episode1....可愛 凪
私が偶然入ったこの店は、代官山には探せば他にもある夜カフェスタイルだった。
今の時間帯は、定時上がりの人達が立ち寄って帰ったすぐ後位の時間らしい。だから、さほど人はいなかった。
ドアを開けた時本当に迷子のような顔をしていたらしく、カウンターの両隣に座る人達からすごく心配された。
注文はどうするか聞かれたけれどどの紅茶を選べばいいのかわからなくて、助けて!と目線を送ったところ隣の女性がちょっと嬉しそうにクスクス笑いながら頼んでくれた。
落ち込んでるみたいだから、そんな人にはこれよね!と。
因みにマスターと呼ばれる彼はただにこにこしながらその紅茶を出してくれた。
「……はい、どうぞ」
差し出された白いカップに鮮やかに注がれた、ブルー。
こんな紅茶はみたことがない。
「あの、これは?」
「…マローブルーといいます。お疲れの様でしたので、カフェインのないハーブティーにしてみました」
ゆるく微笑みながらマスターは言った。
横から女性も言う。
「あのね、それすごく綺麗でしょ?そのまま飲むよりもっと美味しくてもっと楽しめる方法があるのよ!」
マスター、蜂蜜とレモンは?と女性は楽しそうに言う。
するとマスターもちょっと面白そうに、花音さんが言いたそうだったから出さなかったんですよ、と返す。
そうして、レモンを渡された私は…まあ入れればいいという事だろうか。青い水面に、きゅっとレモンを絞ってみた。
「…わああ!!わー!!何これ、すごい!!綺麗…!」
先程までの水色が、レモンで綺麗なピンクにふわふわと変わっていったのだ。
「ね、すごいでしょ!」
なんだか得意気な花音さんだけれど、本当にすごい。誰か知らない人に自慢したくなるのもわかるかも。
ハチミツも加えてもらって飲んでみたら、レモンティーのようだった。
でもこれは、ハチミツもレモンもあの後マスターに更に加えてもらったものだからちょうどいいのかもしれない。
自分で本当に美味しいレモンティーなんて作れる気がしない。
綺麗…美味しい…幸せ…とセクハラキツネの事も忘れてにやけていたその時、右隣の紳士がふと私に話しかけてきた。
「君はもしかして、K社の人かな?」
「へ?…え、えーと…」
店に入った時は疲れてイライラしている気持ちのままカウンターについたものだから、心配してもらっていた時もちゃんと顔を確認したわけではなかった。
素敵な女性に紳士だー、なんて思っていた。
でも、うちの会社の名前って。K社って。どうしよう。
この人誰だろう。
仕事上でここまでパニックになったことはなかった。
パニックになる前に処理できる能力はあると自負していた。
そんなことなかった。1度関わった取引先の仕事関係者は覚えるようにしているから違う筈だけど、もし社内の上司だったらどうしよう。ここは…
「もっ…申し訳ありません!K社企画部の可愛 凪と申します!初対面かと思っておりましたが、K社の方…でしょうか!」
どうみても私より上なので、ばっと立ち上がり腰を曲げる。
そんな私を見て彼は驚いた様に目を少し開いた後、ふっと顔を崩した。
「いや、すまなかった。まあ一応K社なんだけどね。見かけた事があった気がしたものだから」
うん。それでどなたなんでしょうか。ニコニコと相好を崩したままの紳士にちょっと礼儀捨てたくなったのは秘密。
こっちはやっと休めると思ったら爆弾落とされた気分なのに!
「もう、御羽間さんたら可哀想じゃないですか。凪ちゃん疲れてるっぽいのに」
と、横から女性…花音さんの声が!この人本当にいい人…!
ん?御羽間…?
「ん?別に私は何もしていないが…あぁ、名前も言ってなかったかな。私はK社の会長をしている御羽間龍太郎だ。企画部、これからも頑張ってくれると助かるよ」
「……は」
う。
うそおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!