第四話・其の七
《 第四話・其の七 》
――暗い、暗い、廊下を歩く。
電気もなければ太陽も月もない世界で、頼れるのは、魔法の光と、光を放つ不思議な生物たちだけ。
七糸は、薄手のマントを肩に引っかけて、魔法の光を閉じ込めている携帯用ランプを片手に廊下を歩いていた。
今の時刻は、おそらく、真夜中。
しんと静まり返った屋敷は、ひたすら不気味で恐ろしい。
それでも――七糸は、歩く。幸い、アルトが夜の散歩気分でついてきてくれているので、ちょっとは心強い。
くうん、とアルトが小さく鳴いてこちらを見上げてくる。
どこに行くのか、と問われているような気がして、七糸は小声で答えた。
「…ちょっと、ラビィさんに大事な話があってね。夜遅くじゃないと、メアがくっついてきちゃいそうだからさ。それにしても、アルトが一緒に来てくれて助かったよ。僕一人じゃ、怖くって引き返してたかもしれないもん」
立ちどまって頭を撫でてやると、どこか誇らしげな顔つきで一生懸命に尻尾を振る。
「……本当に、ありがとう、アルト。いつも助けられてばっかりだね」
魔界でも人間界でも、いつだって心細いときに一緒にいてくれるのは、アルトだった。
感謝をこめて、いつもより多めに撫でてから、再び歩き始める。
暗い廊下を、いつもよりも時間をかけて歩く。
光を浴びて現れた自分の黒い影や、周囲を取り囲む深い闇が何とも恐ろしい。
内心ビクつきながら――それでも、アルトの軽快な足取りに助けられながら歩いていくと、ふと、廊下で見慣れない人影を見つけた。
「――? 誰だろう?」
メイド服を着た女性が立っている。
サラサラの黒髪は、これまで見た誰よりも日本人らしくて美しい。
彼女は、こちらに気づくと深々とお辞儀をした。
「あ、どうも」
七糸が反射的に会釈すると、彼女はゆっくりとした動作で近づいてきた。
「…こんばんは、ナイト様。こんなお時間に、どうなさったのですか?」
丁寧な口調、綺麗な発音、優しい声音。穏やかな笑み。
いかにも、上級メイドらしい所作に、思わず感心してしまう。
リシリーも上級メイドらしいが、彼女とは雰囲気が正反対だ。
あちらが動なら、こちらは静。静謐とした空気を身に纏い、目を離した隙に暗闇に紛れ込んでしまいそうな雰囲気が少しだけ不気味ではあるが――…彼女の瞳は、とても澄んでいた。その色は、懐かしい故郷の青空に似ている。
「あの、すみません。僕、ちょっとラビィさんに用事があって――あ、でも、外には出ないので、メアには内緒にしておいてもらえますか?」
七糸のお願いに、彼女はすんなりと頷いた。
「…はい、そういうことでしたら――ですが、ナイト様? 今、お部屋にいかれても、ラヴィアス様はいらっしゃいませんよ?」
「え? 何でですか?」
普通なら、寝ている時間だと思うが――。
不思議そうな七糸に微笑み、彼女は困ったように言う。
「…それが、『寝過ぎて、身体が逆に疲れた。気分転換に外の空気を吸ってくる』とおっしゃって、今しがた出て行かれたのです」
「そうなの? 外って、森のほうかな? それとも、湖?」
「さあ、それは存じませんが――すぐに戻ってくるとおっしゃっておられましたから、少しお時間を潰されてはいかがでしょう?」
「…うーん、そうだね。こんな時間に外をうろつくのも怖いし、メアに怒られそうだもんね」
「ならば、食堂にいらっしゃいませんか? 温かな飲み物をご用意いたしますから」
「あ、うん。でも――迷惑じゃないかな?」
おそらく、彼女も何かしらの仕事をしているのだろう。余計な用事を増やすようで申し訳なく思っていると、彼女は微笑んだまま答えた。
「いいえ、むしろ、大歓迎ですわ。私、ナイト様に一度ご挨拶をしなければと思っていましたもの」
「そうなの? っていうか、そうだよね。初対面なんだし、まずは自己紹介しなきゃ。僕は、川原七糸です。よろしくお願いします」
深々と頭を下げた拍子に、アルトの姿が目に入った。
尻尾を丸めて、唸り声を出したいのに声が出ない。そんな怯えた様子が気になったが――彼女が口を開いたので、すぐにそちらに意識を戻す。
「…ご丁寧に、痛み入ります。私の名は、ララリックと申します。以後、お見知り置きを」
「いえ、こちらこそ、ご丁寧にどうも」
ララリックは、すっと七糸の手から携帯用のランプを受け取り、楚々とした所作で食堂へと向かう。それについて行きながら、ふと、疑問がよぎった。
「あの、ララリックさんってメイドさん、なんですよね?」
それにしては、やけに足が速い。
普通、メイドが誰かを案内して歩くときは、その相手の歩調に合わせるものだ。しかし、ララリックは七糸が小走りにならなければついていけない速さで歩く。
ちょっと呼吸を荒くしながら問う七糸に、彼女は少し歩を緩めながら言った。
「…そうですね、一応、今はメイドということになりますね」
「? 今は?」
「ええ、私は、ときにメイドであったり、貴族の令嬢であったり、騎士であったり、動物であったり――とにかく、慌ただしく変化するものですから、ときどき、わからなくなってしまうのです。自分が、何者であるのか。何故、ここにいるのかすら――」
「…うーん、こっちの世界の人についてはよくわからないから、僕には何とも言えないけど……でも、大丈夫だよ」
「…大丈夫、ですか?」
「うん。だって、ここの人たちはみんないい人だし、メアやルーベクさんは博識だから、きっといろいろ教えてくれるよ」
「――…そうでしょうか?」
「うん、そうだよ。頼みにくいのなら、僕が頼もうか?」
「…いえ、そこまでしていただくには及びません。ですが、ナイト様。一つだけ、よろしいでしょうか?」
ララリックが、じっとこちらを見つめる。
「? うん、いいけど――何?」
澄んだ瞳が、七糸の姿を捉えて離さない。
「…な、何? そんなにじっと僕を見て」
黙り込んだまま、ララリックがこちらを見つめている。
注がれる真摯な視線は、どこか羨望にも似ていて――少し、物悲しい。
重苦しい沈黙に耐えかねたように、七糸が再び口を開こうとしたとき、彼女は消え入りそうなほど小さな声で言った。
「……貴方様のお身体を、私に譲っていただけませんか?」
「え――」
一瞬、空気が冷えたような気がした。
身体を、譲る?
どういう意味なのか、考える間もなく、ララリックの手が七糸の頬に触れようとした瞬間、ごうっと火柱が上がった。高めの天井を焦がしそうな勢いに驚き、息を呑む。
「っっ」
叩きつけるような熱風と火の粉に思わず腕で顔を庇うが、それらが七糸の身を危険にさらすことはなかった。不思議なことに、七糸の周囲にだけ見えない壁でもあるかのように避けていくのだ。
「ラ、ララリックさんっっ!!」
燃え上がった炎が、ララリックの細い身体を呑み込んだ。彼女の白い手から、携帯ランプが落ちる。金属でできたランプ本体はドロリと溶けて、魔法の光だけがむき出しのまま床の上に転がり、冷たい光を放っている。
炎は、十秒としないうちに消えたが――どういうわけか、焼け焦げた絨毯の上には、炎に呑まれたはずのメイドの姿は見当たらなかった。
「え、え、え?? な、何で??」
先ほどのメイドは、幽霊だったのだろうか? そう疑いたくなるくらいに、何の痕跡も残さず彼女は消えてしまった。
わけもわからず、ぺたんと廊下に座り込む。
アルトが、安心させるように不安げな七糸の手をペロペロと舐めた。
「……よ、よくわかんないけど………た、助かった、のかな?」
どきどきしながら、アルトの頭を撫でる。
その手が笑えるくらいに震えていたのは――…怖いと感じたからだ。
きっと、あのままだったら、本当に危険だった。そう、直感したからこそ、恐怖のあまり、震えがとまらないのだ。
飼い主の不安を感じたのだろうか。アルトが、心配そうに七糸を見上げ、ふと、耳をそばだてる。何やら異変を察知したようだ。
「こ、今度は何っ!?」
アルトの表情が険しくなり、暗い廊下の奥に向かって唸り声をあげる。
「え、ちょっ、ちょっと、やめてよ! 何? 誰かいるの??」
はっきりいって、今の状況は笑えない。
すっかり腰が抜けてしまって、這うことも難しい状態なのだ。
とりあえず、いざというときはアルトだけでも逃がさなければと思っていたら――やってきたのは、よく知る人物だった。
「――ラ、ラビィさんっっ!?」




