うと、足元から、ぶわっと強烈な悪寒がわき上がった。そして――。
(っっ!?)
ビリビリと、これまで感じたことのない鋭い痺れが走る。それは、肌どころか骨の髄にまで及び、あっという間に全身を支配してしまう。しかも、異変はそれだけでは終わらず、極寒の冬山に放り込まれたかのような強い冷気に包まれ、体温が奪われていくのを感じた。
火竜一族にとって、冷気は、致命的な弱点だ。たとえ、錯覚や幻だったとしても、それを現実だと認識した時点で、苦痛を感じる。だが――。
(……どういうことだ…?)
凍えるほどの冷たさを感じているのに、震え一つ、起きない。激痛を感じてもおかしくないはずなのに、痛覚そのものが抜け落ちたかのように、何も感じない。それどころか、全身を覆う冷気に恐怖すら生じないなんて、異常だ。
(……何かが、おかしい…)
痛覚どころか、喜怒哀楽を司る思考まで消失してしまったかのようだ。感覚がひどく鈍り、考えがまとまらなくなってきた。たとえるならば、急速に深い眠りに落ちていく感じとでもいえばいいだろうか。少しでも気を抜けば、一瞬で意識が深い闇に呑まれて、何も考えられなくなってしまいそうだ。
自分のことも、それ以外のことも、何もかも忘れて、抱える不安や苦悩から解放される――それは、心労の多い者にとっては、渇望してやまない安楽、至福そのものだ。それが、今、自分の目の前にあり、手の届く場所にある。そうとわかって、手を伸ばさない者はいない。だが――視界の中心にいる人物が、それを許さない。
――助けて、と。
その黒髪の人物は、確かにそう言った。そして、ラビィ自身、助けたいと思った。
だから、こんなところで休んでいる場合ではない。彼を守ること。この身は、そのためだけに存在しているのだから。
(……絶対に、助けなければ!)
その強い思いが、胸に広がりかけていた空虚な安らぎを霧散させる。ぼんやりと白濁していた意識がはっきりとしてきて、みるみるうちに別の色に染められていくのがわかった。
黒く濁った、赤。
炎のように熱く燃えているわけでもなければ、夜の闇のような静けさもない。
それは、どこか血の色にも似ていて――。
(……そうだ。これは、何度も見て、感じてきたものだ)
幾多の戦場で見た、死の色。
見慣れた、その色は、匂いは――正直いって、好きではない。だが、騎士として生きる以上、死というものからは逃げられない。
(――犠牲のない戦いなど、存在しないからな)
誰かを守るために、誰かを傷つけなくてはいけないのならば、そうする。戦争なんてものは、自らの正義を相手に押しつけ、利得を得るために生命を奪い合っているにすぎないのだ。しかも、そうすることで実際に得するのは、ごく一部の者だけ。国の中心に近い者たち――つまりは、国王や貴族たちなのだ。それでも、兵士は生命をかけて戦う。それは、何故なのか。
(――…そんなことは、考えるまでもない)
胸にあるのは、枯渇にも似た、強烈な使命感のみ。
自分には、守るべき相手がいて。
それは、何があっても絶対に譲れない人で。
失っては生きていけないほど大事すぎる相手で。
だからこそ、生命をかけて守らなければと思い、獅子奮闘する。国を守るということは、大事な人を守ることに繋がり、ひいては、幸福な未来を切り拓く手段となるのだ。
(……だからこそ、私は…)
戦わなければいけない。誰に命じられたわけでもない、自らが選択した、この戦場で。
(…守らなくてはいけないのだ)
大事な人がいる。家族や友人たち、そして、それ以上に守りたいと思う相手がいる。
その人が、今、自分に救いを求めている。
助けてほしいと、そう強く望んでいる。
ならば、その声に応えなくてはいけない。
その希望を叶えなければいけない。
どんな犠牲を払ってでも、やり遂げなくてはいけない。
何故なら、自分は――。
(…私は、ナイト殿を――『彼女』を守る騎士なのだから!)
バチリ、と。今度は、はっきりと頭のなかで火花の弾ける音が響いた。
その瞬間、燃えるような熱が全身を包み込んだかと思うと、恐るべき素早さで身体が動いていた。
「ナイト殿!」
自分でも驚くほど俊敏な動作で、メアと七糸の間に割って入る。その直後、一見すると愛らしいメアの表情に、警戒――いや、嫌悪にも似た色が浮かんだ。そして、彼女は、どういうわけか、いともあっさりと七糸の腕から手を離した。
「?」
ラビィは、その彼女らしからぬ行動に違和感を覚えつつも、七糸の腕をつかんで、強引に背後へと押しやった。
「――…っ、痛っ!」
勢い余って、七糸が転ぶのがわかった。しかし、振り返ったりはしない。多少、怪我くらいはしたかもしれないが、命に別条がないとわかっているからだ。
――七糸の怪我。
いつもならば、神経質なほど注意していることが、どういうわけか気にならない。
今、大事なのは、七糸を助けること。大事な人を守ること。
それ以外に、今の自分にとって大切なことは何もない。
(……ナイト殿をお助けせねば!)
その強い思いだけが、胸を占めている。
騎士としての使命なのか、悪癖なのか。
命令されれば、それに従い、助けを求められれば、危険を顧みず助ける。それ自体は、正しいことのはずなのに――…何かが、間違っている。
ラビィは自分でも恐ろしいほど冷静に行動していた。
その感覚は、戦場のそれに似ている。
ただ、事務的に障害物を屠るような。
立ちはだかる敵を排除することだけに意識が引き摺られる。
そこには、もはや、善悪など存在しない。
(――…何だ、これは?)
異常なくらい精神が張り詰め、ざわざわと全身の血が騒いでいる。奥底から湧き上がる熱は、血肉を躍らせるどころか、焼き尽くしそうな勢いがある。そのくせ、頭の芯は冷えていて、今の自分はどこかがおかしいと理解できた。それなのに、心は急いて、ただ一つの言葉を囁き続ける。
――屠れ!
目の前の敵を、屠れ!
それ以外に七糸を救う術はないとばかりに、同じ言葉が脳内を駆け巡る。そして、それに異を唱えることは、ラビィにはできない。
何せ、ラビィの一番の望みは、七糸が楽しく平穏無事に日々を過ごせること、それだけなのだ。誰であろうと、七糸の敵になるというのならば、全力をもって戦うと決めている。何があっても彼を守るのだと、自分の心に――騎士としての誇りにかけて、誓った。だからこそ、メアが七糸の平和な日常を脅かす敵になるのだとしたら、彼女を消すことは、ラビィにとっての正義に繋がる。
そう、これは――正義を貫くための戦いなのだ。
それは、疑う余地すらない、最良の選択。そう思えてしまうからこそ、ラビィは、心の声に――強い使命感に、抗えない。
目の前の敵を――メアを消すこと。
それは、七糸を守るうえで、不可避の出来事なのだ。たとえ、七糸自身がそれを望んでいなかったとしても――…そうすることで、彼の信頼を失うとしても…。
(――…いや、本当に、それでいいのか…?)
七糸の信頼を失う、それはつまり、彼を裏切るということに他ならないのではないか。
七糸は、微塵も疑わず、ラビィを自分の友であり味方だと信じている。もし、それを裏切ってしまったなら――彼は、どんな顔で、どんな声で、何を告げるのか――。
(………私は…)
一瞬、心に迷いが生じる。
メアという少女は、七糸を苦しめるかもしれないが、同時に、彼にとっては大事な友人なのだ。邪魔だから、危険だからと殺してしまったら、きっと――…。
(――…ナイト殿は、私を許さないだろうな)
そう考えると、全身を焼く熱のなかにぞっと冷たいものが混じった。それを見計らったかのように、
「……ラヴィアス、気を鎮めなさい」
凛と放たれたメアの声が、頭に響く。それは、清涼剤のように赤黒く濁った心に広がっていき、ラビィは我に返った。
まるで、真っ黒な海の底から、急に眩しい場所に引き上げられたような気分だった。
身体中を支配していた熱が引いて、じわじわと感覚が戻ってくる。ここがどこで、何をしていたのかを理解して――息がとまりそうになった。
「なっ!?」
気づけば、自分の手には、見慣れた細身の剣が握られていた。
しかも、あろうことに、その切っ先は、ほとばしる殺意そのままに、メアの白い首を狙っている。
少女の細い首筋に怪我はないが――あともう少し遅ければ、どうなっていたかわからない。そんな危機的な状況だった。
何がどうなっているのか、さっぱりわからない。
一体、いつ、剣を召還したのか、覚えていない。それどころか、何をしようとしていたかすら、定かではない。
事態が呑み込めないまま、慌てて魔法剣を消失させたラビィを見据え、メアは冷ややかな声音で告げた。
「――ナイト様の前で、とんだ愚行を晒したものね。これだから、貴方は駄竜中の駄竜だというのよ。己のちっぽけな心すら支配できずして、どこの誰を守ろうというのかしら?」
「っっ、す、すまない」
自分でも、どうしてこんな状況になったのか、理解できない。
無意識に、誰かを殺すなんてことがあるはずないのに。ましてや、七糸の目の前で、そんな血生臭い事件を起こそうとするだなんて、とてもではないが正気の沙汰とは思えない。
しかし、メアに剣を向けた真実は消えない。
メアはというと、顔色一つ変えずにラビィから視線を外すと、不安げに地面に座り込んでいる七糸に声をかけた。
「ナイト様、ご無事ですの? お怪我など、なさっていませんこと?」
「――う、うん、平気…だけど」
恐る恐る、七糸がラビィを見上げる。
少し怯えたような気配を背中に感じて、ラビィは恐怖した。七糸に嫌われたかもしれないと思うだけで、心臓がとまりそうになる。
「…あ、あの、ラビィさん、どうかしたんですか? 何か、らしくないっていうか……その…大丈夫、ですか?」
気遣うような小さな声音に、どっと汗が出る。
もしかして、怖がらせてしまったのだろうかと思い、息が詰まる。
自分でも理解不可能な行動をしてしまっただけに、何も言えずにいると、メアがこちらに侮蔑の眼差しを寄こしつつ、口を開いた。
「ご安心くださいな、ナイト様。先ほどのあれは、大事な主に無礼を働いたり、よからぬことを企んだりした者に対する、騎士流の脅しのようなものですわ。これ以上、ナイト様を無理強いすることは許さないとでも言いたかったのでしょう」
「え、そ、そうなの? 何か、ものすごく殺気立ってた気がしたけど」
「そういうフリですわ。世のなかには、あれぐらいしないと聞く耳を持たない者も多いですから」
「そっか、そういうものなのか…。こっちの世界は、いろいろ物騒なんだね」
七糸がほっとしながら、立ち上がる。パンパンとズボンの汚れを払い落として、ちょんちょんとラビィの服を引っ張る。
ラビィが青ざめたままぎこちなく振り返ると、七糸ののほほんとした笑顔が見えた。
「…あの、ラビィさん。さっきは、僕を助けようとしてくれたんですね。ありがとうございました。あと、ごめんなさい。僕のためにいろいろ考えて行動してくれたのに、一瞬でも怖いとか思っちゃって…」
「! い、いや。お前が謝る必要はない」
むしろ、謝るべきは、ラビィのほうだ。
七糸を助ける。それは、メアに危害を加えてもいいという意味ではない。メアは、七糸やラビィをどうこうしようとしたわけではないのだ。話し合いでは無理かもしれないが、他にも方法はあったはずだ。
それなのに、ラビィは無意識とはいえ、メアに刃を向けた。
刃を向けるということは、場合によっては、相手を殺すことも辞さないという意思表示に他ならない。
おそらく、ラビィは、メアを本気で殺そうとしていた。記憶にはなくても、状況がそう告げている。その殺気を、七糸は感じとったのだ。
今は、無邪気に微笑んで、信頼しきっているこの瞳。それが恐怖のあまり逸らされ、拒絶することを想像するだけで、ぞっとする。
(……とにかく、メア様が無事でよかった)
ラビィの剣は魔力で練られたものだから、魔法と同じでメアにとってはさほど脅威ではない。受けたとしても、致命傷とは程遠いダメージですんだだろう。しかし、問題はそこにはない。メアは七糸の友人であり、彼にとっては大事な存在なのだ。その相手を傷つければ、七糸からの信頼を失う。それが、何よりも恐ろしい。
そっとメアを見やる。
彼女にラビィを助けたつもりはないだろうが、この場は素直に感謝すべきだろう。
そう思った瞬間、メアが上品に微笑みかけてきた。
その愛らしい笑顔は、ラビィの目には、悪魔の恫喝としか映らなかった。
この恩は数十倍にして返してもらうわよ、と。
その目が、笑顔が、雄弁に語っている。
(………と、とんでもないことになった…)
七糸との絆を守れた代わりに、失ったものは大きい。
このままでは、一生下僕扱いされても文句は言えない。
彼女に借りをつくることの恐ろしさに怯えていると、何も知らない七糸が呑気に口を開いた。
「…とにかく、よかった。僕のせいで二人が喧嘩しちゃったりしたら、どうしようかと思ったよ」
「うふふ、嫌ですわ、ナイト様。私とこの駄竜とでは、喧嘩にもなりませんわよ。どうか、ご安心くださいまし。ふふふふ」
メアがにこやかであればあるほど、ラビィは戦慄してしまう。
彼女の本心はどうあれ、七糸が近くにいる以上、手ひどい行為には及ばないと信じたい。
「まあ、喧嘩は誰が相手でもよくないよね。みんな仲良しなのが、一番だよ」
すっかり安心しきった様子の七糸だったが、次のメアの言葉に笑顔が凍りついた。
「さて、心配も取り除かれたことですし、そろそろお召物の採寸に戻りましょうか、ナイト様」
「――え」
硬直する七糸の腕を絡め取り、メアが強引にかつ優雅に歩き始める。
「え、えええっ!? いや、ちょっと待ってっ!?」
「もう充分すぎるほど、待ちましたわ。さあ、恥ずかしがらずに、私と共に愛と輝きに満ちた新世界へと旅立ちましょう!」
「そ、そんなとこに行く気はないってば! ちゃんと僕の話を聞いてよーっっ」
メアに引き摺られそうになった七糸が、反射的にラビィの服の袖をむんずとつかんだ。
「っ!?」
思いがけず強い力で引っ張られて、ラビィがつんのめる。それでも七糸は手を離そうとはしないで、必死に服をつかんでくる。死なば諸共とでもいうように。
(――こ、これはどうするのが正解なのだ!?)
七糸を助けたいのはもちろんだが、そうするとメアの機嫌を損ねることに繋がる。
ちらりと彼女の様子を窺うと、明らかな殺意の込められた瞳が死の微笑みを浮かべているのが見えた。
邪魔をすれば、確実に殺られる!
本能的にそう察知したラビィだったが、当然ながら七糸を邪険にすることはできなかった。
「ラビィさんは僕を見捨てたりしないよねっっ!?」
なんて涙目で言われたら、突き放せるはずがない。もっとも、最初から見捨てる気などないのだが――。
それにしても、この状況をどう打破すればいいのか。
七糸を助ければ、メアの制裁が待っているし、かといって、メアの横暴に協力するつもりなどさらさらない。とはいえ、知らんぷりを決め込むことも不可能な状態で、何をすれば円満に解決できるのか…。
(…うう、私は一体、どうすれば…)
あちらを立てればこちらが立たず、波風を立てずに穏便にどうこうできる話とも思えない。だから、最小限の被害ですむように――無論、七糸の安全を最優先に考えて――どうすべきか思い悩んでいたら、思わぬ人物から助け舟が出された。
「お取り込み中のところ、申し訳ありません。メア様、緊急と思われる書状が届きましたので、取り急ぎ、確認をお願いいたします」
そう言って現れたのは、クロノアだ。気配からして、本体ではなく影のほうだろう。
「あ、あれ? あのメイドさんって…」
七糸は、何者かに操られたクロノアの影を見ている。その彼女が、炎に包まれて姿を消した場面も。
一瞬、恐怖にも似た感情が七糸の表情をよぎる。
メアは、ちらりとラビィに目配せをして、七糸を解放した。どうやら、服の採寸よりも優先すべき出来事が起きたらしい。
ラビィは、気を利かせて七糸に声をかけた。
「…ナイト殿。とりあえず、どこかで休憩しないか。逃げ回って疲れただろう」
「え、う、うん…」
不安げに頷いた七糸は、ラビィの背後に隠れるようにして、クロノアから距離を取った。
そんな彼を引き連れ、その場を立ち去ったものの――…去り際、書状を読むメアの横顔がいつも以上に冷ややかだったことが、妙に気になった。




