第三・五話其の二
すみません、其の一のサブタイトルがおかしなことに…。不覚!
《 第三・五話・其の二 》
「――邪魔されたな」
チッと舌打ちして、コルカの消えた空間を見つめる。
「…強制転送か。まあ、予想はしていたが、だんだんとやりかたが露骨になってきやがったな」
しかめ面で呟きながら、キールケは、ふと自分の隣を見つめた。
そこには、誰の姿もない。ただ、赤く照らされた草花が見えるだけ――のはずだが、
「……うん。でも、仕方、ない、よね」
たどたどしい少女の声が響いた。
その声に、キールケが笑む。それは、いつもの陽気さとは別の、穏やかな代物だ。
「――仕方ねえとか言うなよ、ジル。やっと、面白くなってきたんじゃねえか。もっと楽しもうぜ。やっと、待ち望んでたことが起きるんだからな」
ジル、という呼び名に反応して、キールケの隣にぼんやりと人影が現れる。それは、五秒ほどかけて質感を持ち始め、ようやくヒトらしい姿になる。
現れたのは、十二、三歳くらいに見える陰気そうな少女。細い手足を縮めるようにして体育座りしている様は、まるで暗闇に怯える幼子のよう。長いふわふわの金髪はわずかにくすみ、灰色の瞳は闇に濁っていて、生気が感じられない。薄紅色が似合いそうなふっくらとした唇は青ざめ、その表情はひたすら暗い。そのせいか、存在感も薄く、赤い草原を彷徨う幽霊みたいに映る。加えて、その声は無感情なほど抑揚がなく機械的で、喜怒哀楽を感じさせないが――キールケには、その瞳を見れば、すべてがわかった。彼女が悲しんでいるのか、喜んでいるのか。その心のうちにあるものが、何なのか。
(――まあ、わかって当然なわけだが)
メアのように心を覗くなんて悪趣味な真似をせずとも、わかる。少女・ジルことジーナクラルは、溺愛している妹であり、唯一無二の家族なのだから。
ジルは、どこか寂しそうに瞳を細め、キールケを――大好きな兄を見つめる。
「……ごめん、ね。ニィニィ。あたし、が、魔王、なんか、に、なった、から」
きゅっと小さな唇を噛みしめる。今にも泣きそうな横顔に、キールケは吐息した。
「んなこた、もう、どうでもいいんだよ。それより、魔法を解いてくれねえか」
その声に、少女はうつむき、頷いた。
「…わかっ、た。解く、ね」
言って、唇を動かせる。
言葉を発するわけではない。しかし、彼女の声なき声に反応して、キールケの周囲に青白い光の輪が生まれ、眩しく発光したかと思うと、わずか一秒ほどで変化が起きる。
どこからどう見ても、火竜にしか見えなかったキールケだが――今は、違う。
赤かった髪は、黄金色に変わり、腰を隠すほどに長く伸びている。身長はさほど変化がないが、面立ちは穏やかな青年のそれで、粗野な言動が似合わないほどに高貴なオーラを纏っている。そのくせ、身につけているのは平俗な服装で、まったく容姿に似合っていない。
それは、妹であるジルにも言える。愛らしい見た目と違い、服装は簡素で面白みに欠けている。兄も妹も磨けば光る逸材だというのに、何と勿体ないことか。
ジルは、見慣れた兄の姿にほっとしたように微笑み、きゅっと腕に抱きつく。
「――久し、ぶり、の、ニィニィ、だ。やっぱ、り、こっち、のが、いい、ね」
「そうか? あっちのほうが、羽があって便利だったんだけどな」
そう言って何もない背中を触る兄の様子に、少女は楽しげにくすくす笑う。
「羽、が、なく、ても、飛べる、のに。変、なの」
「いやいや、羽で飛ぶってのも、なかなかオツなもんだぞ? まあ、コツをつかむのに多少時間がかかったがな」
「――時間…」
ジルが、何かを思い出したように黒い空を見上げた。
「……もう、あまり、ない、ね。メア、が、あたし、を、殺しに、くる、まで、あと、どの、くらい、かな…?」
「――さあな。けど、それまでにやらなきゃいけねえことがまだ残ってるぞ」
妹の横顔を見つめながら、キールケが言う。
ジルが魔王でいられる間にやるべきことはたくさんあるが、実際に実行できる内容は限られている。
「とりあえず、ジル。コルカの話を聞いていたならわかったと思うが、また、世界の理が書き換えられた。書き直すことはできるか?」
コルカが言っていた、同一人物との契約回数の制限。少なくとも、自分たちはその法則を知らない。魔界のすべてを把握している魔王・ジルと、その兄であり、補佐でもある自分が知らないなんてことがあるはずがないのに。
しかし、そんなことは、これまでにいくらでもあった。魔王らしく、世界を自分たちの思い通りにつくり変えようとしても、何故か必ず邪魔が入る。その事実に気づいたとき、キールケとジルは確信した。
この世界には、魔王ですら抗えない強力な力が働いている、と。
自分たちは、この世界の王、もしくは支配者などではなく、ただの傀儡にすぎないのだと。この世界をとりあえずまとめ上げるためだけに選ばれた、都合のいい駒なのだと。
(…魔王の役目は、世界を守ること。それだけしかねえからな)
この世界が滅ぶことなく存続していけるように、管理するだけの役職。何もないときは、暗い城から出ることができず、外に出られるのは、治安維持のときだけだった。
しかし、メアが――次期魔王候補が生まれると、急に、城外に出ることを許された。というよりも、追い出されたというべきだろうか。
魔王城は、難攻不落。誰の目にも映らず、誰の侵略も受けない。
それ故に、城を出るということは、魔王が不死の属性を捨てることを意味している。
今や、ジルは、メアに殺されるためだけに存在しているといってもいい。そして、それは、運命を共にするキールケの死をも意味する。
しかし――素直に、そんな運命に殉ずるつもりなど、キールケにはなかった。
(……殺されるのは、まあ、どうでもいい。長く生きすぎたからな。俺もジルも)
気が遠くなるどころか、記憶が曖昧になるくらい延々と生き続けるうちに、キールケはある疑問を持つようになった。
魔王という存在が、この世界に本当に必要なのだろうか、と。
いずれ来る死は、安穏と受け入れられる。むしろ、早く終わらせてほしいくらいだ。しかし、どうしても許せないことがある。
病弱な妹が、魔王に選ばれたこと。望みもしないのに、運命からは逃れられず、彼女は魔王を殺し、暗い暗い魔王城へと囚われた。本当なら、人並みに遊んで、学んで、恋をして、幸福を得るはずの妹は、城の片隅でいつも泣いていた。寂しい、外に出たい、友達に会いたい、家族のところへ帰りたい。そう叫んで――でも、どんなに必死に望んでも、何一つ叶わないまま、次期魔王に殺されるためだけに生き長らえているなんて、理不尽ではないか。そもそも、魔王がいることで、この世界にどんな影響があるというのか。表舞台に立てない魔王に、存在価値があるのか。それに何より――何故、ジルがこんな目に遭わなくてはならなかったのか。哀れな囚人のような生活を強いられるほどの悪事を働いたことなどないのに――。そう思い続けたある日、メアが生まれたことで、転機が訪れた。
自由に外に出ることができるようになったのだ。しかも、魔王であるジルには、魔王特権なのか、世界に影響を与えるほどの大魔法が使えた。その力を使って、何かできないか。そんな話になったとき、キールケは、まっ先に、世界の破壊を考えた。魔王にされた妹の人生を犠牲にして、魔界の住人は楽しそうに生きている。そんなふうに見えたからだ。しかし、ジルは言った。魔王として、この世界を明るく楽しい場所にしたい。みんなが幸せになれるように、世界が平和になればいい。自分みたいに暗くて寂しい思いはしてほしくないから、と、そんな偽善めいた望みを口にした。
(…完全に許したわけじゃねえ。が、ジルのために残された時間を使うことに異論はねえからな)
そして、二人はいろんなことを考え、片っ端から、その願いを叶えていった。世界から争いがなくなるように、万能言語の魔法を編み出したり、小さな紛争を解決したり――思いつくことをやり続けていくうちに、ふと、ジルが呟いた。
次の魔王に選ばれたのは、どういう人なのかな、と。
その相手は、魔王というものがどんなに悲しい思いに満ちた存在なのか、知っているのだろうか。知らないならば、教えたほうがいいのではないか。そして、すべてを理解したうえで、魔王になるかどうかを決めてほしい。運命なんかではなく、自分の心で。強い意志で。自分のように、後悔してほしくはないから。
殺されることを知りながら、優しいジルは、彼女に会いに行こうとして――何故か、強制転送された。今回のコルカ同様に、どこかの世界に飛ばされてしまった。おそらく、メアと会わせたくない誰かがいたのだろう。おそらく、それは、魔王制度をつくりだした何者かに違いない。
それから、しばらくの間、ジルは帰ってこなかった。あとで話を聞いたところによると、次期魔王候補であるメアと別の世界で会えたのだという。そこで、彼女と何やら約束を交わしたらしい。その内容は内緒だと言われたが――なんとなく、想像がついた。
おそらく、ジルとメアは、似た者同士なのだ。
だから、メアはジルを殺さなかったし、ジルも、メアに自分を殺させなかった。魔王の代替わりが行われなければ、いずれ世界は衰退し、滅ぶ。そうとわかっていても、二人には何かしらの共通した考えがあったのだろう。
そうこうしているうちに、メアは七糸を連れて戻ってきた。そして――その日から、世界は大きく綻び始め、世界を支配している真の支配者が、ようやく尻尾を見せ始めた。魔王であるジルの行動に制限を加え、妨害工作までしてくるようになったのだ。
(――今は尻尾だけだが、いずれ、頭の天辺まで引き摺り出してやるぜ!)
そのためにも、七糸の存在は必要不可欠だ。彼女、いや、彼は、この世界においては滅びの神になりかねないが、同時に、魔王制度そのものを破壊できる鍵にもなる。魔界への影響力の強さからして、かなり強力な劇薬になるだろう。その際は、また一から世界をつくり直すことになるかもしれないが、それもやむなし。魔王なんてものがいらない世界になるのなら、それはそれでいい世界なのだと思うから。
だからこそ、キールケもジルも、すべてを懸けて臨んでいる。
理不尽な世界への、反逆。この歪な世界を、改革するために。
ただ、これが、凶と出るか吉と出るかは不明だが――。
(…少なくとも、ラビィにとっては、あの子の存在は救いになるはずだ)
竜族において、契約主への恋愛感情は狂気の末の惨死への序章だ。しかし――七糸は、この世界そのものを狂わせる原動力になっている。ということは、ラビィの呪いも、正常には働かないだろう。それどころか、想いや絆が強まれば強まるほど、竜族の能力は増していく。ということは、高い能力を保持したまま、正気を保っていられる可能性もある。
(――ここから先は、本気でどうなるか予測がつかねえからな)
七糸を守るためにも、ラビィ自身が死なないためにも、能力を高めておくに越したことはない。その点において、ラビィが七糸に惚れているという事実は、吉報以外の何者でもないが――どうしてもわからないことが、一つ。
(……あの子の正体が何者か、ということだよな)
いまだに接触できていない、謎の人物。川原七糸。
ジルもメアも、何か知っているらしいのだが、おそらく、何も教えてはくれないだろう。だから、あえて考えないようにしているが――…一度くらいは、接触を試みたほうがいいだろうか。そんなことを考えていると、
「…ニィニィ、書き、直し、終わっ、た、よ」
その声に、はっとする。
「あ、ああ、そうか」
「? どう、した、の? 心配、な、こと、何か、ある?」
大きな瞳が心配そうに見上げてきて、キールケは吐息した。
「――何でもねえよ。それより、これからどうする? 一応、改革に必要な撒き餌は放っておいたから、獲物がかかるまで、しばらくやることがねえわけだが」
兄の言葉に、彼女は、ちょっと考えてうつむいた。
「…あの、ね。ニィニィ、に、お願い、が、ある、の。いい、かな?」
指先をもじもじさせながら、上目遣いに見つめてくる。
それは、外の世界で活動するようになって、ときおり見せる仕草だった。
甘えたいのに、甘えかたがわからない。そんな、もどかしさを訴えるような眼差しに、キールケは、ぽんと小さな頭に手を置いた。
「おう、何でも言え。兄ちゃんにできることなら、何でもやってやるぞー?」
わざと乱暴に頭をわしわししてやると、きゃあきゃあ楽しそうに笑い――ジルが、微笑みを浮かべたまま、言った。
「――…これ、から、は、ずっと、一緒、に、いて、ほしい、の。用事、あって、も、一人、で、行かない、で。あたし、が、最期、まで、ニィニィ、を、助け、たい、から」
「…何だそりゃ。妹に助けられるほど、俺は弱くねえぞ」
平然と返しつつも――内心、驚いた。助けるだの守るだのは兄貴の領分で、妹はただ守られるだけの存在でいればいいと思ってきたから。
しかし、ジルは真っすぐな瞳で言う。
「うん。それ、でも。あたし、は、ニィニィ、の、最後、の、家族、だから。死ぬ、とき、は、一緒、が、いい。もう、守れ、ない、のは、嫌、だから」
そう言って、力いっぱい腕にしがみついてくる。その力強さと必死さから、彼女が何を思ってそんなことを言い出したのか、すぐに察しがついた。
次期魔王候補として生まれてからというもの、当時の魔王は、ありとあらゆる手を尽くしてジルを殺そうとした。殺される前に、殺す。そうすれば、自分は助かるとでも思ったのだろう。それは、あまりにも浅薄すぎる考えだったが――ジルの心を壊すには、充分すぎた。
魔王は、魔王候補を殺せない。そういう仕組みになっているせいか、前魔王は、ジルが自ら死ぬように仕向けようとした。町を焼き、家族を殺し、友を殺し、すべてを奪い尽くした。心優しいジルは、そのときのショックで、何とか生き残った兄のキールケ以外に心を閉ざした。そして――彼女は、仕組まれた運命に従い、前魔王を殺した。家族の、友の、街の人々の復讐を果たし――魔王城という暗い牢獄へ放り込まれた。
魔王となったジルが最初に行ったのは、魔王城への入城が認められる世話係を決めること。もちろん、兄であり、唯一心を許せるキールケが選ばれ、メアが生まれる日まで、二人は何もない薄い闇のなかで途方もない時間を過ごした。
魔王は、不老不死。その供となった者もまた、魔王と運命を共にする。
つまり、ジルが死ねばキールケも自動的に死ぬが、逆の場合は違う。キールケが死んでも、ジルは死なない。魔王にとどめを刺せるのは、魔王候補だけだからだ。
「…ニィニィ、は、あたし、が、守る、から。約束、する、から」
だから、独りにしないで、と、声にならない声が聞こえるような気がした。
「…ああ、俺も約束するよ。何があっても、お前を守るってな」
その言葉に、ジルが少しだけ泣きそうな顔になる。
守り、守られる。もはや、そんな単純な話ではないことを、彼女は知っているのだ。どんなに頑張っても、守りきれないものがある。それが、どんなに大事なものだとしても――必ず、失うことになる。それが、ジルの宿命なのだ。
(……魔王は、魔王候補に必ず殺されると決まってるからな)
そんなクソみたいな運命から守るために、自分は生きている。妹を救うことこそが、自分の使命であり、たった一つの望みだ。そのためならば、手段は選ばない。選んでいる暇などありはしない。
キールケは、漂い始めた陰気な空気を吹き飛ばすように、わざと明るい声を出した。
「――さて、と。やることがねえなら、街で買い物でもするか? 何でも買ってやるぞ。食いモンだろうが、ドレスだろうが、髪飾りだろうが」
「……何、でも、いい、の?」
ジルの瞳に、明るい光が灯る。女の子らしく、ショッピングが好きなのだ。
きらきらした目でこちらを見つめる妹の頭を撫でて、キールケはにやりと笑った。
「ああ、何でもいいが、五個だけな。お前、際限なく何でも欲しがるから」
魔王城はがらんとしていて何もなかったせいか、外に出ると、ジルは何でもかんでも欲しがるようになった。そのせいで、今は、身に着けるものすら最小限に抑えなくてはいけないほど金欠だ。しかし、先日、ようやくまとまった金が手に入ったので、久しぶりに出かけようと思っていたのだ。
「さあ、どこに行って、何が欲しいんだ? 兄ちゃんに言ってみろ?」
優しく細い背中を撫でると、彼女は、にっこりと笑い、
「――…うん、あの、ね」
くいっと腕を引いて、近づいたキールケの耳元に囁く。
「お買い、もの、終わっ、たら――お家、に、帰ろ? あたし、たちの、故郷。もう、ない、けど――まだ、ある、から」
「――っ」
予想外の言葉に、思わず息を呑む。
まさか、ジルがそんなことを言い出すなんて、思いもしなかった。二人の故郷。それは、思い出したくもないくらい嫌な記憶が染みついた、忌むべき場所だったからだ。
しかし――キールケは、反対しなかった。
「――…そうか。そうだな。たまには、墓参りくらいしてやらねえとな…」
言いながら、そっと目を閉じる。
もう、数えるのも馬鹿らしくなるくらい遠い昔に失った、祖国。
友も家族も、緑も、水も、光も、希望も。
何もかもが消え失せた、空虚な空間。
この世界のどこにもない、歴史すら語られない、虚無の地。
今では、深い深い海の底に沈んだ、幻の大地。
そこに帰ることは、難しくはない。だが、あそこは、魔王城と同じくらい――いや、それ以上に暗く、悲しい場所だ。
「…ジル。本当に、いいのか?」
辛くないのか、耐えられるのか。
あそこには、楽しい思い出以上に嫌な記憶が眠っている。
残虐な歴史。忘れられない、悲痛が。
しかし、ジルは頷く。
「…帰ら、なきゃ、いけ、ないの。だって、もう、すぐ――全部、終わる、から。メアが、きっと、世界、を、救って、くれる、から。だから、もう、いい、の。みんな、幸せに、なった、ら――あたし、は…ニィニィ、と、やっと、本当、の、お家、に、帰れる。パパと、ママと、お友達、の、いる、ところ、へ、行ける」
だから、悲しくない。
辛くない。
むしろ、嬉しいのだ、と彼女は笑った。
その笑顔は晴れ晴れとしていて、これまで見たなかで一番の輝きを放っていた。
キールケは、語る言葉もなく、ぎゅっと妹を抱き締めた。
「――…」
言うべき言葉が、何も見つからない。
慰めや、気休めなんかは必要ない。強い決意を胸に抱いた妹に、今、言いたいのは――言うべき言葉は、何なのか。考えようとして、やめる。
ただ、ただ。
ここにある温もりを、大切にしたい。
いずれ、失われるものだとわかっているから、なおさら、愛しくて切ない。
ジルは、そんな兄の想いに応えるように、その背をぎゅっと抱き返した。
「……ニィニィ、ありが、とう。あたし、の、傍に、いて、くれて」
彼女は、すうっと息を吸い――静かな瞳で、告げた。
「――…お墓、参り、し、たら……始め、よう。最後、の、お仕事」
きゅっと、指先に力が入る。その小さな力に、強い決意が託されていることを、キールケはしっかりと感じ取った。
「…そうだな。でも、その前に、まずは買い物に行こうぜ。せっかくだから、とびきりいい服を買ってやるよ。女は、着飾るのも仕事みてえなもんだからな」
「――…じゃあ、ニィニィ、が、選んで。一番、綺麗、な、服」
「おうよ、任せろ。兄ちゃんは趣味がいいからな」
「ふふ。自分、で、言って、る」
くすくすと笑い、ジルは、ゆっくりと頭を動かせて、黒い空を見上げた。
「――…あの、ね。あたし、本当の、空、を、見た、の。ナイト、の、世界、の、空は、ね。綺麗、な、色、してる、んだよ? 宝石、みたい、に、きらきら、したり、青だった、り、赤だった、り、白、だった、り、するの」
「ふうん。変な世界だな」
空に色があるなんて、奇妙な話だ。
しかし、彼女はどこか寂しそうに言う。
「…でも、綺麗、だった。初めて、見た、とき、にね。あたし、涙、が、出た、の。嬉しく、て、眩しく、て」
「――泣くほど綺麗なのか。そうか、なら、俺も一度は見ておきたかったな」
空に色があるとか、宝石みたいにきらめくとか。
とてもではないが想像できない。しかし、この世界の空にも、わずかに光が存在する。朝になれば、わずかに空の闇が薄くなる。
この世界を覆う闇がすべて晴れてしまえば、きっと、ジルの言う、綺麗な空とやらが拝めるのだろう。
もっとも、そんな日は一生こないかもしれないけれど。
しかし、ジルは、希望に満ちた瞳でこちらを見つめて言った。
「…きっと、見られ、るよ。だ、から、一緒、に、見よう、ね」
「――ああ、そうなったらいいな」
「うん」
ジルは嬉しそうに微笑んで、そっと、立ち上がった。そして、キールケに手を伸ばし、
「…だから、ね、ニィニィ。早く、行か、なきゃ。あたし、たち、には、時間が、ない、から」
そう言う妹の顔には、絶望感も悲壮さもない。これから、先――未来なんてものは、自分たちにないとわかっていながらも、彼女は優しく笑っていられる。そういう姿を見るたびに、敵わないなと思う。
女というイキモノは、軟弱そうに見えて、強い。それこそ、つまらない男の感傷を吹き飛ばすくらいに。
キールケはその細い手を握って、にやりと笑う。
「わかってるって。だから、今のうちに、やりたいことをやっとかねえとな」
言って立ち上がり、ひょいとジルの軽い身体を抱き上げる。
「んじゃ、まずは、お姫様の買い物に付き合うとするか」
「じゃあ、ニィニィ、が、王子様、なの?」
どこか不満げな声に、キールケが苦笑する。
「我慢しろよ。まあ、お前の好みからいえば、ラビィのほうがいいんだろうが」
「! 違う、よ。そんな、んじゃ、ない、から」
心なしか頬を赤らめて否定する妹をからかうように見つめて、キールケが地を蹴る。
それだけで浮力が生まれ、二人の身体が空に舞い上がる。
「しっかりつかまってろよ、ジル。飛ばすからな」
その声に応じて、ぎゅっとジルが服をつかんでくる。
それを確認してから、キールケはさらに上空へ飛び――…そのまま、二人は、溶けるようにして闇色の空に消えていった。
《 第三・五話 完 》




