第四話・其の一
こんにちは、ようやく四話です。ここ数か月、PCの具合がよくないなあと思っていたら、データがぶっ飛びまして…頭の中が真っ白になりますね、そういうときは。これまで投稿したきた作品にもデータの不具合があるかもしれませんが、怖くて確認できません…。と、暗い話はおいておいて、とりあえず、今回はメイド長が新たに参戦します。少しでも楽しんで頂ければと思います。
《 第四話・其の一 》
――きらきらと、無数の光が降ってくる。
それは、星みたいに黒い空を輝かせながら、ゆっくりと大地に滴り落ちる。
その様は、雨にも涙にも似ていて。
一つ、二つ、三つ、四つ…。
数えきれないほどの眩い光はいずれすべてを呑み込んで、世界中を埋め尽くしてしまうのではないか。そんな恐れにも似た不安が、じわりと胸にわいてくる。
光は――闇と同じ。
深く、濃く。増殖すればするほど、見る者の視界を奪い、不安を煽る。
だから、闇、もしくは光に呑まれた者は、恐怖する。
音もなく忍び寄る絶望の気配に、戦慄する。
すぐ傍にある幸福に、気づかないまま。
視界を奪われ、耳を塞がれ、身の内から湧き出る不安に駆られて、動けなくなる。
『――ですが、そんなことは、誰しも望んでいないのです』
少女の、澄んだ声が響く。
聞いたことのない声。
でも、どこかで聞いたような、不思議な声。
彼女は、囁くように言の葉を紡ぐ。
『闇だけの世界。光だけの世界。そのどちらも、生きるには相応しくない。いずれは、滅びる運命。だからこそ、彼の人は、この世界を生きるに相応しい場所へと正すべく、二つの世界を一つに束ねたのです』
その声は、降り続ける光に紛れて響いてくる。
『ですが、善と悪、愛と憎悪、情と不実。光と闇の交錯する世界。それらは人々に生きる場所を与えると同時に欲望をもたらし、いつしか、争いの歴史へと誘うようになったのです』
淡々と並べられる言葉は、奇妙なほど心に深く染み込んでいく。
『――その陰惨な歴史を目の当たりにして、彼の人は悩みました。このまま争いが続けば、いつか生物は滅び、世界が滅んでしまう。どうすれば、その危機を回避できるのか、と。そして、とある方法を思いついたのです』
降り注ぐ光が、わずかに明滅を繰り返す。
『――世界を統べるに相応しい絶対的な強者《王》をつくり、愚かな民を正しく導いていけばいいのではないか、と。ただ、それには一つだけ問題がありました。王たる者が道を誤り、絶大な力を悪用して世界を壊す危険性があるということです。それだけは、絶対に許されないことでした。ですから、彼の人は、王に一つの呪いをかけました。彼の人の意に背かないように。もし、そんなことを考えようものならば、死よりも辛い制裁を受けるように、と。そして、その呪いは、長い年月と共に質を変え、いつしか善なる王をも苦しめることになったのです』
そこまで話が進んで、ようやく、思い出した。
これは、童話だ。
子供の頃、誰しも親から聞かされた、創造の物語。
唐突に始まり、唐突に終わる。
ハッピーエンドではないが、同時に、バッドエンドでもない。
世界が滅ばない代わりに、王は、永遠に近い苦悩を与えられた。
(――今から思えば、奇妙な話だ)
王を苦しめることになる呪いとは何なのか。彼の人とは誰なのか。その辺りの説明はまったくないのだ。しかも、そのこと自体、誰も不思議に思わなかった。
これは、そういう設定だから。
所詮は、フィクションだから。
そう、自然に納得して、誰もその話の続きなど考えようとしなかったし、誰も教えてはくれなかった。
故に、ラビィの知る限り、その話はここで終わるはずだった。
先に続く物語なんて最初から存在しないのだと、そう思っていた。
それなのに――少女は、続けた。そっと、声を潜めるようにして。
『――苦しみに耐えかねた王は、自らの生命を賭して、画策しました。自らを苦しめる世界に復讐しよう、と。そして、それは実行されたのです。しかし、彼の人がそんなことを許すはずがありません。とうとう、反旗を翻した王と彼の人との争いが始まり、今度こそ本当に、世界は滅びの道へと歩み始めることになったのでした』
声はそこで途切れて、ふっと光が消えた。
黒い空、黒い地面、黒い世界。
眩しいところから急に真っ暗闇へと突き落とされて、ラビィは咄嗟に空中に手を伸ばした。そして――。
「!」
何か細いものをつかんだ、と思ったら、視界に一人の女性の顔が飛び込んできた。
後ろに流した長い前髪をヘッドドレスでとめている、黒髪の女性。その衣装から、一目でメイドだとわかる。白い肌と無感情な青い瞳は人形のようで、どこか薄気味悪い。
彼女は、ピシャリと冷やかにラビィの手を払うと、
「――お目覚め早々、節操のない真似はなさらないでいただきたいものです。それとも、これが竜貴族の礼儀なのですか?」
殺気のこもった瞳で付け加える。
「まったく、ナイト様という想い人がいながら、何て不純なのでしょう。これだから、騎士という名の野獣は信用ならないというのです」
「! ち、違う! 先ほどの行為は、その、夢のせいで――」
ラビィが慌てて言い訳すると、彼女は冷やかな笑みを浮かべた。明らかに、こちらの話を信じていない顔つきだ。
「夢、ですか? ちなみに、それは、どのような内容なのでしょうか?」
「…え?」
訊かれて、思わず首を傾げてしまう。
「……それは――…よく覚えていないのだが、何か恐ろしい夢だったような…?」
いや、恐ろしいというよりは、居心地が悪いというか、気味が悪いというか――。内容が思い出せないものの、ねっとりと絡みつく不気味な思念みたいなものを感じる。
しかし、彼女は、とことん冷え切った瞳でこちらを見下ろしてくる。
「――そうですか。悪夢にうなされて寝ぼけていらっしゃったのですね。そう答えれば、どんな行動も許されると思っていらっしゃるのですか? まったく、男とは、何て浅薄なイキモノなのでしょう。さっさとこの世から滅べばいいのに」
「! だ、だから、そうではない! というか、何故、お前がここにいるのだ、クロノア!」
クロノアと呼ばれた女性は、ふうっと息を吐き、心底、面倒くさそうに吐息した。
「何故も何も――ここは、ゲストルームの一つです。世話係のメイドがいたとしても、おかしくはないでしょう?」
「…ゲストルーム、だと?」
ずしりと重い頭を動かせて、横になったままで周囲を確認する。
確かに、ここは、ラビィの部屋ではない。それよりももっと広くて立派なつくりをしている。
真っ赤な絨毯や部屋にある調度品のすべてが最高級品で、いかにも貴族の寝室といった雰囲気を醸し出している。対して、ラビィがあてがわれていた部屋は、住み込みの使用人よりもやや上等な部屋という感じで、この部屋とは天と地の差があった。
「一体、何故、こんなところに…」
訊きかけて、ラビィはわずかに痛む後頭部を押さえた。
「…っ、そうか、私はメア様の魔法で…」
怪我をして意識を失っている間に、ゲストルームへと運び込まれたのだろう。
そう考えて――疑問が浮かぶ。
「…しかし、だとすれば、なおさら納得がいかない。クロノア、お前は、メア様付きのメイド長だろう。何故、お前がここにいる?」
彼女からは、殺意も敵意も感じられない。もともと嫌われているので、好意が感じられないのは当然だとしても――わからない。国でも有数の回復魔法の使い手である彼女が、介抱してくれたことくらいは想像がつくが――。
「メア様は、私を殺したがっているのだろう? それなのに、何故、お前が私を介抱しているのだ?」
魔法が発動してから見た、あの白い世界の夢。
七糸そっくりの誰かを思い出しながら訊くと、彼女は否定せずに、そっとまばたきをした。
「…お嬢様の本心は、私にもわかりかねます。ただ、常識的に考えて、貴方様に死なれると、いろいろとお立場が悪くなってしまうのは確か。いくら恋敵とはいえ、貴方様はナイト様の騎士。それに手をかけたとあっては、あとあと面倒なことになりかねません」
よって、助けたくなかったが、嫌々助けてやったのだと彼女は告げた。
「――はあっ。本当なら、騎士なんてイキモノは滅んでしまえばいいと思っていましたのに、それをお助けしなくてはならないだなんて――生まれて初めて、メイドになったことを後悔いたしました。これは、忘れ去りたい黒歴史の一つ、まさに、人生の汚点です」
「………そ、それは、すまなかったな」
素直に、助けてくれてありがとうとは言えない空気に、ラビィは気まずさを覚えた。
「…そ、そういえば、私はどれくらい眠っていたのだろうか?」
随分と、身体が重くてだるい。
怪我人だから、というよりは、ただ寝過ぎただけのような気もする。
「正確にはわかりかねますが、だいたい、二日ほどでしょうか。騎士の分際で、ゲストルームで昼寝三昧とは、本当に救い難いものがありました」
「………め、面目ない…」
言葉の端々に嫌悪の刃を繰り出すクロノアは、出会ったときから、ずっとこんな感じだった。騎士が嫌いというよりは、メアに近づく男全般が嫌悪の対象なので、彼女に好かれているのは、執事のルーベクくらいのものだ。ちなみに、彼女はルーベクの孫娘にあたり、祖父同様に影に潜んでメアを見守り続けている。そのせいか、こうして表舞台に立つこと自体が珍しい。
(…クロノアが出てきたということは、私の怪我はよほど重症だったらしいな…)
彼女は、この屋敷で一番の回復魔法の使い手である。そんな彼女が、大嫌いなラビィのために魔法を使わざるをえなかったということは――つまりは、そういうことだ。今さらながらに、死にかけていた事実を実感してしまう。
「――そういえば、ラヴィアス様。少々、気になることがあるのですが、二、三、よろしいでしょうか?」
怜悧な瞳が、ラビィに突き刺さる。
「あ、ああ、構わないが」
やけに真剣な声音で言われて、反射的に身構える。
そんなラビィの無意識な警戒心を解こうとしてか、クロノアが鋭すぎる視線をわずかに外して訊いた。
「…ラヴィアス様は、何故、あれ如きの爆発で瀕死の重傷を負われたのですか? 竜族、それも、四枚羽の火竜ともあろう者が、あの程度の攻撃魔法に倒れるとは、どうしても信じがたいのです。正直、お嬢様の攻撃魔法は、貴方様にしてみれば児戯に等しいもののはず。当然、メア様もそうお考えになっていたはずです。それなのに――」
ラビィは致命傷を負ったが、それはメアの魔法によるものではない、と彼女は暗に告げる。
「…爆風で飛ばされたにしても、あの部屋の調度品にぶつかった程度では、あのような傷はできません。真面目な話、信じられないのです。竜族の鋼鉄の皮膚を容易に断てる者など、この屋敷には存在しません。ですから、あの場には、私の把握していない何者かがいたとしか思えないのです――」
「……クロノア。発見当時、私は、どんな様子だったのだ?」
攻撃された記憶はあるが、どんな目に遭ったのかまでは、覚えていない。自分がどんな大怪我を負ったかすら記憶にないというのは、何とも気味が悪い。
クロノアはかすかに眉を寄せ、思い出したくもないという顔つきになる。
「――後頭部から首の付け根にかけて、一直線に切り裂かれていました。骨を断つほどではありませんが、それに近い状態だったといえるでしょう。私の魔法をもってしても、助けられるかどうか、五分五分といったところでした。その傷は、今も完治していません。魔法を定期的にかけ続けても、完全に傷口が塞がるまで一週間はかかるでしょう」
「……後頭部から首の付け根にかけて…」
背中、それも、羽の付け根を攻撃されていたら、目覚めるのにも余計に時間がかかっただろう。しかし、幸い、急所は外していたようだ。もっとも、クロノアがいなければ、確実に死んでいただろうから、彼女には感謝しても、し足りない。
「…私の記憶によれば、あの部屋にいたのは、私一人だったはずだ。お前やルーベクのように、気配もなく影のなかを移動できるというならともかく、それ以外の場合で私に気づかれずに周囲に潜むというのは不可能だろう」
どんなに気分が落ち込んでいたとしても、殺意や敵意には敏感に反応できる自信がラビィにはあった。
その言葉を深読みしたのか、クロノアは気分を害したようだった。
「…私と祖父の関与をお疑いなのですか? この天と地に、いいえ、お嬢様に誓っても構いません。それだけはないと断言できます」
「い、いや、すまない。お前たちを疑っているわけではないのだ。ただ、お前の疑問は、私の疑問でもあるということだ」
ラビィがメアの攻撃魔法を受けたとき、それとは別に、致命傷となるような強烈な攻撃を受けたのは確かだ。それは、メアの仕業でもなければ、おそらく、この屋敷にいる誰のものでもない。竜族は、他の種族よりも頑強なのだ。しかも、ラビィは四枚羽で、竜族のなかでもトップクラスの竜。それを殺しかけるほどの逸材は、この屋敷には存在しない。
「――…念のため、お訊ねしますが、剣やそれに準ずる武器をお持ちではありませんか?」
クロノアの言葉に、ラビィは首を小さく横に振った。
「いや。爆発で飛ばされて、自分の武器にぶつかった可能性は、まずない。何故なら」
手を伸ばして、何かをつかむようなポーズをとる。
「――私の武器は、召喚型なのだ。私の意思がなければ、具現化しない」
言って、手のひらに意識を集中させる。
すると、ぶうん、と大きな羽音みたいな音がして、細身の剣が現れた。柄の部分には、ラビィが施した魔法文字が並んでいる。
「なるほど、魔法剣ですか。珍しいですね。かなりの高等魔法のはずですが――…ちなみに、この剣には、どのような特性があるのですか?」
クロノアが、ちょっと興味をそそられた様子で飴色に輝く刀身を見つめる。
「…召喚型の剣は、たいてい、術者の属性に左右される。私の場合は、炎、灼熱、光に属していることになるな。例を挙げるとすれば、刀身に炎を纏わせたり、水属性の魔法を無効化したり、光を苦手とする闇属性の者を炎の発する光で消滅させたりもできる。まあ、攻撃力においては、通常の刀剣とは比べ物にならないぐらい高いが、どうやっても、純粋な精霊魔法には劣るというのが難点だな」
「…なるほど。ということは、その武器が暴走したという可能性はまずないと、そう考えてよろしいのですね?」
炎属性の剣では、火の加護を受けた火竜の肉を深く断つことはできない。ましてや、魔法剣は、術者が明確にイメージしてつくり出すものなので、意識がない状態では、剣の姿を保つどころか、具現化そのものが不可能になる。
「――となると、やはり、あの場には誰かがいた、ということになります。失礼ですが、ラヴィアス様。何か、お心当たりはございませんか? 殺されても仕方のないような行為を働いた過去がある、とか」
じっとりと、猜疑心に満ちた視線が突き刺さる。
騎士なんか女に恨まれて当然だと言いたげな瞳に、ラビィは剣を消して手を振った。
「な、ないない! そんな過去など、あるわけがないだろう! だいたい、この屋敷の周辺にはメア様の強力な結界が張られているのだぞ? 無関係な者が自由に出入りできるはずがないではないか」
「――そう、そこなのです。万が一にも考えられないことですが――仮に、侵入者がいたとして、何故、部外者であるラヴィアス様を狙ったのか、その動機が不明なのです。本来ならば、狙われるのは、屋敷の主であるお嬢様のはず。あえて、ラヴィアス様を選んだ理由が思いつかないのです」
「――それは、同感だな」
言いながらも、漠然とした不安がわいた。
生と死の狭間で告げられた、恐ろしい話を思い出す。
七糸が狙われている、と七糸の姿をした誰かが言っていた。
そして――メアが、本気でラビィを殺したがっている、とも。
(…だが、殺意がすなわち、死をもたらすかといえば、それは別の話だ)
メアは、確かにラビィを嫌っている。完全に攻撃対象にしているくらい、腹立たしい存在だと認識している。しかし――殺してしまえば、七糸を守るための戦力が大幅に下がることを理解している。だから、嫌がらせも攻撃も、死なない程度に我慢するはずだ。
もしも、その均衡が崩れたとしたら、それは――。
(……何かが起きている。それも、メア様ですらどうにもできない何かが、干渉してきている、と考えるべきか?)
魔王すらも駒として操っているという、何者か。
世界を監視し、操作し続けている、誰か。
それが実在するとして、今回の件の犯人がその人物だと仮定すれば、いろいろと納得がいく。
魔王すら敵わないのだから、ラビィの暗殺など造作もないだろうし、メアの結界にしても、効果があるとは限らない。
(…ナイト殿を狙っているとすれば、私の存在は、目障りだろうからな)
魔王やメアほどではないにしろ、ラビィは、正面からやり合えば、面倒な相手に違いない。
(……メア様は、先手を取らせれば何者にも負けはしないだろうが――)
ラビィが死ねば、その時点で、物理攻撃を苦手とするメアの動きまで封じられかねない。たとえ、屋敷中の者が生命懸けで七糸やメアを守ろうとしても、おそらく、ラビィ一人の戦力には敵わないだろう。何故ならば、戦場で勝利を得るには、実力だけではなく戦闘経験も重要だからだ。戦場に出た者とそうでない者とでは、戦闘に臨む姿勢やいざというときの対処そのものが違ってくる。どれだけ頭数を揃えても、その差はすぐに埋まるものではない。
(…だが、今回は、敵の正体が不透明かつ強大すぎる…)
七糸の姿を模した彼が言っていた。
世界規模で事態が動く、と。世界そのものが、七糸を殺すのだ、と。
それが、抽象的な言い回しではなく、本質を述べているとしたら大変なことになる。
彼の言う『世界』とは、何を指すのか。
大地も、空も、森も、湖も。どんなに強力な結界を張ったとしても、自然のすべてが敵に回っているのだとすれば、何の意味もなさない。外からの攻撃に強い結界も、内側から破ることは容易いからだ。
そうなれば、あとはただ、静かに殺されるのを待つだけだ。
(――ということは、メア様の結界内だからといって、油断はできないということになるが…)
ラビィに致命傷を負わせた者の正体は知らない。そんな人物がいるかどうかも定かではない。
あのとき、あの瞬間に何が起きたのか。犯人以外、誰も知らないからだ。
しかし、ラビィは実際に重傷を負い、クロノアに助けてもらった。その事実がある以上、負傷の原因――実体のある犯人が、この屋敷のどこかにいるはずだ。
「――クロノア。この件は、ナイト殿には話さないでもらえるか?」
七糸は、おそらく何も知らない。今後も、知らされることはないだろう。
(……知ったところで、無駄に怯えさせるだけだからな)
今の自分にできることは、彼に気づかれないように、早急に事態を収拾させることだけだ。
ラビィの頼みに、クロノアはきゅっと細い顎を引いた。
「…もちろんです。お嬢様には、すでに報告済みですので、今後は、私と祖父がこの件について調査し、随時、ご報告いたします。できれば、ラヴィアス様」
「ああ、わかっている。ナイト殿とメア様の周辺に気をつけろというのだろう?」
「はい。しばらくの間、私はお嬢様から離れて行動することになるでしょうから、くれぐれもよろしくお願いします」
上品に、慇懃なお辞儀をして、彼女は、ちらりと意味ありげな笑みを浮かべた。
「……ああ、いくらよろしくしてくれと頼まれたからといって、寝室と浴場にはお入りにならないよう、お願いいたします。その時刻には、私が同行いたしますので――間違っても、夜這いや覗きなど、不埒な真似はなさいませんよう」
「! い、言われなくともそんな真似はしない!」
断言するが、彼女は意味ありげに唇の端を持ち上げたまま、すうっとベッドの影に消えた。
「――まったく、何ということを言い出すのだ」
騎士が、覗きだの夜這いだのをするはずがないというのに、クロノアはお前ならやりかねないと言いたげな目をしていた。というより、そうしろ、と言っているようにも思えた。もし、そんな真似をすれば、問答無用でラビィを攻撃できる口実ができるから、と。
「……しかし、実際のところ、どうなのだろうか?」
確かに、入浴中や就寝中は警戒心が薄れてもおかしくない。
特に、生物は、就寝中が最も無防備だと言われている。いわば、意識を手放している状態なので、いざというときに一手も二手も遅れてしまうこともある。
(…ある程度の戦闘経験があれば、身体が勝手に殺気を感知するものだが…)
メアや七糸には、まず無理な話だ。兵士や騎士のように戦闘の訓練を受けたわけではないから、寝ながら警戒しろなんていうのは、眠ったまま湖を泳いで渡れと言っているようなものだ。
「…だからといって、私にはどうすることもできないわけだが……」
こういうとき、保護対象が異性だと苦労する。同性ならば、こんな面倒はないのだが――
そう考えて、ふと、七糸ならば、男同士だから一緒に泊まってもいいとか本気で言い出しそうで怖いなと思った。
「――さて、私はどうするか」
メアと話し合うことは、すでに決定事項だからいいとして、問題は、七糸だ。彼は、一体、何をどこまで把握しているのだろうか。コルカが言う通り、精霊に干渉するような能力があるのか、何故、生命を狙われているのか――訊きたいことは、それこそ山のようにあるが、そのほとんどに彼は答えられないに違いない。
狙われていることを自覚しているのならば、あの性格からして、他者が巻き添えになることを恐れて、自分の傍には誰も置かないようにするはずだ。それどころか、みんなを守るために、一人で行方をくらませるくらいのことはしてもおかしくない。そうしないのは、きっと彼が何も知らないからだろう。
(…ナイト殿についてわかることがあるとすれば)
必要な情報は、七糸本人からではなくメアからもたらされるだろう。そんな気がする。
「……とりあえず、私のほうでも情報を集めなければ…」
呟いて、起き上がろうと上半身を浮かせた。
そのとき、鈍く重い痛みが後頭部に走り、一瞬、視界が暗くなった。
「っっ」
倒れるようにベッドに横になり、呼吸を整える。そして、ゆっくりと痛みが和らいでいくのを感じながら、よく知った気配が近くにあるのに気づいた。
「……コルカ、いたのか?」
『…兄貴、あんまり動かねーほうがいいッスよ』
声が響いたかと思うと、ボッとオレンジ色の炎が目の前に出現した。
それは瞬時に二頭身の子供の姿に変わったかと思うと、何故か不機嫌そうに腕を組んでこちらを睨んできた。




