第四・五話・其の四
《 第四・五話・其の四 》
「ああ、もう、何でこんなに無駄に広いのよっ!?」
敵の目を欺くために、メルカから借りたメイド服を着たリシリーが、ひた走る。
走るといっても、メイドを演じる以上、上品さは忘れない。
(…ええと、何だっけ?)
教えてもらった、地下室への最短ルート。それを思い出しながら、早足で廊下を行く。
(…それにしても、薄気味悪い屋敷よね)
メイドや使用人の数が多いのはともかく、進めば進むほど、照明が暗くなっていく。
まるで、ここから先へ行くのを拒むように。
忍び寄る危険を警告するように。
少しずつ、闇が濃くなっていく。
空気がじっとりと重く、湿っていく。
(…まるで、化け物の口のなかにでも入っていくみたいね)
そんなことを考えてしまって、ぞっとした。
実際、嫌な予感が背筋を這い始めていたのだ。
何か、よくないことが起きるような気がする。
今すぐ、引き返すべきだ。そう本能が囁いているが、そういうわけにはいかない。可愛い妹の一生がかかっているのだ。何があっても、逃げるなんてできない。
(……とにかく、余計なことは考えないようにしなきゃ)
そう自分を叱咤するも、無意識に足が震えそうになって、慌てて、気を引き締める。
嫌な考えを必死で振り払い、リッシュを助けることだけを思いながら、先を急ぐ。
「……確か、この辺りなんだけどな…」
辿り着いたのは、ただの袋小路。
行き止まりで、三方を壁に囲まれた薄暗い空間。
「…どこかに、スイッチがあるはず」
目を閉じ、深呼吸する。
リシリーにとって、髪は第二の口であり、胃袋であり、そして、手足でもある。
神経を一点に集中して、感覚を研ぎ澄ます。
(……リッシュ、どこ?)
気配を辿るなんて器用な真似はできない。
しかし、絆があれば、それを補うことは簡単だ。
ましてや、髪喰い族の女同士とくれば――。
「! あった!」
目を凝らしても、見えない。しかし、確かに、細い何かがリシリーの感覚に触れた。
一本の、髪の毛。
長い髪が、壁の奥に消えている。
それは、袋小路に至る前の廊下。つまり、十歩ほど引き返したところにある壁のなかへと続いていた。
「きっと、ここに扉があるのね」
その周囲の壁や床を探ってみる。すると、壁にわずかに膨らんだ場所があるのに気づいた。
(…照明が暗すぎて、普通は気づかないわよね、これじゃ)
この辺りの照明は、足下を確かめるのも目を凝らさなくてはいけないほどに暗い。そのうえ、スイッチらしき壁の膨らみは、あまりにも微妙すぎた。
(…この先に、リッシュがいるのね)
おそらく、この壁の向こうに、秘密の階段が隠されているのだろう。そして、その先にあるであろう地下室に、妹が捕らわれているに違いない。そう思うと、じっとしていられない。一秒でも早く、助けにいかなくては。
「…よし、行くわよ」
リシリーが壁の膨らみに触れようとしたとき――不意に、背後から声が響いた。
「……そこから先は危険ではないかしら、お嬢さん」
若い女の声。
鈴の鳴るような、軽やかで清々しい声音は、それだけで重苦しい空気や緊張感を吹き飛ばしてしまいそうだ。しかし、今は、その涼しげな声音が、逆に恐ろしく感じられる。
「っっ……」
確かに、そこには誰もいなかった。
敏感なリシリーの髪にも、何の反応もなかった。
つまり、声の主は、本当に気配というものがなかったのだ。
リシリーが、怖々と声のしたほうへ顔を動かせて――ぽかんとする。
「…え…?」
そこにいたのは、恐ろしい化け物でも、見るからに禍々しい人物でもなかった。場違いなほど、綺麗な――まるで、光を纏ったように清純で美しい女性だった。
さらりと流れる銀の髪はどんな光よりも眩しく清らかで、肌は血の気を感じさせないほどに白い。微笑むようにして閉じられた両目を飾る睫毛は長く、女性らしさを際立たせている。わずかに紅をさした唇は薄めで品があり、清楚な印象がある。
だが、リシリーは見逃さなかった。見る者の心を癒しそうな、この麗しい娘の正体を。
「……貴女、妖獣一族ね?」
彼女の頭には、髪に紛れて白い耳が生え、純白のドレスの裾から、これまた、ふわりとした尻尾の先が見えた。
「…はい。確かに、私は妖獣族ですが、貴女の敵ではありませんよ。勇敢なお嬢さん」
「――この状況で、それを信じろっていうの?」
ここの屋敷の主は、妖獣一族の男なのだ。同じ一族同士、手を結んでいるに違いない。
そう結論づけたリシリーだったが、その疑惑を払拭するかのように、銀髪の娘は優しく微笑んでみせた。
「どうか、信じてください。私は、正真正銘、貴女の味方ですよ」
「……そんな言葉、信じられないわ。だいたい、いきなり現れて味方だなんて言われて、ホイホイ信じられるわけないじゃないの」
臨戦体勢とばかりに身構えるリシリーの様子に、彼女は困ったように首を傾げ、
「――それなら、私に、少しばかりの猶予をいただけませんか? 大丈夫、すぐに終わりますから」
「! ち、ちょっと! 何する気よっ!?」
娘の白い手が、壁のスイッチに触れる。
すると、みしみしと小さな音を立てながら、壁の一部に亀裂が走り、ゆっくりと内側へと動き始めた。そして――二人の眼前に、新たな道が現れた。
「! やっぱり、ここから地下に行けるのね!」
リシリーが息を呑み、呟く。
視線の先には、想像以上に広い空間が広がっていた。石壁と石の階段が続いているのは予想していたが、まさかこんなふうになっているとは思いもしていなかった。
「――まるで、巨大な穴だわ」
直径三十メートルはあるだろうか。巨大な円筒状にくり貫かれた石の壁に張りつくようにして、階段が設置されている。それは、螺旋階段よろしく、ぐるぐると壁に沿っていたが、当然ながら手すりなどはない。一歩足を踏み外せば、そのまま暗い穴の底へ真っ逆さまだ。そんな恐怖を少しだけ和らげてくれるのは、一定置きに壁に設置された魔法の光。点々と照って足下を明るくしてくれているが、底のほうは闇に負けているのか、光すら見えない。
「…思った以上に深いようですね」
娘の呟きに声を返そうとした瞬間、リシリーは思いきり顔を歪めた。
「……っ、何なの、この臭い…?」
むわっと、地下から生魚が腐ったような悪臭が漂ってきた。
リシリーが顔をしかめ、口と鼻を手で塞いでいる隙に、銀髪の娘は表情を変えずに一歩踏み出した。
「…ここから先は、危険です。貴女はここで待っていてください」
おとなしそうな見た目とは裏腹の行動力に、リシリーは娘の肩をつかんで引っ張った。
「ち、ちょっと、待ちなさいよっ! 私が先に行くんだからね!」
慌てて先に立とうとするリシリーに、彼女は凛とした声を放った。
「…本当にいいのですか? 貴女は、私を信じていないのでしょう? 敵かもしれない者に背を向けるなど、迂闊にも程がありますよ」
「! そ、それはそうかもしれないけど。でも、貴女が先に行って、私が前に進むのを妨害するかもしれないじゃない!」
見たところ、階段は、そこそこ横幅があった。かといって、戦ったり逃げたりするほどのスペースはない。万が一のことを思うと、確かに、前を行くのは少々リスキーな気もするが…。
(…でも、だからといって、先に行かれると厄介な場合もあるわ)
彼女が敵だった場合、どこかに隠された横道があって、それに気づかないように誘導したり、もしくはこっそりと罠を発動させるということもありうる。
警戒するリシリーに呆れたのか、娘は溜息まじりに折れてくれた。
「……仕方ありませんね。ここで押し問答している間に敵に見つかっては、元も子もありません。では、お嬢さん。お先にどうぞ」
「…先に言っておくけど、私は、髪喰いの血を引いているの。おかしなことをしようとしても、私の髪がすぐに気づくから、裏をかこうだなんて考えないことね。もちろん、そのときは貴女の身の安全は保障しきれないわよ」
それは、脅し――警告のつもりだった。おかしな真似はするな、と。しかし、娘の反応は拍子抜けするほど薄かった。
「――あら、髪喰いの娘とは、珍しいですね」
ちょっと驚いてみせただけで、すぐに上品な笑みを浮かべ、
「……お喋りは、ここまでです。さあ、先を急ぎましょう」
と言って、急かしてくる。
(……何なの、この人? 私が怖くないの?)
髪喰い族は万人に恐れられているものだと思い込んでいたリシリーは、肩透かしを食らったような気分になった。もっと驚くなり怖がってくれなくては、脅しの意味がない。
(……もしかして、私が種族を偽っていると思われたのかしら?)
何だかもやもやしたものを感じながらも、リシリーは、銀の髪の娘から視線を外し、地下へと続く階段を見やった。
「と、とにかく、私が先に行くんだからね。最初にここを見つけたのは、私だし」
この先に、何があるのか。リッシュは無事なのか。何もわからないが、とにかく突き進むしかない。
「――…行くわよ」
一言、短く告げてから、リシリーは歩き出した。
どこからか漂ってくる悪臭に耐えながら、ゆっくりと慎重に歩を進める。
「……ふう。それにしても、随分と古いというか、脆い造りよね」
壁は、触れるだけで表面がパラパラと落ちるし、階段の角なんかは、ちょっと体重をかけただけで、ぼろぼろと崩れてしまう。しかも、手すりがないので、壁に片手をついていないと、うっかり足を踏み外して深い闇の奥に吸い込まれそうになる。
幸い、階段を十段ばかり下りたところで、地下からの悪臭は嘘のように消えたため、リシリーは、両手を壁につきながら、ゆっくりと階段を下りていった。正直いって、暗いのはあまり得意ではない。何だか、得体の知れないものが知らないうちに背後に立っていて、そのまま、闇の奥へと連れ去られそうな気がしてくるから。
(…こんな緊張の強いられる暗がりが、一番、こたえるのよね…)
こういうとき、どうして、小さい頃に聞いた怖い話やホラーじみた物語をあれこれ思い出してしまうのだろうか。怖さを別の恐怖に置き換えようとしているのか、それとも、単に恐怖が新たな恐怖を呼び寄せているだけなのか。
とにかく、怖がりながらも黙々と階段を下りていくうち、あとからついてきていた娘がふと足をとめて、ぽつりと呟いた。
「………もしかして」
「…どうしたの?」
つられて立ちどまったリシリーが、振り返る。すると、その瞬間、ぐらりと大きく足下が揺れた。
「!! これはっ!」
咄嗟に、銀髪の娘がリシリーの腕をつかんだ。
「え、え?」
何が起こったのかわからないまま、リシリーは凍りついた。急にがらがらと音がしたかと思うと、あっという間に階段が崩れ落ち、気づいたときには、娘と共に宙に投げ出されていた。
「!???」
あまりの出来事に、思考が停止する。足場を失ったリシリーは、がくんと重力に引かれて落ちていく――かと思いきや、奇妙な浮遊感に救われた。
「…あ、あれ???」
二人は、落下することなく、何もない空中に浮いていた。
その足下――遠いどこかで、瓦礫が地面に叩きつけられるような轟音が鳴り響いた。それに耳を塞ぐことさえできず、リシリーは、眼下に広がる暗闇を見つめた。
その闇の奥底から、冷たい空気が噴き上げてくるような気がする。
「――い、一体、何があったのよ??」
わけがわからない。見やれば、階段が落ちたのは、ちょうど、リシリーと銀髪の娘が歩いていた辺りを中心に、前後二十段程度。しかも、ご丁寧なことに、下へと続く螺旋階段部分の同じ場所が崩れ落ちている。つまり、あのまま落ちていれば、最下層の冷たい床だか地面だかに打ちつけられていたということ。落ちた階段の残骸が底に到達するまで十秒ほどかかっているところからして、落ちたら即死していただろう。
「…危ないところでしたね」
銀髪の娘の声で、気づく。
今現在、リシリーは、銀髪の娘の風魔法のおかげで、何とか落下せずにすんでいるが、彼女がいなければ、リシリーは死んでいた。
そう思った瞬間、どっと冷たい汗が流れて、心臓が凍りつくのがわかった。
ぎゅっと娘の腕に強くしがみつくと、娘は、足下の穴を見下ろし、ポツリと呟いた。
「…おそらく、侵入者用の罠が発動したのでしょう。ある一定のポイントに差し掛かると、自動的に階段が落ちるようになっていたのです。貴族の屋敷には、よくあることです」
「よ、よくあるって――」
自宅に罠をつくる神経なんて平民のリシリーにはわからないが――気になることが一つ。
「で、でも、リッシュの髪があったのよ? あの子は、ここを通ったはずでしょう? っていうことは、あの子は、今頃――」
言いながら、身の毛がよだった。
リッシュが、この深くて暗い穴の底にいるのかと思うと、それだけで全身の血が凍りつく。
青ざめるリシリーに、娘は優しく告げた。
「…落ちたりはしていないと思いますよ。ほら、よく見てください。罠に引っ掛かったのは、私たちが初めてのようですし」
そう言われて、少しだけ冷静になる。
「……そ、そうよね。もし、リッシュが落ちたなら、最初から階段が途切れていたはずだもの」
「この屋敷の罠を熟知している者ならば、回避することは難しくありません。おそらく、何かしらの方法で無事に階段を下りたのでしょう。それにしても、困りましたね。これでは、身動きがとれません」
娘の頼りなさそうな声が聞こえた途端、がくんと身体が揺れて、二人は、三メートルほど落下した。
「え、ち、ちょっとーっっ!?」
悲鳴をあげたところで、落下がとまる。
「あ、危ないじゃないの! しっかりしてよっ!!」
青ざめて怒鳴るリシリーに、彼女は辛そうに眉を寄せた。
「ご、ごめんなさい。この屋敷の結界のせいで、私の風魔法も長くもちそうにありません」
「ええっ!? そ、それって、もうすぐ落ちるってこと!? 長くないって、どれくらいもつのよっっ!?」
驚いて訊ねると、彼女は申し訳なさそうに眉をハの字にした。
「…あと、十秒くらいでしょうか。とりあえず、安全な場所で待機しませんか?」
「さ、賛成よ! っていうか、喋ってないで、早く移動してっっ!」
幸い、というべきかどうか。安全な足場が近くに見えたので、とりあえず避難することはできた。しかし、問題は、これからどうするかだ。
頭上を見上げると、侵入してきたはずの出入り口は見えなかった。おそらく、地下への階段を下りた時点で、扉が閉まってしまったのだろう。
(…戻れないってことは、先に進むしかないんだけど…)
一番近くて崩れていない階段へと移動したのはいいが、崩れた部分の先に進んでしまっているため、魔法でも使わない限り、来た道を帰ることは不可能な状態だ。先に進むにしても、また別の罠が仕掛けられているかもしれない。
(……私の髪も、ここじゃ役に立たないみたいだし)
魔法の使用制限の結界が強まっているのか、もしくは、ただ単に集中力の問題なのか。髪を操って、何とか周囲を探ってみようとするのだが、うまくいかない。再度、意識を集中しようとしたところで、ぶわっと鼻の曲がりそうな悪臭が漂い始めた。これでは、髪を操るどころではない。しかし、それは十秒としないうちに嘘のように消えて、地下特有の埃っぽいような臭いに取って代わる。
「…まったく、あの臭いは何なのかしら? それに、この下は、一体どうなっているの?」
安全な足場に腰を下ろして訊くと、娘は、疲労しているのか、肩を上下させながら首を傾げた。
「…さあ、どうなっているのでしょうね。ただ、これ以上進むのは、やめておいたほうがいいでしょう。でなければ、貴女は、今度こそ死んでしまうでしょうから」
「? 今度こそって、どういうことよ?」
まるで、リシリーが危険な目に遭うことを最初からわかっていたような口振りだ。
「…貴女、何者なの? 最初に言ってたけど、私の味方って、あれはどういう意味?」
まさか、彼女もリシリー同様に騙されたということだろうか。それとも、知り合いが捕まっている、とか?
いろんな可能性が思い浮かんだが、彼女は意外な言葉を口にした。
「……私の名は、ミルバ・ソルティア。この屋敷の主・アルシャス様の親戚にあたる者です」
「! ってことは、貴女も悪い奴らの仲間ってこと?」
「違います。アルシャス様の悪行は、以前から聞き及んでいました。無論、何とか対処しなくてはと思っていたのですが、こちらには、表立ってことを起こすわけにはいかない事情があったのです」
ミルバは、そこで一度言葉を切って、軽く深呼吸した。
「…私の父は、国王の信を得る者。その親類が罪を犯したとあれば、父の名を汚すことになります。そこで、私は、父の代行としてアルシャス様との会談を申し込み、こうしてやってきたのです。父の名誉のため、何よりも、真実を確かめるために」
「…真実って、メイドを娼婦として売りさばいてるってこと?」
「無論、その件もあります。ですが、それだけではありません」
「…他にも何かあるの?」
静かな石壁に囲まれた空間に、物憂げな少女の声が響く。
「…はい。アルシャス様は、昔からよくない噂の絶えない御方だったのですが、最近になって、その行動が目に余るものになったのです」
「――それって、町の雰囲気がおかしかったことと関係あるの?」
まるで、何かを警戒するような、町の人々の目つき。
口を揃えて領主を称える、嘘くさい言葉の数々。
ミルバはこくりと頷き、溜息をついた。
「…この地は、五百年ほど前までは敵地でした。それを我らが偉大なる国王が攻め落とし、新たな領地として発展させたのです。それ故に、この地の人々のなかには、我々によくない感情を抱く者――つまりは、敗戦による屈服を良しとしない者も少なくありません。何せ、かつての敵に支配されるという屈辱のなかで生き長らえているのですから」
言って、ミルバは見えない空を見上げるようにして細い顎を上げた。
「――…それでも、そういう輩を束ねることのできる有能な領主の下であれば、悔恨も憎悪も反発も、いつかは泡のように消えて、我が国の民として生きることに喜びを感じる日も来るだろうと信じていたのです。ですが、国王は、アルシャス様をこの地の領主としてお選びになってしまいました。無論、国王の意に反することなど、考えてはいません。その選択が誤りであったと思うこと自体、罪なことです。ですが――私や父、親族の誰もが危ぶんでいたのです。新たな領地を得たことで、何かしらよくないことを始めるのではないか、と」
「……ふうん。それで、そのアルシャス様とやらは、何をしようとしているの? メイドを売りさばくだけでも充分すぎるくらいの悪党だと思うけど」
冷やかなリシリーの声に、彼女はきゅっと顎を引いた。
「…メイドを売りさばく、それは人身売買を禁止する我が国において重罪に他なりません。ですが、問題は、何のためにそれを始めたのか、ということにあります」
「…何のためって、そりゃ、お金が欲しいからじゃないの?」
豪華な屋敷に、広大な庭、数えきれないほどの使用人。それらを維持できるだけの経済力があっても、まだ、金に執着するなんて、随分と器の小さな人物に違いない。そんなことを考えていると、ミルバはやや声を潜めて告げた。
「メイドだけではありません。アルシャス様は、国内外問わず、禁忌とされている品を横流ししているようなのです。それで得た金は懐へ入り――こともあろうに、それを元手に大量の武器や兵士を買い集めているらしいのです」
「……武器と兵士って…まるで、戦争でも始めようとしているみたいね」
何気なく呟いた言葉に、ミルバは苦々しい表情になった。
「その通りです。アルシャス様には、内乱を起こそうとしているのではないかという疑惑があるのです。あの方は、奸臣にありがちなことに、国王から厚い信頼を得ているのです。それ故に、我々も手をこまねくしかなかったのですが――…このままでは、我が国の存続自体が揺らぎかねません。かといって、国王に進言したとしても、何も変わらないでしょう。それどころか、アルシャス様の甘言で逆にこちらが嵌められる恐れもあります。しかも、先にお話した通り、アルシャス様は私の親類にあたる方。親族の罪は、本家にあたる我が父の罪になります。ですから――何としても、穏便にすませたいのです。場合によっては、アルシャス様には、このままおとなしくご隠居していただくつもりで、話し合いに来たつもりでしたが――…予定通りにはいかないものですね」
「……あ、あの、ちょっと待って。さっきから、サラッと事情を説明してくれてるけど――それって、ものすごい厄介な話なんじゃないの?」
貴族が内乱を起こす、それ自体は、まあ、ないことではないとは思う。しかし、問題は、敵の目的が何かということだ。
「そのアルシャスって悪党、武器や兵士を大量に集めてるんでしょう? もしかして、国王様を殺そうとか考えてるんじゃないわよね?」
まさかとは思う。そんなことが実際に起きるなんて、到底考えられない。
しかし、彼女は否定しなかった。鎮痛な面持ちで、可憐な唇を動かせる。
「――…他国からの密書を受け取っている節がありますから、時機が到来すれば、他国の軍の手引きをするつもりなのでしょう」
「…て、手引きって」
随分と話が大きくなってきた。
どきどきしながら、リシリーはミルバを見つめる。
「…待ってよ。貴女、表立って動けない父親のためにここまで来たのよね? 国王様をどうこうしようなんてヤバい相手に、話し合いなんてできるはずがないじゃない。殺されるかもしれないとか、考えなかったの?」
明らかに危険な相手を前に、女が一人で立ち向かえるはずがないではないか。
リシリーの質問に、彼女は小さく微笑んだ。
「…考えなかったというよりは、考える必要はなかったというべきでしょうね。私が殺されるなどということは、彼がついている以上、ありえませんから」
「…彼? 彼って、誰? まさか、恋人じゃないわよね? こんなところでノロケ話は聞きたくないんだけど」
やや冷えた眼差しで言うリシリーに、ミルバはくすりと笑った。
「そうではありません。私には、最高の騎士がついていますから、何も心配はいらないという意味です」
「――…騎士? 何、それ? そんなの、どこにもいないじゃないの」
確認しなくても、ここにいるのは、ミルバとリシリーの二人きり。他に誰もいない。
思わず呟くリシリーに、彼女は、ちょっと恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「…そ、それは――私が、彼に嘘をついてここまで来てしまったのですから、仕方がありません。廊下を駆ける貴女から死臭がしたもので、咄嗟にあとを追いかけたのですが…」
「…死臭? 私は、こうして生きてるわよ?」
首を傾げながら訊くと、彼女は穏やかな声で言った。
「……私たち、妖獣族には、死が迫った者を判別できる能力があるのです。廊下を行く貴女からは、強い死の気配が漂っていました。ですから、何とか助けなければと思ったのですが…」
「ふうん。つまりは、私を助けるために頼りになる騎士様を謀って一人でやって来たものの、今現在、危機的状況に陥ってる、というわけね。ここは、罠に気づかず無謀にも先行して階段を下りた私が悪かったと謝るべきなのかしら?」
リシリーの自嘲気味な声音に、彼女は小さく首を横に振り、
「いいえ。隠し通路を見つけて、のこのこ帰るわけにはいかないでしょう。ある程度、状況を把握してからでなければ、嘘をついてまで出てきた甲斐がありませんし。ですが…こんな有様では、彼に叱られてしまいますね」
しょんぼりと膝を抱える姿に、リシリーはまばたきをした。
「彼って、例の最高の騎士様のことよね? っていうか、貴女、貴族のくせに騎士に叱られているの?」
騎士なんて、貴族にとっては部下のようなものであり、そもそも、意見を言うことすら認められていないはずだ。
それなのに、彼女は、親に叱られるのを恐れる子供みたいな表情を浮かべている。
ミルバは、観察するように自分を見つめるリシリーに、どこか寂しげな声音で言った。
「…もちろん、直接、叱ったりはしません。立場上、そんなことはできませんし、女性相手にそんなことを言えるような人ではありませんもの。ただ、困ったような顔でこちらをじっと見つめてくるだけ。それが、叱られるよりもよっぽど辛いということを、彼は知らないのです」
「……ふうん。口うるさくないなら、そっちのほうがいいじゃない」
そもそも、騎士という存在自体、リシリーにとっては架空に近いのだ。どういう言動が正しいのか、まるでわからない。
しかし、ミルバはわずかに不満を滲ませて言う。
「――…短い付き合いではないのですから、多少、礼儀や立場を忘れても私はどうということはないのですが、彼は、ずっと他人行儀のままで何も変わらないのです。もっと打ち解けてほしいのに、聞く耳をもたず――…。世界中のどこを探しても、彼の頭ほど固いものは存在しないのではないかと思うくらい頑固で融通がきかない人なのです」
「…それは、随分な言われようね。でも、御主人様にしてみれば、そっちのほうが都合がいいんじゃないの? 絶対服従なんでしょう? 変に反発されるより、ずっと扱いやすいじゃない」
「………ただの道具としてなら、それでいいのでしょうけれど」
ミルバの小さな呟きは、地下の暗闇に響くことなく消えた。
そのときだった。頭上で大きな物音が響いたのは。
何かの仕掛けが動くような、大きな音。
思わず見上げた視界に、外からの光が降り注ぐ。地下にこもった空気が、外へと向かって放たれる。代わりに、新鮮な空気がリシリーたちの元へと吹き込んできた。
「…あ」
ミルバが小さく声をあげる。
その横顔が、キラキラと眩しく輝く。
嬉しそうな微笑みを浮かべて仰ぐ先には、シルエットが一つ。
「――…来てくれたのですね!」
嬉々とした声に、頭上の人影が――ミルバの騎士が動くのが見えた。




