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第四・五話・其の五

      《 第四・五話・其の五 》



「! あ、危なっ」

 壁に備え付けられている階段を無視して飛んだ人影は、重力に逆らうことなく落下する――かと思いきや、その場にふわりと浮かんだ。そして、ゆっくりとこちらに向かって飛んでくる。

「…ま、魔法…?」

 いや、違う。その背には、はっきりと赤い四枚の羽が見えた。

 妖獣族の娘・ミルバを守る騎士というから、てっきり同じ妖獣族かと思いきや、そうではなかったらしい。

 妖獣族は、妖精と獣人のハーフだ。とはいっても、妖精自体、本当にいたのかどうか怪しいくらい伝説すぎる存在なので、それが正しいかどうか定かではない。しかし、獣人一族は、地を駆ける強靭な足腰はあっても、空を飛ぶことはできない。その血を受け継いでいるせいなのか、妖獣族に羽を持つ者はいないと聞く。

(……一体、どこの血筋なのかしら?)

 閉鎖された村で暮らしていたリシリーにとって、種族の判別は容易ではない。羽があるというわかりやすい特徴があっても、それが何の種族なのか、よくわからない。

「……ミルバ様。お捜ししましたよ」

 器用にも空中で一時停止して、騎士の青年が困ったような顔つきで言う。

 赤毛の、すらりと背の高い青年は、なかなかの好人物に見えた。

(……顔立ちは、まあ、いいほうかしら。少し、細身すぎる気もするけれど、太っているよりはいいわよね)

 色白の肌や穏やかな朱色の瞳には、どこか育ちの良さが滲み出ている。ミルバの趣味なのか、それとも、彼女の纏う雰囲気に合わせているのか、白を基調としたシンプルな服を着ていて、ブーツもズボンも上着にも華美な装飾などはなく、動きやすさと身軽さを重視するようなつくりになっている。上着の袖や裾部分には、彼の髪の色と同じ赤のラインが走り、二の腕辺りには、ミルバの家の家紋だろうか、耳の尖った動物を象った図柄が刺繍されていた。

(…でも何ていうか、こう――騎士らしい厳格さとか近寄りがたい感じはないわね)

 声色や身に纏う空気は、不思議なほど穏やかで、雄々しい印象は受けない。

 リシリーの無遠慮な視線に気づいたのか、ふと、朱色の澄んだ瞳がこちらに向けられる。

「そちらの方は?」

「!」

 真っすぐな視線に驚いて、リシリーが反射的にうつむく。それを見て、ミルバが口を開いた。

「私の友人です。うっかり、二人して罠に嵌まってしまって、どうしようかと困っていたところでした」

「……ミルバ様。お願いですから、お一人での行動は慎んでくださいと、何度も申し上げたはずですが」

 のんびりとしたミルバの様子に、困り果てた体で騎士が言う。すると、彼女はにこりと笑んで、

「もちろん、覚えています。私が貴方との約束を忘れたことなんて、一度もなかったでしょう? ですが、今回は、貴方に話して納得してもらうだけの時間がなかったのです。急がなければ、彼女が死んでいたかもしれなかったのですから」

「だからといって、わざわざ、ミルバ様が出向く必要はないでしょう。ただでさえ、お身体が丈夫ではないというのに――」

「ごめんなさい。心配をかけてしまいましたね。ですが、こうして、二人とも無事だったのですから、結果的によかったとは思いませんか?」

 能天気としか思えない発言に、騎士の青年が吐息する。

「…はあっ。とりあえず、安全なところまでお運びいたしますので、御手をどうぞ」

「……ありがとう」

 差し出された手を迷いなく取ったミルバは、リシリーを見やり、凛とした声で告げた。

「安心してください。すぐに、助けに戻ります。貴女の妹の件も、私たちが責任をもつとお約束しましょう」

「……ええ」

 頷きながらも、リシリーの表情は冴えない。その瞳は、騎士の青年と共に地上へと戻っていくミルバではなく、眼下に広がる暗い穴を見つめていた。

 道標のようにところどころに魔法の光が灯されていたが、途中で途切れていて、底が見えない。

 この下は、一体、どうなっているのだろうか。

 連れて行かれた最愛の妹は、どこに行ってしまったのか。

(…リッシュ、待ってて。お姉ちゃんが絶対に助けてあげるからね!)

 階段が落とされたくらいで、怖がってはいられない。

 ときどき臭ってくる不気味な腐臭の正体や、地下にいるという魔獣も気になるが、そんなことはあとで考えればいい。とにかく、リッシュの身の安全が最優先だ。

 決意も新たにしたところで、ミルバを送り届けた赤毛の騎士が戻ってきた。

「…御手をどうぞ。上までお運びします」

 すっと差し出された手を、リシリーがじっと見つめる。

「……ねえ、貴方は騎士なんでしょう?」

 改まった問いかけに、彼がまばたきをする。

「え? はい、そうですが、それが何か…?」

「騎士って、普通の兵士より、ずっと強いのよね?」

「…まあ、一般的にはそうですね」

「一般的には、って――何か頼りないわね、貴方。まあ、いいわ」

 リシリーは、睨むように足下の暗闇に閉ざされた空間を見下ろした。

「…この下に、私の妹がいるの。きっと、今頃、辛い目に遭ってるに違いないわ。早く助けに行かなきゃ」

 思い詰めたような声に、赤毛の青年が落ち着いた声音で言う。

「――この屋敷の大半は、すでに我々の手に落ちています。ですが、アルシャス公と腹心の姿が見えません。感づいて逃げたか、それとも、何か策があるのか――とにかく、この件は我々に任せてください」

「任せろって、簡単に言うけど――あの子が待ってるのは、姉である私なのよ? 赤の他人に全部任せるなんて、できるはずないじゃない!」

 不安をぶつけるリシリーに、彼は事務的な口調で告げる。

「それでも、任せてくださいとしか言い様がありません」

「だったら、私も一緒に行くわ! それならいいでしょう!?」

「危険です。どうか、ミルバ様と共に、上でお待ちください」

「嫌よ! 私を下まで運んでよ!」

「できません。さあ、早く、安全なところへ避難してください」

 強引に腕をつかまれそうになって、リシリーは腹を決めた。

「…本当に融通がきかないわね。それなら、こちらにも考えがあるわ」

 言って、騎士の腕を払い、突き飛ばす。

「! 何を――」

 相手が怯んだ隙に、リシリーは、狭い足場を離れて暗い穴の底へと身を投げた。

「!!!」

 身体は、思った以上の速度で落ちていく。

 暗闇のなか、ときおり、壁に設置された小さな光が視界を横切る。

 落ちて落ちて、どこまでも、落ちて。

 息をつめながら、見開いた眼で暗い闇の奥を見据える。

 硬い地面に叩きつけられるか、それとも、この悪臭を放つ邪悪な穴に呑み込まれて消えてしまうのか。

 咄嗟に思い浮かんだ嫌な想像は、二秒と経たないうちに消えた。

「っ、何という無茶なことを!」

 落ちる身体が、思った以上にしっかりとした腕に支えられる。

 バサリ、と大きな羽ばたきの音と共に、四枚の羽が二人を空中に留める。

「――危険な真似はしないでください。貴女の身に何かあれば、ミルバ様が悲しまれるではありませんか」

 責めるというよりは、困ったような声で言われて、リシリーは小さく笑った。

 ミルバの言葉通り、叱られるよりも困惑顔で言われたほうが、罪悪感が強まる気がするのは何故だろうか。

「……言っておくけど、私に自殺願望なんかないし、自棄になって飛び降りたわけでもないのよ。貴方が来るって、わかって飛んだんだから」

「は? 何故、そんな真似をする必要があるのですか?」

 きょとんとするお人好しそうな騎士を見やり、リシリーが意地悪く微笑む。

「…もちろん、リッシュを――私の妹を助けるためよ。ここまで落ちたら、上に戻るより、先に進んだほうが早いでしょう? それに、私、あの子を助けるまでは上には絶対戻らないって決めてるの。たとえ、貴方が強引に上まで私を送り届けたとしても、私は何度でも落ちてやるわ」

「――…」

 騎士の青年は、困り果てたという顔つきで考え込み、ちらりと頭上を見上げた。

 そして、重々しい溜息と共に承諾の言葉を吐き出した。

「……わかりました。ミルバ様から、貴女のことを頼まれている以上、仕方ありません。ですが、くれぐれも気をつけてください。ここから先は、何があってもおかしくありませんから」

「わかっているわ。さあ、行きましょう!」

 満足げな笑みを浮かべるリシリーとは対照的に、青年騎士の表情は物憂げだった。

「…あら、どうしたの? これから一戦交えようかっていうときに、頼りないわね」

「――…何でもありません。とにかく、ここからは、自分の身を第一に考えて行動してください。いいですね?」

「もちろん、私とリッシュ、二人の安全を最優先に行動するわ」

「………はあっ」

 青年は、何とも言えない複雑な顔つきのままリシリーを下まで運んでくれた。

 最下層には、落ちた階段の残骸があちこちに落ちていたため、とりあえず、平坦な場所に降ろしてもらう。足下に気をつけながら周囲を確認するが、妙に暗くて、目が慣れるのにしばしの時間を要した。

「……ここから、どこへ行けばいいのかしら?」

 ざっと見たところ、通路が二本見える。片方は、やや広めの扉で鍵がかかっていて、もう一方は鍵も扉もなく、開放されていた。

 騎士の青年は、ちらりと鍵のかかった扉を見やり、

「…あちらには、人の気配がありません。向かうのならば、そちらの道になりますが」

 言葉を切った瞬間、リシリーの鼻を謎の悪臭が襲った。

 すっかり油断していたリシリーは、うっかりと濃密な腐臭を吸い込んでしまい、耐えきれずに騎士の腕にしがみついた。

「…うえっぷ。うう、この臭い、一体何なのよ?」

 吐き気を堪えながら問うと、青年は顔をしかめつつ、周囲に目を凝らした。

「……臭い、というよりは、気配といったほうが正しいでしょう」

「気配? どう考えても臭いでしょう、これは。鼻にくるんだもの」

「…気配も、ある密度を越えれば、感覚を強烈に刺激するのです。貴女は悪臭として感じているようですが、私には何も臭いません。代わりに、息苦しいような圧迫感として認識しています」

「そ、そういうものなの? うう、は、早く、リッシュを探さないと。うっぷ」

 右手で鼻をつまみ、左手で口を押さえつつ、ふらふらと歩き出す。

「…あまり無理はしないでください」

 リシリーの様子を心配しながら、騎士の青年が一歩先を行く。それとなく歩調を緩めてくれたのは、こちらを気遣ってのことだろう。

「………」

「………」

 どうにか、足元が見える程度の薄暗がりのなか、特に会話もなく、ひたすら歩く。カツカツと、石の床を叩く二人分の靴の音だけが聴覚を刺激する。

(――…き、気まずい…)

 悪臭も苦痛だが、この状況もまた辛い。

 よく考えれば、これまで生きてきて、こうして赤の他人――それも、男と二人きりになるなんてことはなかった。そう考えると、状況が状況だというのに、変に緊張してくる。

「……ね、ねえ、ちょっと。何か喋ってくれない?」

 沈黙に耐えかねて口を開くと、赤毛の青年がわずかに頭を動かせて、こちらを一瞥した。

「…申し訳ありませんが、ここは、敵地なのです。わずかな油断が命取りになりかねませんので、余計な会話は控えるべきかと」

「……そ、そうかもしれないけど」

 確かに、呑気に話しながら散歩するような事態でないことくらいはわかっている。

 おそらく、ここから先は、ろくな展開が待っていない。妹が捕らわれ、魔獣がいて、おそらく、アルシャスに雇われた敵もいるはずだ。とにかく、リッシュの安全だけを願い、そのためだけに行動しなくてはいけない。

 どれだけ警戒してもし足りない状況だと頭では認識しているのに、どんなに冷静になろうとしても、リシリーも年頃の娘である。そもそも、男という存在に免疫がないため、男と二人きりというありえないシチュエーションに、どうすればいいのかわからない。

(…黙っていると、それだけでパニックになりそうっていうか……)

 その心の不安定さを物語るように、先ほどから髪の毛先がざわざわしている。どうにか暴走しないようにきゅっと手を握りしめていると、

「……やはり、妙ですね」

 不意に歩調を緩めて、彼が言う。

「え? 変って」

 鼻をつまんだまま訊くリシリーに、騎士の青年は声を潜めた。

「…気配が不安定に揺らいでいるのです。貴女の感じる臭いが、ときおり、弱くなったり強くなったりしているでしょう?」

「……え?」

 そう言われて、思い出す。

 リシリーを苦しめている、謎の悪臭。これは、ずっと臭っているわけではなく、ときどき、思い出したかのように漂い始め、気づくと消えているのだ。

 恐る恐る鼻をつまんだ手を離して、空気を吸い込んでみると――。

「…あれ、臭いがしない…?」

 先ほどまで、強烈な悪臭が漂っていたというのに、今は、地下室にありがちな、じめじめしたカビっぽい臭いしか感じない。

「…どういうこと?」

 よくわからずに首を捻っていると、再び、悪臭が地下道の奥から噴き出してきた。今度は、かなり強力だ。一瞬、目の前が真っ暗になって、気づけば、騎士の青年の腕に抱き抱えられていた。

「……っっ」

 急に視界いっぱいに飛び込んできた青年の顔に驚いて、息を呑む。

(――ち、ちちち近っっ!)

 ぶわっと顔が赤くなるのがわかって、リシリーは慌てて身体を起こした。

「あ、ありがとう…」

 早口で礼を述べると、彼は、警戒するように視線を前方へ注ぎながら、

「いえ、気をつけてください。少し、様子がおかしいようです」

「…様子がおかしい? それって、まさか、リッシュに何かあったってこと?」

 目を凝らして、前を見据える。

 壁に備え付けられた光が照らし出しているのは、殺風景で窮屈そうな細長い石の廊下だけ。これといった異変は見受けられない。

「…ねえ、もしかして、また、何か罠でも仕掛けられてるんじゃないの?」

 階段の崩落を思い出しながら訊ねると、彼は眉を寄せて、

「……それは、進んでみなければわかりませんが――一つ、確認してもよろしいでしょうか? 貴女の妹君は、どのような方なのでしょう?」

「え? リッシュ? 何で、そんなことを訊くの?」

 いきなり放たれた質問の意図がわからない。

 不思議がるリシリーに、彼は、思いもしない言葉を口にした。

「…私の感じるところでは、この先にある気配は一つだけです。おそらく、子供のものだと思われるのですが――…どうも、その人物が、先ほどから強い殺気を――貴女の感じている悪臭を放っているようなのです」

「………ち、ちょっと待って。それってどういうことよ?」

 この先に子供がいて、それがリッシュだとするならば――先ほどから、リシリーが悪臭と感じる何かを放出している犯人が、可愛い妹ということになる。

「…言っておくけど、リッシュは、おとなしくて内気な子なの。殺気とか、そんな物騒なものとは無縁の子なのよ。きっと、今頃、怖くて泣いているに違いないわ」

 言いながら、リシリーの声がかすかに震えた。

 どくん、と心臓が大きく脈打つ。

(…リッシュは、悪い子じゃない)

 しかし、その身に流れる血は、忌むべきものだ。

 髪喰い一族は、感情が高ぶると、周囲のものを傷つけ、破壊する。それは、子供であろうとも変わらない。

(……もし、この先にいるのがリッシュだとしたら…)

 リッシュを連行した、あの女はどうなったのか。

 メイドから聞いた、地下室の奥にいるという魔獣は、どうなったのか。

(……まさか、殺したりなんてこと…してない、わよね?)

 そんなこと、考えるだけで恐ろしい。

 不安のあまり冷たくなった両手を握りしめていると、騎士の青年が気遣うように言った。

「…貴女は、ここで待っていてください。大丈夫です。妹君は、私が必ず保護いたしますので」

 その言葉に、不覚にもほっとしそうになって、リシリーは唇を噛みしめた。

 これから先、見たくない光景が広がっているかもしれない。可愛い妹が罪を犯してしまった現場を見てしまったら、自分はどうすればいいのか。はっきり言って、平常心を保っていられる自信なんかない。そう考えると、彼の言う通り、この場で待機していたほうがいいのだろう。

 しかし、それは『逃げ』だ。

 リシリーが最も嫌う呪われた血筋からも、自分を慕い、待ち続けている妹からも目を背けることになる。

 リシリーはぐっと顎を引き、強い口調で告げた。

「――いいえ、私も行くわ。もし、リッシュがいるのなら、きっと、私のことを待ってるはずだもの」

 そうだ。

 たとえ、どんなひどい状況だったとしても、リシリーは見届けなくてはならない。

 可愛い妹が無事かどうか。そして――何が起きたのかを。

「…行きましょう」

 リシリーの強張った声音に、青年が頷いた。

「はい。念のため、私から離れないようにお願いします」

「――…わかったわ」

 リシリーは、緊張で強張った頬を軽く叩いてから、細長い騎士の背中を追いかけた。

 辿り着いたのは、古びた木の扉。

 ぶわりと、強烈な悪臭が、扉の隙間から噴き出してきた。

「…っっ」

 鼻が曲がるどころの騒ぎではない。吐き気と頭痛がひどくて、立っていることすらままならない。

 思わず、壁に手をついて身体を支える。少しでも気を緩めると、すぐにでも意識が飛びそうになる。

「――…辛いようなら、無理せず引き返してください」

 優しい言葉に、リシリーは眉間にしわを寄せた。

「いいから、早くドアを開けて。さっさとリッシュを助けて、ここを出るんだから」

 自分に言い聞かせるように吐き捨てると、騎士の青年は一度だけ確認するようにこちらを見やり、ゆっくりと扉を開けた。

 部屋は冷たい石造りで、かなり広く、天井も高い。それなのに、やけに狭く感じるのには、理由があった。

「――……何、これ?」

 視界の先に、巨大な青い繭状のものが見える。

 天井まで十メートルはあるというのに、その半分以上を青い繭が覆い尽くしている。そして、わずかに青白い光を放つその物体は、まるで生きもののように不気味に表面が脈打っていた。

「…生きてるの、これ?」

 呆然としたリシリーの声に、青い繭が微かに反応した。一瞬、全身を強張らせるようにしてわずかに縮んだかと思うと、直後、バッと弾けた。そして、溢れ出した無数の細い糸のようなものが絡まり合って縄状に姿を変えたかと思うと、息をつく間もない猛烈な速さで二人に襲いかかってきた。

「っっっ!」

 リシリーが、反射的に両手で頭を庇い、うずくまる。

 脳裏に、得体の知れない何かに束縛され、貫かれる自分の姿が思い浮かんだが――しばらくしても、痛みを感じることはなかった。

「あ、あれ???」

 恐る恐る目を開けてみると、青い無数の縄は視界から消えていた。代わりに、部屋の中央で、ぼうっと光る青白い繭がもぞもぞと蠢いていた。そこに、殺意らしき凶暴な意思は感じられず、むしろ、何かに怯えているようにも見えた。

 目を閉じたわずか数秒の間に、何が起きたのだろうか。

「ち、ちょっと、何が起きたの、今?」

 目をしばたたかせながら、リシリーが訊ねる。すると、騎士の青年は繭を見つめたまま、

「…少し、牽制しただけです。これで、手を引いてくれればいいのですが」

「牽制? それって、どういう」

 訊こうとしたところで、異変が起きた。

 青い繭を形成していた無数の縄状の何かが、ばさりと解けたのだ。再び襲ってくるのかと身構えたリシリーだったが、二人を襲うことはなかった。それどころか、力尽きるようにして、次々と石の床に落ちていったのだ。そして、バサバサと音を立てて解けた繭の中心、部屋の中央に、ぽつんと小柄な少女の姿が現れた。

「――あ、あれはっっ」

 リシリーが顔色を変える。

 立っていたのは、青い髪の少女。

 部屋の隅に置かれた小さなランプの光に浮かぶ姿は、よく知る妹のもの。ただ――その身に纏う気配は、見知らぬ他人のそれだ。

「……リッシュ…よね?」

 長い髪が、イキモノのように少女の身体を取り巻いている。よく見ると、身に着けていた衣類は溶け、白い肌のところどころが火傷したように赤く腫れ上がっている。

(……あれは――血、なの?)

 ミミズ腫れとは別に、赤黒い液体が肌にこびりついている。それは、まるで、禍々しい刻印のようにも見えた。

 それだけでも充分に異様だというのに、その目は虚ろで、唇には得体の知れない不気味な微笑が浮かび、そして――。

「………っっ!」

 リシリーが、ハッと息を呑む。思わず飛び出しそうになった悲鳴が、喉に詰まる。

 あれは、自分の知っているリッシュではない。そう確信したのは、微笑む少女の右手がつかんでいるものが見えたからだ。

 巨大な、魔獣の生首。リッシュを丸呑みできそうなほど大きな口からは、だらりと伸びた赤い舌と粘っこい涎が垂れ、見開かれたままの濁った目には恐怖の残滓が刻み込まれていた。

「――…リッシュは、あんな残酷なこと、できる子じゃない…」

 小さな虫を殺すのさえためらうような、心優しい娘なのだ。それなのに……。

 声を詰まらせながら呟く自分の声を、リシリーはどこか遠いところで聞いていた。ショックのあまり、無意識に身体が震え、涙が零れそうになる。

「………」

 リッシュの虚ろな目が、何かを探して、ゆるゆると動いている。

 次の獲物を探しているのか、それとも別の何かを求めているのかまでは、わからない。ただ一つはっきりしているのは、今のリッシュはまともではないということだけ。

「……こんなの、どうすればいいの?」

 力が暴走することは、稀にある。しかし、ここまで我を失っている状態でリッシュに近づくのは、死にに行くようなものだ。かといって、何もしないわけにもいかない。何としても、姉である自分が妹の凶行をとめなければ――。

 そう思うものの、身体が動いてくれない。震えが、とまってくれない。

 リシリーが動揺している間にも、青い髪が凶器へと変わり、二人に襲いかかる。

 しかし――それは、攻撃と呼ぶにはあまりにも稚拙すぎる行為だった。

 まるで、手を伸ばすように一直線に、二人を狙って凶器と化した髪が放たれる。そこには作戦も計算もない。癇癪を起こした子供が、手当たり次第、近くにあるものを壊したがるような、そんな感じだ。しかし、その行為そのものが、リシリーには救いを求める声のようにも思えた。

 もちろん、そんなリッシュの攻撃は、当たらない。

 青年に届く直前に、あっさりと火炎魔法に遮られてしまうのだ。しかし、それで攻撃がやむわけではない。毛先の数十センチを焼かれて退却したかと思うと、すぐに気を取り直したかのように、再び同じ行動を繰り返す。何度も、何度も。それが、何だか哀しくてやるせない。

「…リッシュ、やめなさい」

 低く、叱るように話しかける。

 しかし、彼女はやめようとしない。それどころか、こちらを見ようともしない。

 通用しないとわかっているはずなのに、何度も髪を操り、攻撃を仕掛けてくる。まるで、それ以外のことは頭にないみたいに。

(――早く、やめさせないと危険だわ…)

 髪を操るには、かなりの魔力が必要だ。リッシュの場合、魔獣との戦いでかなりの魔力を消耗している。これ以上、魔力を使い続ければ、生命に関わる。

「リッシュ! いい加減にしないと、お姉ちゃん、怒るわよ!!」

 大きな声で叱りつけるように声を放つ。すると、ぴくりと小さな肩が震えて、虚ろな瞳がこちらに向けられた。

「…あ、お姉ちゃん。やっと、来てくれたんだね。ずっと、待ってたんだよ?」

 歪な笑みが、さらに、不気味に歪む。

 ふらふらとした足取りが、何とも危なっかしい。

「…何回も助けてって言ったのに、お姉ちゃん、なかなか来てくれないんだもん。だからね、自分で何とかしなくちゃって思ったの」

 そう言って、自慢げに、魔獣の首を両手で重そうに引きずりながらやってくる。

「…見て。悪い奴、やっつけたよ。あの悪いおばさんも、あたしがやっつけちゃった。お姉ちゃんの悪口言ったりして、ひどいよね。お姉ちゃんは、あたしの自慢のお姉ちゃんなのに。ひどいよ。あたしにも、ひどいことしようとするし」

「…リッシュ。お願いだから、そんなものはさっさと捨てて、お姉ちゃんと帰ろう? ね?」

 リシリーの言葉に、リッシュはかくんと首を横に傾けた。

「…帰る? せっかく、悪い奴やっつけたのに、どうしてそんなこと言うの?」

「ど、どうしてって――貴女、怪我してるじゃない。手当てしないと」

「変なお姉ちゃん。あたし、怪我なんてしてないよ?」

 くすくす笑う少女の身体を、長い髪が絡め取るようにして覆う。その度に、肌を焼くような異様な臭いが漂った。

 完全に、暴走している。

 誰が敵なのかすら、区別がつかなくなっているのだろう。凶器と化した長い髪は、見境なくすべてのものを溶かそうとしている。リッシュ自身すらも。

「! リッシュ! やめなさい!」

 思わず妹に駆け寄ろうとしたリシリーを、騎士の青年の手が制した。

「…今は、何を言っても無駄です。彼女は、一種の恐慌状態に陥っていますから」

「恐慌?」

「はい。初めて戦場に出た新兵が陥る病の一つです。許容できないほどの恐怖や緊張で、パニックに陥り、正常な精神が保てなくなっているのです。そうなってしまえば、まともな思考ができなくなり、異常行動をとるようになります。ひどくなると、精神が破壊されて自死に至るケースもあります」

「そ、それって、つまりはどういうことよ?」

 混乱するリシリーに、彼は言いにくそうに呟いた。

「――早く救出しなければ危険だということです」

「だ、だったら早く助けないと!」

 再び駆け出そうとしたリシリーを再び制し、彼が言う。

「待ってください。あの状態では、話し合いで解決するとは思えません。こうなれば、強制的に意識、もしくは戦意を喪失させる必要がありますが――相手は子供。しかも、この屋敷には、魔法を制限する結界が張られているために、魔法の発動・制御が難しい状況にあります。可能な限り、魔法を使わないで彼女を助けるとなると、手段は限られてきます」

「ど、どうする気なのよ?」

「――騎士として、女子供に手荒な真似はしたくないのですが、仕方ありません」

 言うなり、彼は、近づいてくるリッシュ目がけて、軽く跳躍した。

「!!」

 思わぬ騎士の行動に、リッシュが咄嗟に髪を伸ばして応戦しようとする。しかし、それは叶わない。どんなに攻撃しても、彼を守るようにして出現する炎にことごとく邪魔されてしまうのだ。

 舌打ちしたリッシュが逃げようと身を翻すより早く、騎士の青年が背後をとった。そして、素早く少女の首の後ろを軽く叩く。

「……あ…」

 リッシュが小さく声をあげて、そのまま倒れる。力なく傾いた小さな身体を、騎士の腕が支えた。

 攻撃的だった髪は、リッシュが気を失うと同時に鎮まり、シュルシュルと音を立てて、ただの髪へと戻っていった。

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