第四話・其の八
《 第四話・其の八 》
飛んできた七糸の声に、ほっとする。
「ナイト殿、怪我はないか!?」
つい五分ほど前、森のほうが騒がしいのが気になって偵察に出たものの、七糸の傍に控えていたコルカに呼ばれて急いで戻ってきたのだが――コルカが守ってくれたおかげで、どうにか危機を脱したらしい。念のため、周囲に敵らしき気配がないか探ってみるが、それらしきものは察知できない。どうやら、どこかに逃げたようだ。
七糸を守ったコルカは、褒めろとばかりに空中でふんぞり返っているかと思いきや、意外にも静かに宙に浮かんでいた。何かに怯えるかのように尻尾の炎が小さくなっているのが、少し気になるが――今、優先させるべきは、七糸の身の安全だ。
座りこんでいる七糸の傍に膝をついて、怪我をしていないか視認する。どうやら、目に見える傷は負っていないようだが――…よほど、怖い目に遭ったらしい。
まじまじとラビィを見つめていたかと思うと、不安と恐怖に満ちた大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙が零れた。どうやら安心して、緊張の糸が切れただけらしいのだが、あまりにも唐突に零れた涙に、ラビィの心臓がびっくりして飛び跳ねる。
どうしていいものやらわからないまま固まっていると、その腕をぎゅっとつかまれた。
「…ナ、ナイト殿?」
「――こ」
「こ?」
「…こ、こここ怖かったあーっ!! な、何で、異世界にお化けなんかいるのっ!? 怖すぎだよっっ!!」
「――お化け?」
ぽかんとする。
ついさっき駆けつけたばかりのラビィには、いまいち状況がつかめない。
詳しく説明してもらおうとコルカを見やると、彼は、小さな身体をぶるりと大きく震わせた。
『んな可愛いモンじゃねーッスよ! ありゃ、どっからどう見ても、悪鬼ッスよ!』
「あ、悪鬼だと!?」
それは、実在するはずのない種族。あくまでも、想像上のイキモノ。
「間違いないのか?」
確認するが、コルカはひどく怯えた様子でこくこくと頭を縦に振った。
「ラ、ラビィさん、さっきから一人で何言ってるんですか? まさか、そこに何かいるんですか? ラビィさんって、実は視える人?」
どうやら、今の彼にはコルカの姿が見えていないらしい。
びくびくしながら、縋るようにして腕にしがみついてくる。
「っっっ」
その柔らかな温もりにどきりとする。顎の下を柔らかい髪がくすぐり、触れた箇所から強い不安感が伝わってきた。
ラビィはどぎまぎしつつも、平静を心がけて口を開く。
「い、いや。お前が怖がるようなものは、ここにはいない。コルカがいるだけだ。見えないのか?」
言ってしまってから気づく。
「…そういえば、魔力がないのだから、見えるはずがなかったな」
「はい。でも、昼は見えてたんですよ? メアが魔力をちょっと分けてくれて、それで」
「魔力を分ける? そういえば、メア様がそんな話をしていたな」
七糸に魔力を譲渡すれば、魔法に対する耐性が上がり、魔力がなければ見えなかったものを視覚化できるようになる。それはつまり、彼に自衛の術を与えることにも繋がる。下手に剣や護身術なんかを学ぶより、よっぽど彼のためになるはずだ。
(…そうか、その手があったな。迂闊だった。何故、今まで気づかなかったのか)
魔力を自力で生み出せないからといって、魔力を持てないわけではないのだ。
たとえば、魔力を込めた装飾品を身につけていれば、いざというとき、その力を解放して難を逃れる、なんてこともできる。戦場においては、魔力を蓄積させた武具や装飾品は、自身の生命を守るためにも、魔力の枯渇を防ぐためにも必要不可欠な品なのだ。
「――盲点だったな」
思わず、声が漏れる。耳聡く、その声を拾った七糸は、
「! モ、モーテンって何ですか!?」
不安と恐怖のあまり、震えながら、上目遣いでこちらを見つめてきた。
その、殺人的な可愛さときたら――!!
ただでさえきらきらした瞳が、涙の余韻で妖しく潤み。
寝巻き用らしきシャツが少し大きいせいか、頼りなげに浮かぶ鎖骨が嫌でも目に飛び込んでくる。
腕に押しつけられたままの温かな感覚は、男の身では決して得られない柔らかさをもっていて――やはり、どこからどう見ても七糸は女の子なのだと実感させられる。
(……自分でも、わかっているのだ)
現状として、呑気にときめいている場合ではないと。
だが、しかし!
(…仕方ないではないか、どうしようもなく愛らしいと思ってしまうのは!)
これはもう、状況がどうとか、理性がどうとかいう話ではない。
七糸の存在そのものに問題があるのだ。
男だと言い張るくせに、小柄で可愛くて。
戦闘能力は皆無なのに、やたらと家庭的で、優しくて。
怖い目に遭って、思わず泣いてしまったり。
震えながら抱きついてきたり。
まるで子供みたいだと思う反面、それがとても可愛らしくて、愛しくて。
ぎゅうっと心臓を握り潰されてしまいそうな気持ちになる。
「? ラビィさん、どうしたんですか? 顔が赤いですよ?」
その指摘の声に、はっとする。
ついつい、見惚れて放心していたようだ。
慌てて視線を外し、さりげなく呼吸を整えて心臓を落ち着かせる。
「な、何でもない。それより、ナイト殿。立てるか?」
いつまでも廊下に座らせておくわけにいかない。
そっと手を取って立ち上がろうとするが、七糸は座り込んだまま動かない。
「…あ、あの、すみません、ラビィさん。情けないんですけど、その――ちょっと、腰が抜けちゃったみたいで。…うう、は、恥ずかしいなあ、もう」
真っ赤に頬を染めてうつむく仕草に、何故か、こちらにまで羞恥心が移ってきた。そのまま、二人して黙り込んでしまう。
(――まったくもって、厄介だ…)
いつもならば、抱き上げるなり担ぎ上げるなりするところだが――…七糸のことを妙に意識してしまって、逆に身動きがとれなくなってしまった。これでは、本末転倒。いざというとき、変な迷いが出てしまいそうだ。
(……とにかく、ナイト殿に私の気持ちを知られるわけにはいかんのだ)
以前、誤解とはいえ、ラビィが七糸を好きらしいという話を聞いた瞬間の彼の反応を思い出す。それこそ、絶縁しかねない勢いで、迷惑だと言い放った、あの表情を。
(………今度、あんなふうに言われたら、絶対に立ち直れないからな)
自分のメンタルの弱さは、嫌というほど自覚している。
七糸に拒絶されたらと思うだけで、胃に穴が開きそうになる。もしも、実際に拒否されたとしたら、それだけでショック死するに違いない。いや、冗談なんかではなく、本気で。
『あのー、ラビィの兄貴。とりあえず、移動したほうがいいんじゃねーッスかね。絨毯が敷いてあるとはいえ、夜は冷えるッスから』
沈黙に耐えかねたように放たれたコルカの声に、ラビィがぎこちなく頷く。
「わ、わかっている。ナイト殿、少しばかり失礼するぞ」
言ってから、ひょいっと抱き上げる。その瞬間、アルトが大きく唸り声を上げて一瞬肝が冷えたが、何とか我慢する。動揺して七糸を落としてしまっては大変だ。
「! ま、また、お姫様抱っこですか? な、何か恥ずかしいんですよね、これ。女の子なら喜ぶかもしれませんけど」
七糸がぶつぶつ言いながらも、そっと首に腕を回してくる。
「――本当に、迷惑ばっかりかけてすみません…」
「い、いや、別に構わない。それが、私の役目だからな」
抱き上げた七糸の身体は、やけに軽い。本当に食事をとっているのか心配になるくらいに。
床に転がっている魔法の光は、ランプ本体がなければ持ち歩けない仕様になっているため、仕方なくその場に置いていくことにする。代わりの照明として、コルカに頼んで魔法で幾つかの火の玉を出してもらった。
オレンジ色の光に照らし出された廊下は、夜ということもあってか、奇妙なくらいにしんと静まり返っている。黙っていると、互いの呼吸音どころか心音まで聞こえてきそうだ。
「…と、とりあえず、お前の部屋に連れて行くからな。まったく、こんな時間に出歩くのは、今日限りにしてもらいたいものだな」
落とさないように、あまり振動を与えないように注意しながら、ラビィが歩き出す。
注意された七糸は、ちょっと落ち込んだようにうつむき、
「…すみません。でも、僕、どうしてもラビィさんに言っておきたいことがあって」
「私に? こんな時間にか?」
「はい。メア抜きで、二人きりで話したいことがあったんです。それで、アルトについてきてもらって、ラビィさんのところに行こうとしてたんですけど――あんなことになっちゃって。本当に、助かりました」
深夜、二人きりで話したいこと?
どんな内容なのか、まったくといっていいほど、思いつかない。
少し怖いと思いながらも、ラビィは訊いた。
「…それで、私に話とは何なのだ? こんな時間に訪れるとは、よほど緊急のものか、機密性が高いものなのだろうな」
内心、何を言われるのだろうとビクビクしていたせいか、声にまで緊張が伝わってしまった。
七糸は、ちょっと間を置いてから、改まった口調でこう告げた。
「実は――ラビィさんに、僕との主従契約を切ってもらいたいんです」
「――…えっ」
寝耳に水の発言に、思わず、立ちどまる。
動揺がそのまま腕に伝わり、危うく、七糸の身体を落としそうになった。
「い、今、何と言った?」
聞き間違いだろうか。
契約を切る、と聞こえたが。
不安げなラビィの様子に気づかず、七糸は続ける。
「僕との契約を、なかったことにしてほしいんです。僕がこっちの世界に来たせいで、ラビィさんには多大な迷惑をかけてるでしょう? 僕自身、ラビィさんに悪いなっていう気持ちはあったんですけど、いつかは自分の世界に帰るんだから、少しくらい無茶してもいいかなって思ってたんです。でも――…ラビィさんが死にかけたのって、結局のところ、僕のせいじゃないですか。メアが無茶するって気づいてもよさそうなものなのに、何も気づかなくて、大怪我させてしまったんですから」
「い、いや、私の怪我はメア様のせいというわけでは――だいたい、今はこうして完治しているのだから、お前が気に病む必要はないだろう」
「それでも――ラビィさんを危険に巻き込むのは、嫌なんです。だから、僕とは離れたほうがいいんじゃないかって思うんです。そりゃ、僕だって、ラビィさんと一緒にいたいですけど……でも、それって結局は僕のワガママでしかないんですよね。だから――僕との契約を切ってほしいんです」
「ま、待て! 落ち着け、お前は自分が何を言っているのか、わかっているのか?」
言いながらも、混乱しているのは、自分のほうなのだとわかっている。それでも、問わずにはいられない。
「何故、急に契約破棄などという話になるのだ? 私は、あの一件は自分の迂闊さが招いたことだと理解している。一パーセントもお前のせいなどとは思っていない。それなのに、どうしてそこまで思い詰めるのだ?」
「だって、ラビィさんが、火竜一族から目の敵にされてるのも、メアに散々嫌がらせされながらもこの屋敷にいなきゃいけないのも、全部、僕との契約のせいじゃないですか」
「そ、それはまあ、その通りだが――しかし、私はお前と契約を切るつもりはないぞ」
「でも、それじゃあ、また死ぬような目に遭うかもしれませんよ。今度こそ、本当に死んじゃうかも。そうなる前に、契約なんてものはさっさと切ったほうがいいと思うんです」
「い、いや、だから、何故、そんな極端な話になるのだ。だいたい、私は頑健な竜族だぞ。そう簡単には死なない」
「そういう問題じゃないですよ。ていうか、今さら、契約なんかにこだわる必要はないと思うんです。だって、ほら、僕とラビィさんの仲じゃないですか」
どきりとするような笑顔で意味深な発言をされて、身体が強張る。
「お、お前と私の仲とは、どういう意味だ!?」
一瞬、何か感づかれているのかと焦ったが、どうやら違うらしい。
七糸は、やけに熱の入った声で、
「やだなあ。僕とラビィさんは、心の友と呼ぶに相応しい大親友じゃないですか! たとえ離れ離れになろうとも、万が一、敵同士になったとしても、僕らの友情は永遠ですよ! だから、安心して、契約破棄してください!」
「こ、心の友? 大親友?? どうも話が見えないのだが…」
いきなりの契約破棄の理由が、ラビィの怪我にあるというのは、わからないでもない。しかし、もう一つの理由は、どうしても理解できない。
「いつ、私とナイト殿が大親友ということになったのだ?」
そんなこと、一言も言っていないし、そういう仲だと誤解するような出来事もなかったはずなのだが――。
その理由を、七糸がキラキラした目で教えてくれる。
「クローラインを採りに言ったとき、コルカが、ラビィさんは僕のことが大好きだって教えてたんです。それってつまり、僕たちの間には熱い友情があるってことですよね?」
「ですよね、とか言われても…」
話が唐突すぎて、反応に困る。
コルカに説明を求めようとしたら、その姿がどこにも見当たらなかった。気配が近くにあるので、姿を消しているだけなのだろうが――よほど、合わせる顔がないと思っているのか、もしくは、反省しているのか。とにかく、旗色が悪くなったので、その身を隠しているようだ。
(……一体、何をどうしたら親友云々の話になるのかわからないが…)
とりあえず、いろいろと複雑な事情が絡み合っていることは確かだ。
返答に困っていると、七糸がちょっと不安げに口を開いた。
「…あの、ラビィさん? もしかして、迷惑ですか? 僕と友達になるの」
「え? い、いや、そういうわけではないが――…」
友人になれと命じられれば、そうなれるように努力はするが――たぶん、うまくはいかないだろう。
そもそも、意識している相手との間に、純粋な友情を育むことなんかできるはずがない。ただでさえ、ラビィは嘘をつくのが苦手なのだ。どんなに気持ちを隠そうとしても即座にバレるのがオチだろう。
七糸を、女性として扱うこと。それは、本人にとっては最も傷つくことだとわかっていても、あらゆる場面でそのようにしてしまうであろうことは容易に想像がついた。
(――…私は、どうすればいいのだろうか)
七糸の傍から離れることはできない。それは決定事項で、好意を伝えることは絶対にしないということも決めている。しかし、それ以外は白紙状態で、何一つ、決まっていない。
「…ナイト殿。私は、これまで通り、ナイト殿の騎士として仕えたいのだ。それではいけないのか? 友人になれと言われても、正直、難しいとしか言えない」
「――そう、ですか」
目に見えて、七糸の元気がなくなる。
それに罪悪感を覚えつつも、ラビィは続けた。
「…竜族において、主従契約は何にも勝る絆なのだ。友よりも家族よりも、その縁は深い。誰よりも何よりも大切で、生命を賭してでも守りたい相手。私にとって、ナイト殿はそういう存在なのだ」
「――…でも、それは仕事上の話でしょう」
七糸が、そっとラビィの肩に手を触れる。
「もう、立てますから、降ろしてください」
「あ、ああ」
言われるまま、彼を降ろす。
七糸は、そっと床に足をつけると、少し物憂げに睫毛を揺らした。
「…たぶん、僕の考える友達とラビィさんの考える友達は、根本的に意味が違うんです。僕にとっての友達は、家族と同じくらい大事で、それ以上大切な人はいないんです。そもそも、ラビィさんにとって僕が大事なのは、主従契約があるからでしょう? それがある以上――絶対に、永久に、ラビィさんと僕は、対等にはなれないんです。なれるはずがないんです。たとえば、何か言いたいことがあったとしても、僕にとって都合の悪いことなら、絶対に言わないでしょう? 自分が悩んでいても苦しんでいても、きっと、僕には何も言ってくれない。それって、僕を大事に思ってるからじゃなくて、単に、深く関わりたくないからなんですよ」
まるで、それこそが真理であるかのように、彼は言う。
その口ぶりから、何となく彼の人生観の片鱗が見えるような気がした。
(――…ナイト殿は、ずっと寂しかったのかもしれないな)
彼が誰にでも優しいのは、博愛主義者だからというよりも、ただ単に、垣根が存在しないだけなのかもしれない。誰が味方で、誰が敵か、とか。どこまでが友達で、どこからが赤の他人か、とか。
彼にとっては、自分の出会った人々、身近にいて、話しかけてくれる人たちのすべてが大事なのだろう。ただし、そこには、絆の深さなんてものは存在しない。ただ、自分の傍にいてくれる人たちを平等に愛し、求めているにすぎないのだから。
よって、どんなにメアが熱情や愛情をぶつけたところで、彼の特別にはなれない。いや、特別という単語そのものが、彼のなかには存在していないのかもしれない。
それを証明するかのように、彼は言う。
「……僕は、長い間、アルトと二人きりだったから――こうして誰かと一緒にいる時間そのものが幸せなんです。でも――ラビィさんが怪我をしたとき、このままじゃ駄目だって思った。僕との契約のせいで、ラビィさんが不幸になるなら、それは、間違ってるんじゃないかって。だから、契約を切ってほしいんです」
自分のせいで誰かが不幸になるのは、嫌だ。
その言い分は正しいかもしれないが、七糸は、最も大事なことを忘れている。
「――それは、随分と独りよがりな発想だな」
「……え?」
七糸が、不思議そうな顔でこちらを見つめる。
それに吐息を返し、ラビィは言った。
「お前は、一方的に私を不幸扱いしているが、それを決めるのは私であってお前ではない。もし、そう見えたのだとしても、真実はそうではないかもしれないとは考えないのか?」
「……でも、だって、どう考えても幸せだとは思えないですもん。ラビィさんのこれまでを見てると、不幸と不運以外の何ものでもないっていうか」
「――そ、それは、まあ、そうかもしれないが…。しかしだな、私は、お前と契約したことを後悔するどころか、むしろ、感謝しているくらいなのだぞ」
「…感謝、ですか?」
「ああ、そうだ」
「…メアに滅茶苦茶苛められたり、死にかけたり、家族と別れ別れになったのに?」
「――ろくでもない目にばかり遭ってきたのは確かだが、それでも、お前に仕えることを嫌だと思ったことはない」
「………本当に?」
じっと、真剣な目で訊かれて、ラビィは即答した。
「本当に、だ」
「……ふうん、ラビィさんって――やっぱり、Mな人…いや、竜なんですね」
「は? 何だ、Mとは?」
聞き慣れない言葉に、首を傾げる。
すると、七糸が困ったように小さく笑った。
「いえ、大したことじゃないので、気にしないでください。それで、どうして、僕に感謝してるなんて言うんですか? 普通、逆だと思いますけど」
「逆?」
「はい。メアもラビィさんも、アルトも、リシリーも。僕みたいなのと仲良くしてくれて、本当に感謝してるんです。だから、ラビィさんとの契約も切るべきだって思ったんです。これ以上、僕のせいでラビィさんが危険な目に遭うとか、考えただけで怖いんです。第一、契約なんかで、脅すみたいにして一緒にいるのは、正しくないことだから」
きゅっと眉を寄せて呟いた七糸の言葉から、ようやく察することができた。
彼が契約破棄を言い出した、本当の理由。おそらく、ラビィを騙すようにして契約を強要したことを密かに後悔していたのだろう。そこへラビィの大怪我が重なり、追い打ちをかけた。このままではいけない、と思ったに違いない。そして、彼なりに解決方法を考えた。それが、主従契約の破棄だ。
(…そうだな、ナイト殿ならば、そんなふうに考えてもおかしくはない)
彼は、優しすぎて、甘すぎる。だからこそ、気づかないのかもしれない。
「――なるほど。お前の言い分は理解した。だが、きっかけはどうあれ、契約したことは、結果的には正しかったと言える。少なくとも、私にとっては、お前との契約を切ること自体が苦痛なのだから」
「…苦痛って…どうしてですか? 自由になれるんですよ? 嬉しくないんですか?」
七糸からしてみれば、強制的に仲間に引き入れられただけでなく、ことあるごとにメアに絡まれ、いびられ、散々な目に遭っている可哀想な人にしか見えないのだろう。
(…当然ながら、メア様は今でも苦手というか、むしろ、天敵と呼べる存在なのは変わらないが)
それでも、七糸を守る同志だという点においては、心強い仲間といえる。
敵の敵は味方、というか。つまりは、物事も人も、片側だけではなく他の方向からも観察してみるべきなのだ。
「…ナイト殿。私の家は、代々騎士の家系なのだ。故に、私は、生まれたときから騎士になることを義務づけられて育てられた。その教育方針に従い、私は、いついかなるときも、誇り高き騎士として存在することに専念してきた。しかし、一つのことに専念すればするほど、それ以外が無価値に思えるようになってしまうということに、私自身、まるで気づかなかった。それこそ、暗示にでもかけられていたかのように」
何の疑いもなく、国のため、主のために命令に従うことだけがすべてだった。そこに自分の意思などは必要なくて、与えられた任務をこなす毎日が日常になっていた。そのために、七糸と契約してからというもの、やることが何もなくて不安ばかり募っていた。しかし、そのおかげで、命令がなくては何もできなくなっている自分に、初めて気づかされた。
「――ナイト殿は、騎士としての役目に固執する私に、考える余地を与えてくれた。そして、私は自分なりに考え、決意したのだ。何があろうとも、ナイト殿をお守りしようと。それは、義務以上に、私の意思が働いている。それがどういうことなのか、お前にはわからないのだろうな」
「…そうですね。そこは、世界観の違いというか――。たぶん、僕とこの世界の人たちとの一番の違いは、そこなんですよ」
七糸は言う。どこか、懐かしむような瞳で。
「――この世界に居場所がある人と、そうじゃない人の差っていうか…。僕は、この世界のことは好きだけど、死ぬまでここで生き続ける自分が想像できないんです。僕の本当の居場所は、ここじゃない。それなのに――こちらの世界のほうが、僕には合う。すごく、居心地がいいというか…気持ちが落ち着くんです。メアとも約束したし、僕自身、このままここにいたいって気持ちは強いんですけどね」
小さな声に、アルトが心配そうな目を向けて、足元にすり寄る。
その頭を撫でながら、彼は続ける。
表情を隠すように、うつむいたまま。
まるで、自分に言い聞かせるようにして。
「…僕は、いずれ、元の世界に帰ることになると思います。そうなったら、ラビィさんとの契約もなくなるわけだし――だったら、契約を切るかどうかという話よりも、その時期が早いか遅いかの問題でしかないでしょう?」
それならば、早めに契約を切ってラビィを自由にしたいのだ、というのが七糸の出した結論らしかった。
(…ナイト殿の言いたいことがわからないわけではない)
現実的に考えて、いつまで彼がこの世界にいるかわからないし、契約自体、うまく結べているかどうかすら怪しいのだ。傍にいて利点があるわけでもなく、今や、魔王と敵対するところまで来ている。いくら魔王の代替わりの際に起きる争いが避けられないとしても、世界を敵に回すような強引なやりかたはどうかと思う。もともと、誰かと争うこと自体、できることなら避けたいと思っているラビィである。誰かに命じられたわけでもないのに、好き好んで、戦場に足を踏み入れるような真似はしたくない。そんなことをするのは、戦争狂くらいのものだろう。
そう、以前の自分ならば考えていたはずだ。
しかし、今は違う。
守るべき人がいて。
それは、絶対に、失いたくない相手で。
自分に、その人を守るだけの力があるというのならば。
(――ただ、心のままに戦うだけだ)
七糸が何と言おうと、譲れないものがある。
それは、騎士道精神から外れたものかもしれない。メアが言うように、邪な感情なのかもしれない。それでも、彼を守りたいという気持ちに、揺らぎはない。迷いも逡巡も、とっくに消え失せている。
「……いずれ袂を分かつことになろうとも、それでも、私はお前を守りたいのだ」
ラビィは、そっと手を伸ばして、柔らかな髪に触れる。
一瞬、小さな頭が驚いたようにびくりと震えて、恐る恐る、七糸がこちらを見上げてくる。
レンズ越しに見える大きな瞳に映るのは、どういうわけか、ひどく思いつめた表情を浮かべたラビィ自身の姿。
真剣なラビィの様子に、七糸は眉をハの字にして小さく笑った。
「…本当に、どこまでも頑固なんですね、騎士っていうのは。そこまでして僕を守ったところで、何もいいことなんてないのに」
「…最初から、お前に見返りなど求めていない」
「だから、面倒なんですよ。純粋な人っていうのは」
そう言うと、七糸は自分の頭に置かれたラビィの手を取った。
「!」
細くて白い手は、ほのかに熱を持っている。
触れた部分から熱を移されたような気がして、一気に全身が熱くなる。
こういうとき、七糸が鈍感でよかったと思う。
彼以外の者ならば、絶対に何かを察したに違いない。
それくらい、露骨に意識してしまっている。
触れられた、手。
細い肩。
小柄な体躯。
眩しく感じられるほどに、愛らしい顔。
大きな瞳には、きらきらとした光すら感じられて。
(――…ああ、何て…)
何て、愛おしいのだろうか。
この温もりも、この瞳も。
失いたくない。手放したくない。
そのためにも、何としてでも守らなければ――。
その強い気持ちが伝わったのだろうか。
七糸が、きゅっと手を握り締めて言った。
「――…ありがとうございます、ラビィさん。すみません、何か変な話しちゃって。契約破棄のことは、もう忘れてください。ラビィさんが自分の意思でそうしたいって思ってくれるなら、それはそれで嬉しいですし」
「! あ、ああ。理解してもらえたのならば、問題はない。ただ、その」
じっと、握り締めてくる柔らかな手を見つめる。
「あ、すみません。ちょっと馴れ馴れしかったですね」
慌てて七糸が手を離す。
その手を少し名残惜しそうに眺めながら、ラビィが言う。
「い、いや。私のほうこそ、勝手に触れてすまなかった。その、許可もなく頭を撫でるなど…」
「え? ああ、いいですよ、別に。撫でられるの、嫌いじゃないんで」
「そうなのか?」
普通、他人に頭を撫でられるなんて、男ならば嫌がるものだと思うが。
すると、七糸はニッコリと笑い、
「何か、お兄ちゃんができたみたいで嬉しいです」
「…お、お兄ちゃん……」
何とも微妙な表現だ。
彼にまったく意識されていないのはわかっているが、兄扱いされるとそれはそれで傷ついてしまう。兄弟みたいだということは、完全に眼中にないですよ、と明言されたのと同じだから。
しかし、まあ――それはそれで、いいこともある。
七糸にとって男は恋愛対象外で、それ故に、飾らない素の状態の彼と接することができるのだから。
そう自分に言い聞かせていると、七糸が小さくあくびをした。
「ふわあ。安心したら、何か眠くなってきちゃいました。ラビィさん、僕、部屋に帰りますね」
言って、眠そうに目をこすりながら、歩き出す。
「あ、ああ。ならば、部屋まで送ろう」
また、得体の知れない敵に出食わさないとも限らない。
心配するラビィをちらりと一瞥して、七糸がポンと手を打つ。
「――…あ、そうだ。ラビィさん。言い忘れてたんですけど」
「ん、何だ?」
「もし、リシリーと結婚することになったら、一番に教えてくださいね。僕、頑張ってお祝いのブーケつくりますから!」
「!!!!!!」
満面の笑みで言われて、ラビィの表情がピキンと凍りついた。
「ち、違う! 私とリシリーはそういう仲ではない!」
急いで否定するが、彼のなかではリシリーとの交際は決定事項らしく、
「嫌だなあ、今さら、隠さなくってもいいですよ。大丈夫、誰が反対しても、僕とメアは応援してますから! 安心して幸せになってくださいね!」
ぐっと親指を立てて、ウインクしてきた。
その様は、実に愛らしいが――それだけに、焦燥感が半端ない。その様子だと、どう言ってもこちらの言い分を聞いてくれそうにない。しかし、だからといって、誤解を解く努力をやめるわけにはいかないわけで。
「応援などいらん! というか、本当に、何でもないのだ! おかしなことを言わないでくれ!」
思わず声を大きくするが、それすら七糸は微笑んでスルーする。
「またまた〜、照れちゃって」
「照れてなどいない! だいたい、結婚も何も、私には、すでにお前がいるではないか!」
言ってしまって、ラビィが青ざめる。
いつの間にか肩の辺りに移動していたコルカが、憂鬱そうな声で呟いた。
『…オイラだけじゃなく、兄貴も相当の迂闊者ッスよね…』
「――…本当にな…」
我ながら、とんでもないミスを犯してしまった。
恐る恐る七糸の様子を窺うと、彼は、ラビィのセリフを深読みすることなく素直に受け取ったようで、
「え? いやいや、いくら契約してるとはいっても、僕と恋人のリシリーとじゃ立場が全然違いますし、第一、男と比べられたら、さすがにリシリーもいい気はしないと思いますよ? 女の子はデリケートなんですから、言動には気をつけないと」
なんて、かなり真面目な顔で注意された。
「――…そ、そうだな…気をつけないとな…」
そう答えたものの、気分がずしりと重くなった。
何というか、ここまで相手にされないというのもかなり辛いものがある。ばっさりと袈裟斬りでも食らったような気分だ。
とはいえ、どうせ最初から気持ちを打ち明けるつもりはないのだから、これでいいのだろうが――とりあえず、リシリーといい仲だという誤解だけは解いておかなければ、どうにも落ち着かない。
ところが、すっかり身内の恋愛話に浮かれている七糸はあれこれと想像して、何だか楽しそうだ。これでは、何を言ってもノロケや照れ隠しとしか受け取ってもらえそうにない。
(……まったく、面倒なことだ…)
不本意な展開だというのに、七糸の笑顔を見ているうちに、彼が幸せならそれでいいような気がしてくるから、質が悪い。
『……本当に、兄貴は苦労性ッスよねえ』
コルカが同情たっぷりに囁くと、ラビィは肩をすくめ、
「――だが、これはこれで幸せだと思えるのだから、仕方ないだろう」
そう言って、小さく笑った。
その能天気な様子に、精霊は、呆れたような溜息を漏らした。
《 第四話・完 》




