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第四話・其の六

      《 第四話・其の六 》



 何もせずに、ただ、漫然とベッドに寝転んで時間を費やす、というのは、どうにも落ち着かない。常に何かをしていないと不安だというわけではないのだが、呑気に休養していい状況ではないだけに、ろくに身動きできない自分が歯がゆくて仕方がない。

(…ナイト殿にはコルカもメア様もついているのだから、心配するだけ無駄かもしれんが)

 それでも、気になる。ついつい、考えてしまう。

 今、どこで何をしているのか。

 どんな表情で、何を考えて過ごしているのか。

 危険な目に遭っていないか、怪我とかしていないか。

(……だ、駄目だ…何かしていないと、ナイト殿のことばかり考えてしまう!)

 あれこれ考えたところで無駄だとわかっている。

 いや、そもそも、個人的な感情を理由に職務放棄をしていた身で、今さら守りたいとか、心配しているとか、そういう言葉を軽々しく口にはできない。

(…と、とにかく、ナイト殿に会ったら、職務放棄の謝罪をしなくては!)

 そう、それが最優先だ。

 そして、あの手紙の返事も忘れてはいけない。

(……し、しかし、いきなり面と向かって言うのは、何というかこう――…気まずいというか、妙に緊張するというか。そもそも、最初に何と声をかければいいのか)

 とりあえず、頭のなかで練習してみよう。

 まずは、七糸と顔を合わせてすぐ――。

(い、いきなり謝るよりは、まずは挨拶から始めるべきだろうな)

 そう、挨拶は大事だ。コミュニケーションを図るうえで重要かつ基本的な項目であり、欠かすことができない最低限の礼儀だ。

 朝なら、おはよう。昼なら、こんにちは。夜なら、こんばんは…。

(――って、ちょっと待て。これまで、まともにナイト殿と挨拶を交わしていないような気が…)

 半ば強引に契約させられて、若干、面白くなかったというのもあるが――それでも、自分なりに礼儀を尽くしてきたつもりだった。しかし……今、考えてみると、コミュニケーションの第一歩である挨拶をした記憶が、ほとんどない。七糸は、会えばあれこれ話しかけてくれて、挨拶も欠かしたことがないというのに。

(な、何てことだ! 私としたことが、とんだ無礼を!)

 しかし、七糸の顔を見ると、挨拶よりも他のことが気になって、それどころではなくなるのだ。

 たとえば、メアが七糸の後ろで薄ら笑いを浮かべていたり。

 アルトが敵意剥き出しで唸ってきたり。

 挨拶を返す間もなく、七糸が話しかけてきたり。

(…い、いや、そうではないな。これは、私の騎士としての在りかたの問題だ)

 状況や個人的事情はどうあれ、礼儀を欠いていた事実は変わらない。まずは、そこから反省すべきだろう。

(…とりあえず、まずは挨拶をして、度重なる無礼を謝罪し、それから、それから…)

 そこから先が思いつかない。

 もちろん、これまで通り七糸との主従契約に従い、彼を守ることは当然だとしても、それから先はどうすればいいのだろうか。

 七糸が今、どういう状況で、どんな立場にいるのか。

 まずは、その辺りの事情をメアに話を聞いてから考えることになるだろうが、もしも、メアが素直に話してくれなかった場合のことも視野にいれておかなければならないだろう。

(…守ると言っても、敵の正体がわからない限り、手の打ちようがないからな)

 情報収集の得意なクロノアやルーベクが動いているとはいえ、それだけでは不充分だ。

 情報自体が得られない可能性もある敵を相手に手をこまねいていては、今度こそ生命を奪われかねない事態に繋がる。どんな些細な情報でも積極的に収集しなくては。

(…待てよ、情報なら一つだけあるな)

 ラビィを傷つけることが可能な殺傷能力の高い武器や魔法を持つ者は、この屋敷内にはいないということ。

(――…ということは、犯人は第三者、もしくは、精霊の類ということになるが…)

 第三者が侵入していれば、メアやクロノア、ルーベクが必ず気づく。となると、残るは精霊の可能性だが――これもまた、考えにくい。精霊は、実体がないため、結界内に入ったとしても気配は微弱で察知されにくいのは確かだが、侵入したとしてもそんな暗殺めいた真似をするとは思えない。

 何故ならば、精霊は殺戮を行わないからだ。契約者が精霊魔法を使って他者を殺すことがあったとしても、その事柄に精霊は直接関与しない。例外として、危機に瀕した契約主を守るために魔法を行使することもあるが、殺したりはしない。自らの手で殺生を行うことを本能的に回避するのだ。よって、今回の場合には当て嵌まらない。

 ラビィは一方的に攻撃されたのであって、契約精霊を交わしている誰かを傷つけたわけではないからだ。

(…敵の正体がわからない以上、ナイト殿の身辺には、特に気を配らなければ)

 そう、とにもかくにも、七糸の身が安全であること。それ以上に明確な目的はない。

 そのためにも、早く怪我を治さなくては…。

 そんなことを考えていると、ふと、ドアがノックされた。

 コンコン、という軽快な音と共に、聞き慣れた声が聞こえてくる。

「失礼します、ラヴィアス様。ちょっと、お時間、よろしいでしょうか?」

「…ああ、リシリーか。構わない、入れ」

 許可すると、静かにドアが開いて、見慣れたメイド姿の少女が現れる。

 メイドといっても、彼女のドレスにはエプロンはついていない。メイドのなかにも身分というものがあり、上級メイドである彼女は、掃除や洗濯といった下級メイドの行うような作業は行わず、メイド長であるクロノアの指示に従い、主人や貴族の客人の身の回りの世話を行うのが、主な任務である。つまり、メイドというよりは、護衛役の一人、といったほうが近いだろうか。クロノアが回復魔法に長けているように、リシリーもまた、魔法の扱いに長けている。もっとも、彼女は回復魔法の類は一切扱えず、攻撃魔法一辺倒なところが、物騒な髪喰い一族の血筋を感じさせる。とはいえ、彼女の魔法は特殊で、ある条件下でしか発動しないので、使いどころが難しい。一言で言えば、火事場の馬鹿力。自分の生命が危険に晒されなければ発動しないというよくわからない条件の下で精霊と契約を結んでいるらしく、ラビィ自身、彼女が魔法を使うところを見たことがなかった。

 リシリーは、銀に輝くトレーの上に陶器のコップを乗せて、ベッドに近づいてくる。

「クロノア様特製の薬草ジュースですわ。これを飲んで、少し、私の話を聞いていただけませんか?」

「あ、ああ。別に構わないが」

 痛みをこらえつつ、上半身を起こす。それだけで、かなりの気力を要した。ゆっくりと手を伸ばしてジュースの入った容器を手に取ると、ひんやりとした感触が手のひらに伝わってきた。

「………ちなみに、コレには何が入っているのだ?」

 コップのなかには、一言では言い表せないような色の液体がなみなみと注がれていた。

 青とも緑とも紫ともつかない、不気味な色彩。匂いがないのがまた、恐ろしい。嗅覚が働かないということは、危険かどうかの判断基準の一つを奪われるのと同じことだ。ちなみに、視覚的には、すでにアウト。これは、体内に取り込むべきモノではない。だが、クロノアがラビィの怪我を治すためにつくったとあれば、飲まないわけにはいかない。

 しかし――口をつけるだけの勇気がどうしても湧いてこないのは、本能的に危険を察知したからとも考えられる。

 念のため、内容物について訊いたラビィに、リシリーはにっこりと微笑んだ。

「…大丈夫ですわ。竜族は、頑丈なのが売りなのでしょう?」

「――何故、薬を飲むのに頑丈かどうか確認する必要があるのだ?」

「あらそれは――…お聞きにならないほうが身のためだと思いますわ。うふふ」

「………」

 怪しい。リシリーがにこにこと笑い、これ以上は訊くなと言う。つまりは、言えないようなモノが入っているということだ。

「……毒物の類が入っているということはないだろうな?」

 一応、確認する。

 竜族といえど、体内まで頑丈にはできていないのだ。毒を飲めば、当然、死ぬかもしれない。とはいえ、リシリーやメアに比べれば、耐毒性が高いのも事実だが。

 その問いかけに、リシリーは心外だとばかりに頬を膨らませてみせた。

「あら、そんなことをお疑いになるだなんて――ひどいですわ。我々メイドを敵に回すおつもりですか?」

「! い、いや、すまない。そういうつもりではないのだ。ただ、何が入っているのか想像もつかない色をしているもので、つい」

 慌てて言い訳をするラビィに、リシリーは頬を膨らませたままで反論した。

「…上級メイドである私が、危険なものを飲ませるわけがないじゃないですか。もちろん、私以外のメイドたちも、そんなことは絶対にしません。今や、ラヴィアス様は、我々メイドのアイドル的存在。目の保養、笑いの種、ストレス過多なメイド生活に欠かせない、一服の清涼剤なのです。それを失えば、メイド一同、悲嘆に暮れて仕事どころではありませんわ」

「…今、笑いの種とか聞こえた気がするのだが」

「気のせいですわ。それよりも、ラヴィアス様。それを早く飲んで、私の話を聞いてください。でないと、時間がなくなってしまいますわ」

「時間? 早く飲まないと困るような薬なのか?」

 確かに、時間経過に伴い劣化したりする飲み薬というものは存在する。

「はい、急がないと大変なことになってしまいます!」

「そ、そうなのか? よくわからないが――わかった」

 急かされるまま、得体の知れない液体をぐいっと一気飲みする。

 どろりと喉に張りつきそうな不気味なとろみといい、不味そうに見えて、これまた無味なところが不安を煽る。

 しかし、どうにか根性で飲み干して、コップをリシリーに渡す。

「の、飲んだぞ。これでいいのか?」

「はい。それで結構ですわ――…ご気分はいかがです?」

「気分? 別に、何ともないが」

「…そうですか。やはり、竜族には効き目が弱いのかしら」

 ぽつりと呟く声に、ラビィが訝しげな視線を送る。

「……待て、どういう意味だ」

「どういうも何も――…こういうことですわ」

 にこりと微笑み、リシリーの細い手が伸びてくる。

 迷うことなく、一直線に。

 ラビィの首めがけて。

「っっ」

 咄嗟に、その手をつかんで――違和感に気づく。

(…な、何だっ!?)

 身体が痺れて、動きが鈍い。指先からは感覚が失われて、リシリーの腕をつかんでいるはずなのに、その実感がない。

「――っ」

 強烈な痺れは脱力感に変わり、リシリーの手首をつかんでいた手が解ける。それを機に、あっという間に首をつかまれた状態でベッドに押し倒されてしまった。

「っっ、や、めろっ」

 途切れ途切れに訴える。いくら竜族の皮膚が硬いとはいえ、リシリーの力は、女のそれではなかった。もしかすると、キルトバと同等の握力があるのではなかろうか。呼吸を妨げるのに充分な力と殺意があった。

 リシリーは、馬乗りになって首を絞めつつ、こちらを見下ろしている。

「――…ラヴィアス様が悪いんですよ。あのまま死んでくれたら、こんな真似をしなくてもすんだのに」

 無表情に呟く彼女を苦しげに見上げた瞬間、ラビィは気づいた。

「――…リシリー、では、ない、な? 何者、だ?」

 見た目は完全に彼女で、声も口調も放つ気配もすべてがよく見知ったリシリーのものだ。そこに疑いの余地はない。それ故に、すんなりと彼女の言葉を信じて薬を飲んでしまったが――改めて見てみると、澄んだスミレ色の瞳の奥がどろりと濁っているのがわかる。

 リシリーは、ラビィの言葉に驚いたように目を見張り――…うっとりとするような微笑みを浮かべた。

「……さすがは、ラヴィアス様。魔力の高さと竜族の血は伊達ではありませんね。ええ、そうですとも。私は、この子の身体を借りているだけ。ただ、この子、思ったよりも精神力が強いらしくて、なかなか服従してくれないの。だから、時間がないと言ったのよ」

 言って、すっと首から手を外して、責めるようにラビィを見下ろす。

「――ねえ、貴方は、あの子が何者か知っていて守ろうというの? 川原七糸。あれは、災厄そのもの。この世界を滅ぼす存在。早く、消してしまわなければ大変なことになってしまうわ」

「……私は、ナイト殿の騎士だ。何があろうとも、あの方をお守りするのが私の役目だ」

 ラビィが呼吸を整えて言うと、彼女は嘲笑うように鼻を鳴らした。

「ふん、無知の民の言いそうなことね。でも、いずれ、思い知ることになるでしょう。いいえ、もしかすると、守ると誓った貴方自身の手であの子を殺すことになるかもしれないわね。それはそれで一興なのだけれど――これ以上、メアに邪魔されると面倒だもの。私まで殺されてしまったら、それこそ、世界の終わりだわ」

「……何?」

 まるで、以前にメアが誰かを殺したかのような口ぶりに――ふと、脳裏に閃くものがあった。どこかで、似たような話を聞いた気がする。

(…いつだったか――…ああ、そうだ。あのときだ)

 奇妙な夢で会った、七糸そっくりな、謎の人物。

 彼は、自分はメアに殺されたというような話をしていた記憶がある。

 そういえば、今の状況はどこかあのときと似ている。ただ、あちらは姿を模して現れ、こちらはリシリーに取り憑いているという違いはあるが…。

「…もしかして、お前がララリックなのか?」

 思いついた単語を声に変換する。

 ラビィの指摘に、彼女はぎくりと怯えたように肩を揺らした。

 先ほどまでの余裕ぶった表情とは一転して、青ざめた顔でこちらを見つめてくる。

「――…どこで、その名を。駄目よ、その名を口にしては。だって、呼んだら、呼んでしまったら、私は消えて…」

 呟きは途中で掻き消えて、ふっとリシリーの瞳にいつもの輝きが戻る。澄んだスミレ色の瞳。きらきらとした、迷惑なほど乙女チックな視線が、ぼんやりとこちらに注がれる。

「………あ、あれ? ラ、ラヴィアス様? そんなところで一体何をなさって…って、ここは一体?」

 事態が呑み込めず、ラビィに馬乗りになったまま首を傾げてているリシリーは、いつもの彼女だ。

「とりあえず、私の上からどいてくれないか」

 その言葉に、リシリーがはっとする。そして、ようやく自分の置かれた立場を理解した様子で、

「! まあ、嫌ですわ、ラヴィアス様! いくら何でも昼間から、そんな大胆な」

 何を勘違いしたのか、ぽっと頬を赤らめ、腰をくねらせた。

「…いいから、早くどいてくれ」

 重いとまでは言わないが、この状況を誰かに見られたら、また変な噂を立てられてしまう。いや、リシリー自身が尾ひれをつけて言いふらしそうな気もしないではないが――そこは、彼女の良識を信じたい。

 しかし、その肝心のメイド娘は迷惑なことにめくるめく妄想の世界に浸っている。

 赤らんだ頬に手を添え、

「ああ、何ということでしょう! まさか、こんなにも早く、玉の輿に乗る夢が叶うだなんて! 早速、一族のみんなに報告しなくちゃ。ああ、でも、この程度で浮かれていては駄目よね。結婚してからが大事だって言うし、愛想を尽かされて離縁でもされたら、それこそ終わりだもの。そうならないためにも、まずは、子づくりから始めるべきかしらね。子供がいれば、そうそう別れられないはずだし、遺産相続の点でも有利だし、それに」

「――…どこまでも欲の塊だな」

 どうやら、彼女の頭のなかには金銭的な富しか存在していないらしい。そこに愛情だの思いやりなどは欠片もなく、とにかく、貴族になること自体にこだわりがあるようだ。

「…何故、そこまで玉の輿にこだわる必要がある? お前は上級メイドなのだから、どちらかといえば裕福なほうだろうに」

 メイドの給料については詳しくないが、それなりの報酬は受け取っているはずだ。メアは人間性にこそ問題があるが、金銭に関してはあまりこだわりがない。払い渋るようなセコイ真似はしないはずだ。

 ところが、リシリーは言う。わかってないな、という顔つきで。

「経済的な富は、いくらあっても足りないんですよ。考えてもみてください。お金がありすぎて困る、なんて話は聞きませんけど、貧乏で死にそうだって話はよく耳にするでしょう? 名誉や権利も、それと同じ。あって困ることはないけれど、なくて困ることは多々あるということですわ」

「――いや、だからといって、好きでもない相手と共に暮らしたがる気持ちが、私には理解できないのだが」

「……確かに、好意があるかどうかの問題もあります。いくら金と権力を持っていようと、脂ぎったヒヒ親父やひしゃげたカエルのような不細工には興味がありませんもの。その点、ラヴィアス様は合格ですわ! 他の貴族の男どものように女を軽視しませんし、雑な扱いもしません。背が高くて、顔立ちは――まあ、少々、雄々しさが足りませんけれど、充分に整ってますしね。ただ、性格上、出世を逃しそうな恐れがあるというのが難点でしょうか。ああ、でも、安心なさってください。その点は、私がうまくフォローして差し上げますから、天下を取ることも夢ではありません! そうとなれば、魔王様討伐の前に、まずは我が国の制圧から始めてみてはいかがでしょうか?」

「……メイドは雇い主に似るというのは、本当だな」

 主従関係は、そのまま、人間性にも反映する。主が非道ならば、従者もいつしかその非道に慣れて実行するようになる、という話を聞いたことがある。

 それと同じで、リシリーの思考は、まんまメアそのものだ。

「魔王の座は、ナイト様とメア様のものと決まっていますから、それはもう仕方ないとして――実際問題、国一つ取ることくらい、ラヴィアス様の御力で何とかなりません? 私、一度でいいから、王妃様の頭を飾る宝石だらけのティアラを被ってみたいんです」

「無茶を言うな。というか、リシリー。玉の輿云々の問題の前に、私にはその気がないと何度も言っているだろうが」

 何とか身体の上に乗っている彼女を引き剥がしたいが、薬のせいで動けない。

 それを知らないらしい彼女は、薄く微笑み、しなだれるようにして顔を近づけてくる。

「うふふ、そんな心にもないことをおっしゃらなくても構いませんよ。いい加減、素直になってくださいな、ラヴィアス様。ここは正直に、お前が好きだと言うべきところですよ?」

「だ、だから、何故、そんな話になるのだ!?」

 動かない身体が、もどかしい。

 しかし、そうこうしているうちに、リシリーが覆い被さってきて、ほんのりと甘い砂糖菓子のような匂いが鼻を掠めた。

「ひ、ひいっ」

 すりっと猫のように頬ずりされて、鳥肌が立つ。

「…ちょっと、ラヴィアス様。女の子に密着されただけで情けない声を出さないでください。こっちの気が萎えるじゃありませんか」

 むっとした声で言われても、状況が状況だ。世間体だの礼儀だのにこだわっている場合ではない。

「と、とにかく、早くどいてくれ! 今、私は、薬で痺れて動けないのだ!」

「――は? 薬?」

 リシリーは首を傾げて、ようやく、ラビィの異常に気づいた。

「あら、よく見れば、確かに、身体に力が入ってないみたいですね。一体、何を飲まれたのですか?」

 腕や肩の辺りを擦りなら訊かれて、ラビィは吐息した。この調子では、操られていたときの記憶は残っていないらしい。

「…わからない。今のところ痺れて力が入らないだけだが――リシリー。お前、ここ数時間の記憶はあるか?」

「記憶、ですか? そうですね…私がはっきり覚えているのは、メア様のご命令で取り寄せた生地をナイト様にお届けしたことでしょうか。そのあと、メア様とご一緒に湖にお出かけになるとおっしゃって、二人仲良く出て行かれたのは、しっかり覚えています。ただ、それから――…何か、とても恐ろしいものを見たような気がしますけれど……よく思い出せません」

 無意識だろうか。リシリーの声は、かすかに震えていた。

「…ラヴィアス様、一体、私の身に何が起きたのでしょうか? 記憶が飛ぶだなんて、初めてのことで――…」

「…私にも、よくわからない。だが、お前に何かよくないものが取り憑いていたのは、確かだ」

 その言葉に、リシリーが青ざめる。

「とっ、取り憑くだなんて! そんな、恐ろしいことがあるのですかっ!? まるで、子供の頃に聞いた怖い御伽噺おとぎばなし、いえ、悪夢のような話ですわ!」

「ああ。本当に、ただの迷信や夢物語ならよかったのだがな」

 この世界には、精霊でもないのに、生まれたときから実体を持たず、他者の身体に寄生するようにして成長する悪鬼と呼ばれる者たちがいる。しかし、それは、言うことをきかない子供を叱るためにつくられた、架空のキャラクターにすぎない。

 親の言いつけを守らなかったり、夜更かしをした子供に、「悪いことをすると悪鬼に取り憑かれるぞ」などと脅したりする。

 もちろん、それは、ただの子供騙しだ。実際に、そんなものが存在するだなんて、この世界の誰も思っていないし、信じる価値すらないと笑うだろう。

 何故といって、誰も見たことがないし、歴史にも語られてこなかったからだ。しかし、だからといって、それが実在し、何かしらの理由で闇に葬られたとも限らない。

「……もしかして、ラヴィアス様に薬を飲ませたのは、私ですか?」

 囁くように発せられた小さな声に、ラビィはどう答えるべきか考えて――そのわずかな沈黙が、リシリーに真実を伝えていた。

「…そうですか。それならば、私は私のやるべきことをしなければいけませんね」

 言いながら身体を起こし、リシリーがベッドから降りる。

「どうする気だ?」

 短い問いかけに、細い背中が振り返らずに答えた。

「…薬をつくったのが私なら、その証拠がどこかに残っているはずです。何を材料にしたのかさえわかれば、解毒剤をつくることができます」

「――そうか…」

 リシリーは、きゅっと握りこぶしをつくった。力を入れすぎて、その指先は白くなっていた。

「…申し訳ありません、ラヴィアス様。記憶にないとはいえ、毒を盛るなど――極刑に処されても仕方がない重罪です」

「き、極刑って。お前は何も悪くはないだろう。ただ、操られていただけなのだから」

「――それでも、許されないことがあります。理由が何であれ、貴人の生命を奪うことは、自らの魂を捧げても償えない罪なのです。もっとも、ラヴィアス様のような騎士であれば、話は別かもしれませんが」

 彼女は、肩越しに振り返って、儚く微笑んだ。

「――私は、メイドです。人を助けることを仕事としながら、他者を傷つけたとあっては、メイド失格。その時点で、私に価値などなくなってしまうのですわ」

「――…リシリー」

 思わず、黙り込んでしまう。

 ラビィに騎士道精神があるように、彼女にもまた、熱いメイド魂があるのだ。絶対に譲れない一線、守るべきルールが。

「…ラヴィアス様。今回の件に関しては、私のほうからメイド長とメア様にご報告します。どんな罰も甘んじて受ける覚悟ですから――どんな結果になろうとも、ラヴィアス様は、お気になさらないでくださいね」

 そう言って、彼女は歩き出した。その毅然とした後ろ姿に、ラビィが声をかける。

「――報告する必要はないだろう、リシリー。お前が操られていることに気付けなかった私のほうに罪があるのだから」

「…いえ、操られた私に問題があるのです。つけいられるような隙があった、ということに他ならないのですから」

 上級メイドである彼女にとって、それはプライドをいたく傷つける事実らしい。

 ぴりりと空気に緊張が走り、それを和らげるようにラビィが口を開く。

「それでも、私のほうが悪い。嫌な予感がしたのに、それを飲んでしまったのだからな。もし、何か償わなければ気がすまないというのならば、早めに解毒剤をつくってくれると助かる」

「………本当に、どこまでも甘いですね。出世しませんよ、それでは」

 でも、と、彼女は付け加える。

「…そういう男を成功に導くことこそ、女の喜びと言えるかもしれませんね」

 言って、ドアに手をかけようとして――彼女は、一瞬、躊躇った。

「…あれ? ドアが開いてますね」

「え」

 ドアが開いている?

 リシリーが入ってきたときに閉め忘れたのだろうか。

 いや、記憶によれば、彼女はきちんと閉めていた。当然だ。何者かに操られていたとはいえ、殺人を行おうとしていたのだから、ドアを開けたままにはしないだろう。

 ということは、つまり、どういうことなのか――。

(…ま、まさか…)

 何とも、嫌な予感がする。

 すると、案の定、嫌な気配が部屋へと押し入ってきた。

「…あら、ごめんなさい。真昼の情事の邪魔をしてはいけないと思って、入るのを躊躇っていたのだけれど――…随分と大胆なことをするのねえ、駄竜? 怪我人のくせに、ベッドに女を連れ込み、鍵もかけずに不埒な行為に及ぶだなんて。少々、羽目を外し過ぎなのではなくて?」

 嫌味を言いつつ入ってきたのは、メアだ。にやにやと、意地悪な笑みが張りついている。

(……よりにもよって、一番面倒な相手に見られたな…)

 誤解とはいえ、厄介なことになった。

 彼女の口ぶりからすると、おそらく、リシリーがラビィに馬乗りになっていた状態を目撃していたのだろう。地獄耳のメアのことだから、二人の話を聞いていた可能性もあるが――あえて、そこをスルーしてくるあたり、心底、意地が悪いと思う。

「メ、メア様。あれは、違うんです。実は」

 さすがに事情が事情なので、誤解を解こうとしたリシリーをメアが制する。

「リシリー。貴女にはやるべきことがあるのではなくて?」

「! は、はい。ですが、その」

「いいから、行きなさい。急ぐのでしょう?」

 その声に、リシリーははっとして、頭を下げて部屋を出て行った。

「……メア様、いつから覗いていたのだ? 悪趣味にもほどがあるぞ」

 ラビィの声に、メアがにやりとした。

「悪趣味だなんて、ひどい言い草だこと。好きで目撃したわけではないというのに。むしろ、あんなところを見せられたこちらのほうが被害者だと思うわ。そうは思いませんこと、ナイト様?」

 ナイト、という響きに、どきりとする。

「ま、まさか、ナイト殿も来ているのか!?」

 身体が動かないので、どうにか視線だけでドアのほうを窺う。

 すると、ドアの影から小さな人影が現れた。

 それは、ラビィの視線を受けて、一度、ドアに隠れたが、もじもじしながら顔を覗かせた。

「ご、ごめんなさい。覗く気はなかったんですけど、その――メアが、これも社会勉強の一環だとか言って、強引に…」

 何をどう見ていたのかは知らないが、七糸は頬を赤らめ、微妙に視線を逸らしている。その様子から、明らかに状況を誤って認識していることが見てとれた。

「!! メ、メア様! ナイト殿に、何という下卑た真似をさせるのだ!?」

 よりにもよって、一番、誤解されたくない相手に目撃されるなんて――どうやって誤解を解けばいいのか、わからない。

 しかし、メアはニマニマと無責任に笑い、

「それにしても、よかったわ。とうとう身を固める気になったのね、ラヴィアス。これで、男が好きなんじゃないかとかナイト様に片想いしているんじゃないかなんていう、根も葉もない噂も消えることでしょう。知人として心から祝福するわ、おめでとう! それで、婚礼はいつに決まったのかしら? 今日? 明日?」

「! ち、違うっ! 全部、誤解だ!!」

「誤解? あら、ひどいことを言うのね。既成事実を前にしながら、女に恥をかかせるつもりかしら。ねえ、ナイト様。どう思います、同じ男として」

 メアが話を振ると、七糸は赤らんだ顔のまま、おずおずと部屋に入ってきた。両手に抱えた色鮮やかな花々の輝きが、彼の愛らしい面立ちをさらに引き立てる。

 やはり、彼には女の子らしい振る舞いが似合っている。ドレスでも着れば、いかにも深窓の令嬢といった雰囲気があるが――残念ながら、彼は、いつもの膝丈のズボンにシャツというシンプルな格好をしていた。もっとも、どんな服装をしていようと、七糸が愛らしいのは変わらないわけだが…それは、今、どうでもいい。

 問題は、彼が決定的な誤解をしているということ。

 七糸は、可愛い顔に似合わず、真面目な声音でちょっと責めるように言った。

「ラビィさん、僕が口を挟むことじゃないと思いますけど――ここは一つ、男らしく責任を取るべきだと思います。じゃないと、リシリーが可哀想じゃないですか」

「ち、違うっ! だから、先ほどのアレは、そういうのではなくてだな!」

 七糸の口ぶりに、ラビィは慌てた。状況を説明しようにも、まさか、リシリーが何者かに操られていて殺されかけた、なんて言えるはずがない。そんなことを言おうものなら、いろいろと面倒なことになる。

 だからといって、都合の悪い部分を省いて話そうとすると話のつじつまが合わなくなってしまうし、何も反論しないとなると、七糸の誤解を肯定することになるため、これまた、難しい状況になる。

 どうにかして誤解だけでも解けないかと焦るが――そんなラビィのピンチを見逃すメアではない。七糸には見えないところでにやりと笑い、すぐに憂鬱そうな声で言う。

「まったく、往生際の悪い駄竜だこと。男なら、きっちり責任を取りなさい。それが、今の貴方にできる最善の行為ではなくて?」

「さ、最善も何も、私は何もしていない! 第一、薬のせいで動けないのだぞ!? 何もできるはずがないではないか!」

 その言葉に、七糸がまばたきをした。

「…薬? って、何のこと?」

「さあ、私にはわかりかねますわ」

 空とぼけたように言い、メアは底意地の悪い目つきでこちらを見た。

「ですが、思いがけず元気な様子ですし、わざわざ見舞う必要はなかったかもしれませんわね。花を置いて、さっさと引き上げませんこと?」

「え、でも、数週間ぶりに顔見れたんだし、ちょっと話していきたいんだけど」

 ラビィが引きこもってからというもの、話をするどころか顔すら見られなかったことに、不安を感じていたのだろう。七糸がゆっくりと歩いてくるのが見えた。

「…あの、ラビィさん、こんにちは。久しぶり、ですね」

 ベッド脇で立ちどまった彼の穏やかな眼差しが、遠慮がちにラビィに注がれる。

 いつも見下ろしていた顔が上にある、というのは、何とも奇妙な感じがする。

 それに何より――…こうして、彼が傍にいるという事実そのものが夢のような気がする。

(――…やはり、ナイト殿は、他の誰とも違うな…)

 カリスマ性、とは少し違うが、独特な雰囲気を持っている。赤い縁取りの眼鏡の奥に見える瞳はほんわかと優しく、長い睫毛にかかる前髪は絹よりも艶やかだ。細い顎はどこか頼りなく、わずかに赤らんだままの頬は年頃の女の子らしくて微笑ましい。どれだけ見ていても見飽きないどころか、ずっと見つめていたくなるような、そんな不思議な魅力が彼にはある。それもこれも、彼に対して好意を持っているからなのかもしれないが。

「…あの、ラビィさん。今さらかもしれないんですけど――…ごめんなさい。僕の不用意な行為のせいで引きこもらせてしまって。しかも、こんなことになるなんて、思っていなくて……怪我、ひどいんですよね。二日間も眠ったままで、すごく心配で…。だから、目が覚めたって聞いたときは、本当に嬉しかったんです」

 その声は耳に優しく響き、労わるような眼差しは、まさしく女神のよう。

「…それで、お見舞いに行こうって話になって。そしたら、メアにお見舞いに相応しい花があるからって、こうして摘んで持ってきたんです。あ、ラビィさんの精霊にも協力してもらったんですよ! 可愛いですね、精霊って」

 にっこりと笑った顔は、蕾が花開くように瑞々しく美しい。

 ついつい、見惚れていると、力なくこちらへ飛んできたコルカが急に謝罪してきた。

『…あ、兄貴。何というか、その――すまねーッス』

「? 何故、お前が謝るのだ?」

 ラビィの声に、コルカはいつになく肩身が狭そうにしている。

「??」

 よくわからないが、コルカにはコルカにしかわからない苦労があるのだろう。

 そう思い、追及はしないつもりだったのに、小さな精霊は逃げるようにしてぽんっと姿を消してしまった。

 一体、彼の身に何が起きたのか――考える間もなく、七糸が口を開く。

「それでですね、ラビィさん。あの…これ、お見舞いに持ってきたんです。よかったら、貰ってください」

 言って、差し出したのは、見覚えがあるようなないような、珍しい花。かなり特殊な代物であることは、一目でわかった。魔力でコーティングしないといけないような種類の花は、そう多くない。たいていは、強力な毒素を吐き出す毒花だったり、反対に、清浄な空気のなかでしか生きられない聖なる花だ。

 見たところ、これは後者のようだが――…一体、何の花だったか。

 考えていると、メアが嫌な笑みを浮かべた。

「ご存知かしら、呑気に療養中のヘタレ騎士様? その花を渡すこと、そして、受け取ることの意味を」

 嘲りと憐れみに満ちた少女の笑顔に、悪寒が走る。

「…何だと? この花が一体、何だというのだ?」

 ラビィの不安を煽るかのように、七糸が眩しい笑顔で教えてくれる。

「実は、この花、クローラインっていう幻の花らしいんですよ。メアに、怪我に効くって聞いて、コルカに取ってきてもらったんです。綺麗でしょう?」

「――ク、クローライン、だと…っ!?」

 衝撃が走る。

 クローライン。伝説の地に咲くといわれる、希少な花。その花の蜜はあらゆる怪我を治すとされ、珍重されているが――その反面、別の意味を持つ、忌み花でもある。

「…し、失礼だが、ナイト殿はこの花を渡すことの意味を知っているのか?」

 恐る恐る訊いてみると、案の定、彼は首を傾げてみせた。

「え、意味って――…ラビィさんの怪我が早く治ればいいなと思っただけですけど」

 そう、そうだろうとも。もし、知っていたら、絶対にこの花を見舞いに持ってくるはずがない。

 この花には、いろんな迷信がつきまとう。

 たとえば、恋人に渡せば、永遠の愛を誓うことになり、何があろうとも離れることはない、とか。片想いの相手に贈れば両想いになれる、とか。

(…ただ、クローラインは、どちらかといえば精霊に近い存在だからな)

 実体はあるが、それを保つ時間は短い。魔法でコーティングされているとはいえ、もって一日といったところだろう。その儚さから、怪我人や病人にこの花を贈ることは不吉とされている。

(…いや、この際、それはまあ、どうでもいい)

 七糸がそこまでクローラインについて詳しくないのは想像できるし、どうせ、メアがよからぬ情報を吹き込んだのだろうということはすぐに察しがついた。

 しかし――…厄介なのは、同性に対して贈る場合だ。

 そこに好意があろうとなかろうと、花の語る意味は一つ。

 二度と会うことのない別れ。つまりは、絶縁。ただ、それだけだ。

 クローラインは、悲恋の物語をベースにしている花であるが故に、恋愛面に関しては好意的な解釈がなされるが、それ以外に対しては、非常に血生臭い噂ばかりが残っている。

 たとえば、この花を手に入れるためだけに、戦争を起こした王子の話とか。

 ひと儲けを企み、クローラインをとろうとした商人たちが、誤って魔物の巣に入り込み惨死したとか。

 この手の話は、百や二百ではすまないくらいだ。

 そのためか、ラビィが幼い頃には、クローラインを採取すること自体が罪という風潮が広まり、今では、存在するかどうか怪しいほどの希少種扱いされているわけだが、それもまた、どうでもいい豆知識にすぎない。

「…つまり、ナイト殿は、深い意味もなくこの花を私に寄こしただけなのだな?」

 改めて、確認する。

 七糸が自分を男だと言い張る以上、同じ男であるラビィにクローラインを贈るということは、縁切りを意味することになる。無論、それは、七糸自身が意図していなければ、気にすることもないのだが――メアが、意地の悪い目つきで話に割って入った。

「あら、ナイト様は、ご存じのはずですわ。そうですわよね、ナイト様? クローラインの花の持つ意味について、ご存知でしょう?」

「え? ああ、花言葉のこと? うん、知ってるけど――それが何?」

「!!!」

 ガンッと鈍器で頭を殴られたような衝撃が走る。

「…ナ、ナイト殿は知ったうえでこの花を私に受け取れと言うのか?」

 情けなくも、声が震えてしまう。

 何があっても守ろうと、改めて心に誓い直したところだというのに――。

「な、何故だ? 一体、私の何が悪かったというのだ?」

「え、何? どうしたんですか、急に」

 七糸が、驚いたようにまばたきをする。

 その隣で、メアが勝ち誇ったように口角を持ち上げた。

「あら、理由なんて山のようにあるのではなくて? 騎士のくせに自分の身すら守れずに大怪我した挙げ句、メイドをたぶらかしておきながら男としての責任も取れない。そんな不作法な無能者を傍に置いておきたいと誰が思うのかしら?」

「だ、だから、リシリーの件は誤解だと言っているだろうが! た、確かに、怪我をしたのは私の油断のせいとも言えるが」

「ほら、御覧なさい! 身に覚えがあるじゃないの!」

 メアが勝ち誇ったように笑う。

「い、いや、そもそも、この怪我はメア様にも責任の一端があるのではないのか?」

「あら、女に責任転嫁しようだなんて、昨今の騎士様ときたら、随分と品位に欠けることをなさるのね。この恥知らず!」

「なっ、別に責任転嫁するつもりなどない。ただ、私は、これからも騎士としてナイト殿をお守りせねばと思っているだけで」

「思うのは勝手だものね。空想、妄想、思い込み、机上の空論。頭のなかだけなら、何とでも言えるし実行できるわ。けれど、現実は違う。思うだけで行動に移せない惰弱な男に、価値などないのではなくて?」

「っっ」

 返す言葉もない。あまりにも正論すぎて。

「…た、確かに、騎士としてナイト殿のために何をしてきたかと問われれば、何もしていないが――…し、しかし、これからは」

「黙りなさい! その言い訳めいた発言自体が情けないということに、いい加減に気づいたらどうなの? 男なら、態度で示しなさい。騎士ならば、その功績で語りなさい。そのどちらもできていない以上、今の貴方は、男でも騎士でもない。ただの無職の居候にすぎないのよ!」

 ドピシャーン、と雷でも落ちそうな口ぶりでメアが言う。

 ラビィはというと、あまりにももっともな言い分に、口を閉ざすしかない。

「ふふん、わかればいいのよ」

 メアが満足げに笑い、ラビィはすっかりしょぼくれてしまった。

 その対照的な二人の様子に、七糸が首を傾げる。

「…ねえ、さっきから、何の話で揉めてるの?」

「ふふっ、たいしたことではありませんわ。お気になさらず。ああ、そういえば、ナイト様。そろそろ、昼食のお時間ではございませんこと? 急がなければ、せっかくの温かな料理が冷めてしまいますわ」

「え、もう、そんな時間?」

「はい、そんなお時間ですわ。本当に、時間が経つのは早いものですわね。さあ、参りましょう」

 メアが、七糸の背に手を触れ、退室を促す。

「…う、うん」

 七糸は、後ろ髪を引かれるようにして、見舞いの花をそっとナイトテーブルの上に置いた。

「…ラビィさん、じゃあ、僕たち、ちょっと行ってきますね」

 言った途端、はらりとクローラインの花びらが一枚、ラビィの額に落ちた。

 羽根のように軽くてくすぐったい感触があり――七糸が、すっと手を伸ばして、それを取ってくれた。

 わずかに、白い指先が額に触れたかと思うと――…バチリ、と。強烈な音と共に弾けるような痛みが走る。どうやら、静電気らしいが――。

「っ! な、何か、ビリってきた! ラビィさん、大丈夫でしたか?」

 驚きつつも気遣う七糸の声に、ラビィは少し間を置いて答えた。

「………あ、ああ。平気だ」

 言いながら、内心の動揺を押し隠す。

(――…何だ、今のは…?)

 ただの静電気ではない。七糸が額に触れた瞬間、身体中に稲妻が走ったような強烈な衝撃があり、直後、フッと身体が軽くなった。何となく……そっと、指先に力を入れてみると。

(……動く…?)

 数秒前まで身体の自由を奪っていた強力な痺れや脱力感は消失し、後頭部に残っていた痛みも感じない。

(…一体、どういうことだ?)

 あの痺れ具合からいって、毒は、かなり強力だったはずだ。怪我にしても、ろくに動けないほどひどかったのに――…。

 ふとメアの様子を窺うと、彼女は珍しく、素で驚いたような表情を浮かべていた。

 しかし、ラビィの視線に気づいて、すぐに表情を引き締める。

「……ナイト様、そこの駄竜に用事があったことを思い出しましたの。申し訳ありませんけれど、一足先にお食事をなさっていてくださいませんこと?」

「え、そうなの? そっか。なら、先に食堂に行って待ってるよ。ご飯は、二人で食べたほうが美味しいし」

 七糸が言うと、メアが優しく微笑んだ。

「――そうですわね、すぐに参りますわ」

「うん。じゃあ、あとでね」

 七糸が言って、席を外す。

 完全に気配が遠ざかってから、メアはふうっと息を吐いて、淑女らしからぬ乱雑な動作でベッドの端に腰をおろした。

「……それで、いつまで怪我人ぶっているつもりなのかしら? 怪我なんてとっくに治っているのではなくて?」

 不機嫌を隠そうともしない表情と口調で言われて、ラビィはゆっくりと起き上がった。

 怪我をしていた事実が嘘だったのではないかというくらい快調に身体が動く。その事実が、何とも気味が悪い。

 起きるはずのないことが起きる。それはもう、警戒すべき異常事態だ。

 よって、ラビィは訊かずにはいられなかった。

「…ナイト殿は一体、どういう御方なのだ?」

 竜族にとって、額は弱点の一つである。といっても、それは大昔の話で、今では弱点と呼べるほどのウイークポイントではないが――本来、竜族の額には角があり、それがヒトの形を得る代わりに取り除かれた。そのせいかどうかはわからないが、額に触れられること自体、嫌がる竜が多い。主従契約において、弱点である額に印をつけるのは、その相手に服従することを竜自身に容認させるという意味合いがある。もっとも、今となっては、形骸化した儀式の一つにすぎないのだが。

 ラビィのストレートな疑問に、メアは露骨に顔を歪めてみせた。

「どういうもこういうも、そんなことを確認しなければならないほど、貴方の目は節穴なのかしら? 自分の見たまま、感じたことを信じられないというのならば、騎士などやめるべきではなくて?」

「そういうことを訊いているのではない。ナイト殿が使った、先ほどの魔法。あれは、回復魔法の類ではないだろう? いや、そもそも、ナイト殿に魔力などないはずだが…」

 後天的に獲得できる魔法は、どんな種類のものであれ、何の努力も知識もないまま自然に習得できるものではない。たとえ、契約精霊がいたとしても、それなりの修練を積まなければ魔法を操ることはできない。ましてや、そのエネルギーの源になる魔力そのものが、七糸にはないのだ。

 それなのに――先ほど、七糸が額に触れた瞬間、流れ込んできたのは、まぎれもない魔力だった。それも、竜の動きを封じるほどの強烈な痺れや激痛を一瞬で取り去るだなんて――尋常ではない。

 その点は、メアも気づいていたようだが、彼女自身、明確な答えを見出せなかったのだろう。訝しげに眉をひそめ、

「…確かに、一時的にナイト様に私の魔力の一部をお譲りしたけれど――…そもそも、ナイト様に魔法の才能は皆無。先ほどの魔法は、むしろ、クローラインの作用と考えるべきではないかしら?」

「……まあ、クローラインの蜜には治癒作用があると言われているからな。その花弁にも何かしらの作用があってもおかしくはないが――それでも、あれは異常だぞ」

「異常といえば―――ねえ、駄竜。貴方、あの子の――ララの名をどこで知ったのかしら?」

「…ララ? 誰だ、それは?」

 初めて聞く名に首を傾げるラビィを見据え、メアが言う。彼女にしては、神妙な面持ちで。

「ララのことをどこで知ったのかは知らないけれど――この世界で無闇にあの子の名を呼んではいけないわ。名を呼ぶということは、その者の魂を引き寄せるということになるのだから」

「――いや、だから、そのララというのは誰のことだ?」

 いまいち、話が噛み合っていない。ラビィが再び訊ねると、彼女は長い髪の毛先を弄りながら小声で答えた。

「……ララリック。あの子は、とても危険な子なの。だから、その名をみだりに口にしないで。もしも、呼び声に応じて、あの子が目覚めたりしたら――…」

 意味ありげに黙り込むメアの様子に戦慄を覚えながら、ごくりと唾を飲み込む。

「目覚めたら…ど、どうなるというのだ?」

 緊張気味のラビィを見つめ、彼女は陰湿な笑みを浮かべた。

「……とりあえず、貴方には死んでもらうことになるでしょうね。可哀想に、あの子の名前を知ったばかりに、あっさりぽっくりとあの世へ旅立つことになるだなんて。ふふ、でも、それはそれでいいかもしれないわね。貴方の死で落ち込んだナイト様を私が慰めて差し上げることで二人の仲がどっぷりと深まり、やがて、お互いがかけがえのないパートナーであることを確認し合うの。そして、身も心も結ばれて至高の幸せを手に入れるのよ! 悲劇の先にある、真実の愛! 二人を分かつモノは、もはや何一つ存在しない! たとえ、世界が滅ぼうとも、愛さえあれば何とかなる! 素晴らしいわ、これこそ、私の望む理想の未来ね!」

「ま、待て! 何故、私の死が確定しているのだ? というか、世界が滅べば、未来も何もないだろうに」

「はあっ、ロマンのわからない男はこれだから困るのよ。そもそも、貴方――私がナイト様とのロマンスを夢見るたびに横からうるさく口を挟んでくるけれど、一体、何様なのかしら? いくらナイト様をお慕いしているとはいえ、立場をわきまえるべきではなくて?」

「! べ、別に、私は」

 七糸に対して、邪な気持ちは抱いていない。

 反射的に、いつもみたいに否定しようとして――口をつぐむ。

「…あら、どうしたのかしら? 急に黙り込んで」

 面白い玩具でも手に入れたみたいな表情で、メアがこちらを見つめてくる。

 それに対して、ラビィは小さく息を吐き、まっすぐに彼女を見つめた。

 赤の瞳と朱の瞳がぶつかり合う。

 そこに生まれるのは、敵意ではなく、むしろ――共通の感情。

「……私がナイト殿に対して、特別な感情を抱いているということは、否定しない。だからこそ、聞かせてほしいのだ。あの方を守りたいという点では、私と貴女の気持ちは一致しているはずだろう」

「――…随分と、思いきったものね」

 一瞬、メアは目を見張り――ふっと、冷たい笑みを浮かべた。

「…まあ、ナイト様をお守りするという点において、貴方と私は味方と呼べるかもしれないわね。百歩、いいえ、千歩譲って、そういうことにしましょうか。それで、駄竜。今の貴方に何ができるというのかしら? たとえば、目の前で貴方の大事な人たちが…家族が、親しい友が殺されようとしていても、貴方はナイト様のお傍を離れないと誓えるのかしら? ナイト様以外のすべてを犠牲にしても構わないという揺るぎない意志が、貴方にはあるとでも? 大事な人たちの死骸を前に、それでも、自分は間違っていなかったと断言できるだけの決意が、今の貴方にはあって?」

「そ、それは――」

 そんな状況になる前に手を打つのが一番いいのだが、もし、そんなことになったら、自分はどうするだろうか。

 救えるかもしれない人々を前に、七糸を守るという理由で見捨てるなんてことができるのだろうか。

(…いや、そんなことは考えるまでもないではないか)

 メアの意地悪な質問に、ラビィははっきりと答えた。

「無論、助けに行くに決まっているだろう。守れるものを見捨てては、ナイト殿の信頼を裏切ることになる」

「つまり、ナイト様よりも家族や友人を取るということね」

「違う! そうではない」

 可能な限り、大事なものは守る。

 そこに、優先順位などない。

 無論、七糸は大事だ。それこそ、世界を敵に回してでも守りたいとすら思う。だが、家族や友人も大事であることに変わりはない。だから、助けられるだけ多くの者を助ける。自分が四枚羽として生まれてきたのは、つまりは、そういうことなのではないかと思う。魔力が高いぶんだけ、守れる者が増える。そのために騎士になったのだ。より、多くの者を守れるように。大事なものを失わないように。

 しかし、メアは言う。突き放すようなキツイ口調で。

「大事なモノが多ければ多いほど、迷いが生じるものよ。もし、ナイト様が他者を救うことを優先しても、私は実行しない。ナイト様が無事であること、それ以外の何も考えていないから。それで恨まれても、構わない。嫌われても、仕方がないわ。それほどの覚悟がなければ、ナイト様を残酷な運命からお守りすることは叶わないのだから」

 メアの言葉にも瞳にも、揺らぎはない。強い――それこそ、震えがくるほど真剣な決意だけが強靭な刃のようにこちらを威嚇する。

「――貴方は、言ったわね。私と貴方は、ナイト様を守る同志だ、と。フッ、片腹痛いわね。その程度の覚悟で、一体、どれほどの戦力になるというのかしら? 貴方には、圧倒的に覚悟が足りていない。所詮は、ひよっこなのよ。私とは、生きてきた年月があまりにも違いすぎる。だからこそ、わからないのでしょうね。自分にとって、本当に大事なものが何なのか。絶対に失えない人が誰なのか――…ええ、そうね。わかるはずがないのよ。貴方なんかに」

 責めるように呟く横顔は、何故か泣きそうに見えた。

 しかし、こちらが声をかけるより早く、メアはベッドから腰をあげた。

「――…今の貴方には、ナイト様のことを知る資格はないわ。それでも、聞きたいというのならば――覚悟を見せなさい。私を説得できるほどの、強い覚悟を」

「覚悟…」

 証明しようにも、難しすぎる要求だ。

 覚悟を見せろと迫られても、どうすればいいのか、皆目見当がつかない。

 ただ、今の自分に言えるのは、この言葉だけ。

「…私は、何があろうともナイト殿をお守りする。そう、決めたのだ」

 自分でも、馬鹿の一つ覚えみたいだと思う。

 守るといっても、これといったプランがあるわけではない。

 それでも――この気持ちだけは、未来永劫変わらないと誓える。

 メアは、呆れたような視線を寄こして、優雅に歩き出す。

「……勝手にすればいいわ。ただ、そうね――」

 ドアノブに手をかけながら、そっと呟く。

「…ナイト様を本気でお守りするつもりならば、気をつけることね。今回の件、おそらく、リシリーだけではすまないでしょう。結界を強化することにしたから、これ以上の被害はないとは思うのだけれど――…」

 何かを危ぶむような口調から、メアが、重要な情報を隠し持っていることがわかる。しかし、どんなに問い詰めたところで、これ以上話すつもりはないのだろう。彼女の背中には強い拒絶の色が滲んでいた。

 溜息をつきつつ、ラビィは、メアの意見に同意した。

「……ああ。何事にも、万が一という事態は起こり得るものだからな。用心するに越したことはないだろう」

「…そうね」

 ドアノブがゆっくりと回される。

 そのかすかな音に混じって、メアの囁きが聞こえた。

「………私の屋敷で好き勝手しようだなんて――絶対に許さないわ」

 その言葉は、音量こそ小さかったが、強烈な殺意を孕んでいる。戦場ですら感じたことのないほどの悪寒を感じて、ラビィは、ぞわりと鳥肌の立った腕を擦った。


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