第三話・其の六
《 第三話・其の六 》
――気づけば、先ほどまでの騒音は消え、見知らぬ場所に立っていた。
自分以外の何もかもが白に染まった、寒々しい世界。色を失ったのか、最初から色づくことを拒んだのかは知らないが、とにかく冷たくて、寂しい場所だった。
「……ここは、どこだ?」
目の前には、見たことのない景色が広がっている。
まっすぐに延びている真っ白な廊下は、天井が低くて窮屈な印象がある。横幅は、両手を広げて一メートル余る程度しかなく、左手側にはガラス窓が並んでいるのだが、そこから見える風景は、あまりにも殺風景すぎた。猫の額ほどのグラウンドらしき白い大地と、葉のない樹木が周囲を囲うように植えられている。視界の奥には、奇妙なほど細長い建物が背丈を競うように立ち並び、その頭上に広がる空も、これまた白い。
(……どこにも生命力や温もりを感じないとは…何とも、居心地が悪い)
魔界のように、自然と共に生きる気など皆無の、無機質な世界。そこに立っているだけで、周囲の白に、自分という存在や意識を塗り潰されそうな不安を覚えてしまう。
「……こちらには、部屋があるのか…」
ラビィの右手側の白亜の内壁には、いかにも安っぽいドアが一定の距離を置いて設置されている。そのドアとドアの隙間にはこれまた窓があって、そこから室内を覗くことができた。
「……勉学の場だろうか?」
広いとはいえない室内に、机と椅子が整然と並んでいる。そこに人気はなかったが、何かを学ぶ場だということだけは理解できた。
「…よくわからないが、とりあえず、メア様を探さなければ」
事態は未だ不明だが、おそらく、ここはメアの魔法でつくり出された世界に違いない。だとすれば、この白の世界から抜け出すには、彼女を見つけ出し、解放するように説得しなくてはならない。もっとも、それでおとなしく解放してくれるとも思えないが、とにかく、それ以外に道はない。
ラビィは、コツコツとブーツの底を鳴らしながら、無人の建物のなかを歩く。
一度、外に出てみようと思い、窓を開けようと試みたのだが、ぴくりとも動かなかったため、仕方なく、誰もいないであろう廊下と部屋を延々と探索することにした。
そして、小一時間歩き続けてわかったのは、ここは五階建ての冷たい白壁の建物で、無人だということ。それと――。
「……ここが、ナイト殿に関連する場所、ということだ」
一階の靴箱らしきものを調べていて、見たことのある文字の羅列を発見した。
――川原七糸。
以前、七糸に人間界の文字を教えてもらった際、これが僕の名前だよ、と書いてくれたことがある。
とはいっても、それを見たのは一度きりだったので、確かにそうだと断言はできないが――とにかく、この情報はこの世界から抜け出す大事な情報の一つであることに変わりはない。
「…しかし、一通り、廻ってはみたものの」
誰もいないし、時間が経っても何の変化も起きない。メアがいる気配もない。これでは、打つ手なしだ。
念のため、開かないであろうことを覚悟して靴箱の先に見える大きなガラス張りの扉を触ってみた。すると、きい、と軋むような音を立ててゆっくりと外に開き――。
「!?」
開いたドアの向こうから、なだれ込むようにして騒音が鳴り響いた。それは、無数の人々の声。笑い声、他愛ないお喋り、泣き声、悲鳴、怒声と様々で――…そのくせ、視界には誰の姿も見当たらない。それなのに、人の気配はあちこちに溢れている。ぞわりと嫌な予感に襲われて、ラビィは、外に出ることなく反射的に扉を閉めた。
「……何だ、今のは?」
声と気配はあるのに、姿だけが見えない。しかも、この建物のなかは恐ろしく静かだというのに、外は耳を塞ぎたくなるほど賑やかで――…一体、ここは、どういう場所なのだろうか?
疑問に思いながらも再び外の様子を窺おうとしたとき、手の甲に触れる冷たい感触に気づいた。
「……駄目だよ。外は、危ないよ」
「っ!?」
息がとまるかと思った。それくらい、気配がなかった。咄嗟に見やった視線の先にいたのは、見慣れた黒髪の人物。色のない世界にありながら、鮮やかな色彩を放つその人は――。
「ナ、ナイト殿、か…?」
ほっとして、その名を呼んだラビィだったが――その目が、瞬時にすがめられる。
(――…いや、違う。コレは、ナイト殿ではない!)
ざわり、と肌が粟立つ。
ラビィの手に触れているのは、確かに、七糸の手で。
その温もりも、指の細さも、穏やかな声までも、鮮明に記憶の片隅にインプットされていて、寸分の狂いもないというのに――…どうしてだろうか。目の前にいる彼は、彼ではないと確信できる。
「……っ、貴様は何者だっ!?」
七糸ではないと察した瞬間、乱暴にその手を振り払う。
すると、七糸の姿をした何者かは少し驚いたようにまばたきをして、薄く微笑んだ。
「…何だ、君にはわかるのか。面白いな。ふふ、竜族は勘が鋭い生き物なのか、それとも――…まあ、どうでもいいか。私が何者かなんてことは、実に瑣末な問題だよ。この世界においてはね」
「――瑣末、だと?」
ぐっと、ラビィの眉間に、深いしわが刻み込まれる。
「ナイト殿の姿を騙っておいて、何が瑣末なものか! 早く、正体を現せ!」
七糸は、ラビィにとって唯一無二の主なのだ。自分の生命よりも貴い存在なのだ。それなのに、そんな彼の姿を模倣してラビィを騙そうとした挙げ句、罪悪感の欠片もないとはどういうことか。
敵意をあらわにするラビィに、七糸の姿をした誰かがくすくすと笑う。
「ふふ、噂に聞いていたのとは違うね、君。随分と気が短い」
「っ、何がおかしいっ!?」
我ながら、どうしてこうも苛つくのかわからないが、不思議なほど気が立っている。
すると、その激情を逆撫でするように、彼は言った。七糸の穏やかな声と、愛らしい笑顔で。
「ははっ、おかしいに決まってるじゃないか。滑稽だよ、君は。とても――それこそ、腸が捩れそうなくらいに」
「っっ!!」
頭に血がのぼって、身体が動きそうになるが――七糸の手が、やんわりと制した。
「無駄だよ、どうせ、君には何もできやしないんだ。私がこの世界にいる限りはね」
「――…どういう意味だ」
声を押し殺して訊ねる。
すると、彼は馬鹿にするわけではなく、穏やかな目で告げた。
「…それはね、私が、君の一番大事な人の姿をしているからだよ」
「――っ!」
思わず、気勢が削がれる。
確かに、いくら偽物とはいえ、七糸そっくりの姿をしている相手に、手荒な真似などできるはずがない。身体が攻撃を指示しても、おそらく、心がそれを許さない。
(……確かに、ナイト殿は私にとっては最重要人物だが…)
何となくだが、彼の指摘には、もっと他の意味が含まれているような気がした。
「――…もう一度、訊く。お前は何者だ?」
わずかに怯みながら訊くラビィに、彼は静かな笑みを向けた。その瞳はどこか冷ややかで、ラビィの問いに答える気はないようだった。
「…私が誰かなんてことよりも、もっと大事なことがあるだろう? たとえば、ここがどこなのか、とかね」
「…そんなことは、すでにわかっている。どうせ、メア様がつくった幻術か何かなのだろう」
淡白な答えに、彼は苦笑した。
「へえ、本当にそう思っているのだとしたら、君はかなりの天然だね」
「……何?」
思わず、間の抜けた声が出た。
七糸の姿をした何者かは、からかうような口調で――それでも、真っすぐにこちらを見つめたままで言う。
「…私が何者なのか、と君は訊いたね。でも、それは言えないんだよ。言ってはいけない決まりだ。しかしね、可哀想じゃないか。何の警告もなく、こんな場所に飛ばされてしまうだなんて――ああ、あまりにも哀れすぎるよ。メアは、本当にひどい子だ。いつまで経っても、癇癪持ちで困るね」
聞き慣れた不吉な名前に、ラビィがはっとする。
「! お前は、メア様の知人なのか?」
放たれた問いに、彼は切なげに瞳を細めた。
「――さあ、どうだろうね。だが、一つ言えることは、メアは本気で君を殺したがっているということだ」
「…何?」
言われて、思い出す。あの真っ赤なカードに書かれた言葉。殺意に満ちた、あのメッセージ。そして、悪意の塊でできた魔法陣が、脳裏をよぎる。
三重の円に、複雑な古代文字が緻密に書き込まれ、中央には動物の角のような絵があった。
同一のものではないが、以前、戦場で似たような魔法陣を見たことがある。おそらく、封じられていたのは、精霊の力を借りずに行う特殊な攻撃魔法。その威力は、精霊魔法には劣るものの、殺傷能力がないわけではない。
思わず黙り込むラビィに同情の眼差しを向け、彼は続けた。
「ここは、いわば、生と死の狭間のような場所だ。まあ、正確には、ちょっと違うんだけどね。でも、ここで彷徨い続ければ、遠からず肉体は滅び、どこにも行けず、帰れなくなる。私のようにね」
「――…生と死の狭間…? ここが…?」
呟いて、そっと周囲を見渡してみる。白一色で塗られた、未知の光景。殺風景で、寒々しいくらいに何もなくて、自分たち以外、誰もいない。そのせいだろうか。静かな廊下に響く彼の話し声は、どこか空虚でもの悲しい。
「その話が真実だとすれば――」
ここが、本当に生死を分ける場所だとするのなら。
「…私は、今まさに、死にかけているということか?」
ぞっとしない話だが、ありえないとは言い切れない。あの魔法陣が発動した瞬間に何が起きたのか、ラビィは覚えていないのだ。死ぬほどひどい目に遭ったという記憶もなければ、遭っていないという記憶もない。何より、ここにメアがいないという事実は、彼女のつくりだした幻覚に捕らわれているのではない証拠のような気がする。
「……だとすれば、私はこのまま死んでしまうのか?」
コレといった恐怖も実感もないまま、ぼんやりと確認する。しかし、彼は、明確な返答を避けて、代わりに苦笑を返した。
「…ふふ。私の言葉を信じるなら、そういうことになるね」
少年はどこか寂しく笑い、目を伏せる。
「…まあ、そう心配せずとも、きっと、君は帰れるよ。そうでなくては、こちらとしても引きとめた甲斐がないからね」
「――引きとめる?」
何とも意味ありげなセリフに、ラビィが眉を寄せる。それにまばたきを返して、彼は、少し明るい口調で話題を変えた。
「それにしても、不思議だね。君は、稀有な四枚羽の竜のくせに、何故、こうも容易くメアに殺されかけているのかな? もしかして、まだ主が決まっていなくて本領発揮できてないとか?」
上目遣いで訊かれ、ラビィはきょとんとした。
「? 何を言っている。私の主は、ナイト殿だ。お前が今、その姿を借りているではないか」
指を差すラビィに、彼は少し考えてから、
「――あ、そうか。つまり、アレか!」
ラビィを見つめ、憐れむように優しく微笑む。
「契約破棄されたか、契約を拒まれてるんだね。片想いって奴だ、可哀想に。ははっ」
歯に衣着せぬ言いかたに、ぐっさりと胸に鋭い何かが突き刺さった。
(……な、何故、こんなにも胸が痛むのだろうか?)
他愛ない一言のはずなのに、ひどく心が傷ついている。これまで、精神力がないだの騎士として不充分だの甘すぎるだのといろいろ言われて落ち込んできたが――今回は、かつてないほどの破壊力をもっている。
(…片想いなどと、不適切な単語は、私には当てはまらないというのに)
それを耳にした瞬間、過剰なまでに反応してしまったのは、どうしてだろう。
ただ純粋に、主である七糸を守りたいと思っているだけなのに。恋だの愛だの、そんなものは無関係に、ただ、竜の本能に従っているにすぎないのに。
何故、拒み続けてきた真実を突きつけられたような気分になるのか。
(――おそらく、この者が、ナイト殿の姿をしているせいだ…)
七糸の顔で、声で、仕草までも似せて、契約破棄だの何だのと言われたから、きっと動揺してしまっただけなのだ。そうだ、きっと、そうに違いない。決して、片想いだなんて、自分とは無縁の言葉に反応したわけではない。
ラビィは、胸に冷たい焦りのようなものを感じながら、彼に頼んだ。
「…すまないが、その姿でいろいろ意見するのはやめてもらえないだろうか。どうにも落ち着かないのだ」
しかし、その要求は、あっさりと却下された。
彼曰く、
「それは、無理だね。私には自分の姿を選ぶことはできないんだ。君の心が変わらない限り、この姿のままだよ。少なくとも、君の視界においてはね」
つまり、彼には肉体がないため、固有の姿を持たず、見る者の心を反映して、ようやく仮の姿を手に入れることができるのだそうだ。
要するに、ラビィの心に七糸への強い想いがある限り、彼は別の姿になれないということになる。
「まあ、そういうことだから、その点は我慢してもらって――」
言って、視線を正面玄関の扉へと移動させる。
「…ここから先は、本当に危険なんだ。連中に見つかったら、本当に死んでしまうからね。とりあえず、上に移動しよう。ゆっくりしている時間はないけど、よければ君の話を聞かせてくれないか。何か助言できることがあるかもしれない」
言いながら、小柄な背中が、颯爽と歩き出す。
それを追いかけようとしたラビィは、ぎょっと目を剥いた。
「ち、ちょっと待て! その服装は何なのだっ!?」
改めて見ると、七糸は、見たこともない服を身に纏っていた。濃紺のかっちりした上着に、紅色に白のストライプの入ったネクタイ、そして――灰色に紺と赤のチェック入りのプリーツスカート。そう、ほっそりとした太ももが見えるほどのミニスカートが、動くたびにひらひらと頼りなく揺れている。
「な、何故、そんなものを穿いているのだ!?」
スカートを指差し訊くラビィに、彼は目をパチクリさせた。
「え? 何故も何も、この子、女の子だからじゃないの?」
「ち、違う! ナイト殿は男だ!」
「そうなのか? でも、君にとっては女の子だよね? 私は、君の心にいるあの子の姿を忠実に再現しているんだから」
「――っっ」
絶句する。そんなはずはないと言い返すべきなのに、そうできなかったのは――それが真実だからだ。
沈黙してうつむくラビィの様子に、彼は小首を傾げた。
「…随分と複雑な事情があるみたいだけど――ナイトちゃんが女だと困ることがあるのかな?」
「こ、困るというか――ナイト殿は、ずっと自分を男だと言い張っているからな。私もそのように扱うように心がけているのだが」
促されるでもなく、並んで階段を上がりながら、ラビィはぽつぽつと事情を話し始めた。
引きこもっている間中、考えていたこと。七糸との契約のこと、彼への微妙な心境の変化、騎士としての不甲斐ない自分のこと、そして、コルカの抱える事情まで。
見知らぬ相手だというのに、不思議なほどすんなりと言葉が出てきたのは、彼が聞き上手だからというよりも、単に、胸のなかのもやもやを吐き出したかっただけかもしれない。
話し終えてから、迂闊にも喋りすぎた自分の口の軽さに自己嫌悪に陥ってしまう。
一方、話を聞いた彼は、軽く腕を組み、
「――ふうん、つまり、こういうことだね」
どこか楽しむ素振りを見せながら、自分なりに内容をまとめてみる。
「君は、メアのせいで不本意ながらもナイトちゃんと主従契約を交わした。とりあえず、これまでは特に問題もなく過ごしてきたのに、あるとき、ふと気づいてしまったわけだ。これまで男扱いしてきたものの、ナイトちゃんはただの可愛い普通の女の子じゃないのか、と。そして、君は、そんなことを考える自分自身が許せないでいる。まあ、見た目は女の子なわけだし、そこで罪悪感を感じる理由が、私には理解できないんだけれどね」
確かに、一般的な感覚でいえば、おかしなことではないのかもしれない。しかし、ラビィにとって、それは七糸に対する裏切り行為に等しい。
「他の者がどうあれ、私は、騎士だ。ナイト殿が自分を男だと言い張っている以上、仕える騎士としてそのように扱わなくてはならんのだ。個人的な見解で女性のように扱うなど、主への不誠実な行為でしかない」
「堅いなあ。ま、それも個性だよね。で、話の続きだけど」
呆れ口調でぼやき、彼は、再びラビィの話をまとめ直す。
「それで、大事な主を女の子として意識するあまり、接しかたがわからなくなって、主従関係がうまく築けなくなった。そんなときにナイトちゃんが原因で、火の精霊との契約までおかしな具合になってしまったわけか。しかも、その精霊にとって、契約破棄は生死にかかわるから何とか契約を維持したいけど、そのためにはナイトちゃんとお別れしなくちゃいけないかもしれない。でも、君個人としては、大好きなあの子の傍を離れたくない。そういうことだよね?」
「――…多少、語弊がある気もするが、概ね合っているな」
ラビィの頷きに、彼は満足げに微笑んだ。
「精霊をとるか、ナイトちゃんをとるか。つまりは、友情と愛情のどちらを優先すべきか迷ってるってことか。究極の選択って奴だね。何か修羅場っぽくて、青春って感じがするよ。若いっていいねえ」
「――茶化さないでもらえるか」
こちらは真剣に悩んでいるのに、楽しげに笑うとは何事か。責めるようにじっとりと見据えてやると、彼は、そっと組んでいた腕を解いた。
「茶化してなんかいないさ、くだらない悩みだとは思っているけれどね」
「――くだらない? どういう意味だ、それは」
ラビィが心を閉ざし、引きこもって悩み続けるほどの難題を前に、彼はあっさりとした口調で――しかし、真面目な目つきで言う。
「…大事なもの二つのうち、どちらかを切り捨てなくてはいけないのだとしたら――…それは、もはや、君一人の問題ではないんだよ。どちらかを取って、もう一方を失う。それを決めるのは、君自身なのだとしても――それでも、相手にも権利があるということを忘れてはいけないよ」
「権利?」
「そう。君がどちらを選ぶのか、その理由を聞く権利と、それを受け入れる、もしくは、拒むという権利がね。だから、君は、何もかも素直に話さなくてはいけない。君の大事な人たちに」
「――話す、だと? 私が、ナイト殿とコルカに…?」
そんなこと、考えたこともない。どちらも大事で失いたくないからこそ、どちらも選べないし、選びたくない。
(…いや――本当は、もうとっくに答えは出ているはずなのだ)
コルカの生命が懸かっている以上、早々に七糸との主従契約を断ち切り、メアの元を去るべきだ。それくらいわかっているのに――一方では、そんなことはできないと思っている。そんなことはしたくないと、拒絶する自分がいる。
(…また、途中で、騎士としての役目を放棄することになるからか?)
前の主との契約を切ったとき、もう二度と、中途半端に仕事を投げ出すのはやめようと心に誓った。どんなに不本意であろうとも、どれだけ辛いことがあったとしても、何かから逃げるような真似はしたくない。ましてや、か弱い七糸を見捨てて離脱するような真似だけはしたくない。
(……そうだ。私は、ただ守りたいだけなのだ)
命令ではなく、自分の意思で強くそう望んでいる。それが許されるかどうかは別として、自主的にこんなふうに感じるのは、七糸が初めてだ。
初めてだからこそ――いろんなことがわからない。この執着にも似た使命感が何なのか。
(…しかし、こんなものは、恋愛感情などではない。たぶん)
恋愛感情というものがどんなものかは知らないが、とりあえず、メアの様子を見ていると漠然とではあるが想像がつく。
とにかく、盲目的で、何を言っても聞く耳を持たず、ひたすら二人の未来を妄想する。相手の言動に一喜一憂して、どんなに振り回されても、それを迷惑とは思わずむしろ幸福だと感じてしまえる。そういう、ちょっと脳が馬鹿になっている状態のことを恋愛と呼ぶのだろう。
(――…私の場合、ナイト殿と主従関係を結んでいるからな)
盲目的とまではいかないが、なるべく主の言動を肯定的に受け入れるのは騎士として当然の務めだし、あれこれ気を揉んだり、ちょっとした言動で凹んだり喜んだりするのも仕方がいわけで――。
そこまで考えて、ふと、コルカが言っていたことを思い出す。前の主のときは、ラビィはこんなふうではなかった、と。四六時中、七糸のことばかり考えているのはおかしい、と。そう言っていなかったか?
(…あのときは、ナイト殿の頼りなさを心配しているからだと答えたが…)
当然ながら、騎士にも、プライベートな時間が与えられている。かつては、休日ともなれば友人と遊びに行くこともあったし、勤務時間外には、読書をしたり、コルカと新魔法の研究をしたこともあった。しかし、今はどうだろう。寝ても覚めても七糸のことが頭から離れず、常に彼のことばかり考えて行動しているではないか。特別狙われているというのなら話もわかるが、これといって七糸の身に危険があるわけではない。いくら彼が無防備すぎるとはいっても、四六時中見張っていなければいけないほどの緊急事態に陥っているわけではないというのに――どうして、こんなにも気にかけてしまうのか。
居心地の悪さに黙り込むラビィを優しく見つめ、七糸の姿をした誰かが言う。
「秘めたもの、後ろめたい何かがあるとしても、それすらもすべてさらけ出すことができれば、そこから見えるものがあるかもしれないよ」
「……わ、私は、別に、ナイト殿に不埒な思いを抱いているわけではないのだ」
それは本心のはずなのに、ひどく空虚なセリフに思えた。
思わず、言い訳めいた言葉を口にしたラビィに、彼は静かな瞳を向ける。
「――心をさらけ出してしまえば、そこで何かが終わるかもしれないし、逆に新しい物語が始まるかもしれない。君の場合、何もしないことのほうが罪悪だと思うね。特に、契約はきちんとしておいたほうがいい。そうでないと、後悔することになるよ」
その目はどこか冷酷で、まるで、不吉な予言者を連想させた。
「……後悔…?」
心なしか緊張した空気が二人の間を駆け抜ける。ひやりと、周囲の温度が下がった気がした。
七糸の姿をした何者かは、そっと窓ガラスに指の腹を這わせ、視線をラビィから外した。
「――私は、世界の理から外れたところにいるからね。君たちの知らないことを知ってるんだよ。だから、これだけは言える。君があの子との契約を切れば、その時点で、あの子の未来は閉ざされてしまう。できるなら、それだけは避けてほしい」
「……それは、死ぬということか?」
脳裏に思い浮かんだのは、コルカと七糸の笑顔。
「――…お前の言うあの子とは、コルカのことか? それとも……」
それから先の言葉が続かない。
ラビィの視線を受けた彼は、物憂げに目を閉じた。
「…これは、いわば、反則だ。けれどね、私はメアにもあの子にも救いが必要だと思っているんだよ。だから――君は、すべてを話して決断しなくてはいけない。大事な人を守りたいと心からそう願うのなら、切り捨てる痛みに耐えられるだけの強さを持たなくてはいけないよ。そうでなければ、何もかも失ってしまう。そう、失ってからでは、遅いんだよ。特に、あの子は――ナイトちゃんは、そう遠くないうちに殺される運命の子だからね」
「…な、に…?」
耳を疑う。
今、彼は何と言った?
「…ナイト殿が殺される、だと? どういうことだ?」
詰め寄ると、彼は憂鬱そうに声を小さくした。
「――あの子は、本来ならとっくに死んでいるはずの子なんだ。メアが助けたことで、世界の理が大きく崩れた。本来、いないはずの人間が世界に及ぼす影響は計り知れないからね。何が起きてもおかしくはない。いや、起きないほうがおかしいんだ。おそらく、君と精霊との契約が強制的に破棄されたのも、あの子に深く関わったせいだろうね。きっと、他にも影響は出ているはずだ。目に見えないだけで。誰も気づかないだけで――」
「そ、そんなことが信じられるものか」
即座に否定する。
七糸が本来ならば死んでいるとか。
メアが彼の生命を助けたせいで、世界がおかしくなったとか。
「ナイト殿は、至って真面目で優しい性格なのだ。殺されるとか、そういう物騒な言葉は似合わない。一体、何の根拠があってそのようなでたらめを言う?」
睨みながら言ってやると、彼は静かに閉じていた瞼を上げて、小さく微笑んだ。
「――…言っただろう、運命だって。あの子が死ななければ、世界はどんどんと綻んで壊れてしまう。だから、誰でもない、世界そのものがあの子を殺すんだ。自己防衛だよ。それも、世界規模のね」
七糸を殺すことが、自己防衛?
しかも、世界規模の?
何だ、それは?
「…そんな意味不明な事態があっていいものか!」
世界が、理が、何だというのか。そんなことは、ラビィにとってはどうでもいいことだ。
七糸が生きている以上、自分の傍にいる限り、ただ守り続けるだけだ。
そもそも、七糸が殺されるなんて事態が起きるとも思えない。そんな兆しすらない。それなのに――迂闊にも、不吉な言葉を信じてしまいそうになるのは、彼があまりにも真面目な顔つきをしているせいだ。
「そう、あまりにも理不尽じゃないか。あんなにいい子が何も知らされず、意味もわからないまま殺されるなんて。だから、メアはあの子を守ろうとしている。それこそ、世界を敵に回す覚悟でね」
「…メア様が、守る?」
思えば、あの自己中女のメアが、不自然なほど彼の傍にいる理由を一度も確認したことがない。単純に、惚れた相手に他人が近づかないように見張っているのだとばかり思っていたが、もしも、本当に七糸の身に危険が迫っていて、最悪の事態を危惧しているのだとしたら。
(……メア様は、それこそ生命を懸けてナイト殿を守ろうとしているということか?)
彼女の魔力が高く、誰も逆らえないほどの精神感応能力があるとはいっても、結局は非力な少女にすぎない。もし、鉄壁だと思われていた魔法が破壊されてしまえば、身を守る術は何もない。武の才がない彼女は、物理攻撃の前ではあまりにも無防備すぎる。
(――それでも、ナイト殿には何も知らせず、最後まで一人で戦うつもりに違いない)
そうだとすれば、彼女の言葉の数々に納得がいく。
いきなり世界を敵に回す発言をしたり、七糸を魔王に祭り上げようとした理由も。
(…魔王城は、この世界において唯一の侵入不可能領域だという話だからな)
魔王城は、どこにあるのか未だに知らされておらず、他者の目に触れることがないため、外部からの侵入者に怯える必要がない究極の安全地帯。それが、魔王になった段階で自動的に手に入るのだ。しかも、世界最強という肩書きも手に入るため、無闇に生命を狙う輩は大幅に減るに違いない。しかし、一方では、自らの力に自信のある者は無謀にも向かってくるようになるだろう。選び抜かれた猛者が知略を巡らせ、力にモノを言わせてきたら、自衛の術を持たない七糸に身の危険が及ぶ確率がないとはいえない。
(……ナイト殿は、私以上に甘いからな)
たとえ、難攻不落の城に身を隠したとしても。
どんなに鉄壁の防御陣を敷いたところで。
あの平和ボケした、警戒心の欠片もない七糸の性格を逆手に取られれば、何もかもが無価値に等しい。そう考えていくと、別の疑問がわいてくる。
「…メア様は、本当にナイト殿を魔王にしようとしているのだろうか?」
魔王になれば、世界を支配できると同時に、身の危険も増える可能性がある。それならば、メアの屋敷の敷地内でひっそりと暮らすほうがよっぽど安全なのではないだろうか。少なくとも、ちょっとやそっとでは、メアの結界を破ることなど不可能なのだから。
思わず漏れたラビィの呟きに、七糸の姿をした彼が言う。
「…ここだけの話、魔王は、ある時期までは生命が保障されているんだ。つまり――次期魔王候補が現れるまでは、傷つけることすらできない。そういう設定になっているからね」
「――設定…?」
まるで、誰かが世界を舞台に、物語を創作しているような言いかただ。
引っかかるものを感じながら彼を見やると、苦々しい声が返ってきた。
「――…詳しくは私にもわからないけれどね。君は、感じたことがないかな? まるで、遥か彼方から、誰かに見られているような、操作されているような、不自然な感覚を」
「…いや、私にはないが」
「――……そうか、まあ、普通はそうなんだろうね。しかしね、メアや私のように、精神感応能力の高い者には、あの世界は、不自然極まりないんだよ。ときどき、その場にいない、誰かの声が聞こえるときがある。それは、忠告であり、恫喝の声でもあるんだ」
彼は視線だけを上空に向けて、心なしか低い声で言う。
「……忘れてはいけないよ。君たちの世界を見ている誰かがいるということを。魔王すらも手駒にしている、何者か。それは、世界を存続させるために、ありとあらゆる手段を使う。ナイトちゃんがやってきたことで、世界は狂いかけているからね。この状況で、何も仕掛けてこないはずがない」
「…それは、近々、ナイト殿の身に何かが起きるということか」
ひやりとした緊張感が漂う。
彼は肯定も否定せずに吐息して、ラビィをじっと見つめた。
「…メアは、あの子のためなら、どんなことでもやってのけるだろう。たとえ、結果的にあの子に恨まれるとしても。君は、どう? メアのようにすべてを懸けて、何もかもを捨ててでもあの子を守るだけの覚悟はあるのかな?」
「……私は…」
正直、よくわからない。
七糸の抱える事情なんて全然知らないし、メアの彼への気持ちがどれほど強いのか想像すらできない。それどころか、現状がどれほど緊迫しているのかすら何も知らされていないのだ。
(……そう、何も知らないのだ、私は…)
七糸のことは心配だし、守りたいと思うのに、これまで深く詮索することはなかった。思えば、彼がどうやって魔界にやってきたのかとか、あちら側の世界のこと、七糸やメアの抱える事情なんかも、ほとんど訊いたことがない。それは、興味がなかったというよりは、訊くべきではないと判断したからだ。
騎士たるもの、余計な詮索はしない。ただ、義務的に主を守り続ける、それだけでいいと思っていたから。
しかし、今は、無関心だった自分を激しく非難したくてたまらない。
(…もし、本当にナイト殿に死の危険が迫っているのだとしたら――)
事情を詳しく知っていれば、対処できることが増えるし、いざというときの選択肢も増える。知識は、使いかた一つで、武器にも防具にもなるのだ。
「――とにかく、話を聞かなければ」
七糸やメアと、もっと腹を割った話をするべきだ。七糸の事情を始め、コルカのことや、不安定な主従契約の件もある。何より、自分自身の七糸への気持ちの整理もしなければ身動きがとれない。
そう決意した横顔を満足げに見やり、七糸の姿をした彼が口を開く。
「…君たちには、あまりにも会話が足りていない。互いのことに無頓着すぎたんだ。致命的なまでにね」
そう囁くように告げた彼が、ふと天井を仰ぐ。それを待っていたかのように、聞き慣れないチャイムの音が響いた。
キィィィン、コォォォン、カァァァン、コォォォン――。
間延びしたような歪な音。耳を塞ぎたくなるような大音量に、ラビィが顔をしかめる。
それを一瞥して、彼はにこりと微笑み、
「――…そろそろ、時間だね。もう二度と会うことはないだろうから、最後に一つ、いいことを教えてあげるよ」
囁くように、ラビィに告げる。
「私だけしか知らない、メアの秘密さ」
「――メア様の秘密…?」
そんなものに興味はないが――彼は、ぐいっとラビィの腕を引っ張って、そっと耳打ちした。
「……彼女に会ったら、こう言ってごらん。ララリックは元気か、とね」
「ララリック?」
聞いたことのない響きだ。一体、誰の名だろうか。
首を傾げるラビィに、彼は楽しげに微笑んだ。
「――ふふ、そう言えば通じるはずだよ。その名を出されれば、メアもおとなしく君の話を聞くだろう」
「…ララリックとは、誰のことだ?」
気になって問いかけてみるが、それには応えず、彼は凛とした声で告げた。
「――さあ、早く帰りなさい。君を待つ、残酷な運命の袂へ」
「っ!?」
静かな声音なのに、それは爆風を伴って発せられた。
踏ん張ることも、羽を動かせることもできず、あっという間に、廊下の奥まで吹っ飛ばされた。
白い壁に激突するかと思われたが、何の衝撃もなく、ただ、ただ、無音のまま、視界が暗くなる。
(――早く。とにかく早く、帰らなければ…)
やらねばいけないことが、山積している。
まずは、メアや七糸、コルカと話をして。
七糸に危険が迫っているのならば、その対処法を考えて。
どうすれば、コルカを助けられるかを思案して。
七糸との契約についても疑問と不安が残る。
他にもいろいろ、考えなくてはいけないことがある。
それなのに――じわじわと、意識が深い意識の底に沈んでいくのを感じる。
目の前が完全に暗転してしまって、四肢の感覚が闇に呑まれていく。しかし、怖いとは思わない。静かな水面に浮かんでいるような穏やかな気分で目を閉じた。
そして――彷徨う魂は、あるべき場所へと引き戻されていった。




