赤い煙の下で
赤い煙は、別れのクラッカーだった。
朝倉一郎は、幼なじみの春花と結婚した。
生まれた家は隣同士。幼稚園も小学校も中学校も同じ校舎で過ごし、高校と大学は「離れない」と二人で話し合って進路を選んだ。
職場も同じ会社。必然のように、二十五歳で籍を入れた。そしてまもなく、愛娘・瑞穂を授かった。
彼らのささやかな幸福は、家族三人でのキャンプだった。その日も、茨城の低山にテントを張った。
目の前には霞ヶ浦が銀色に広がり、夕焼けが湖面を染めていた。風は穏やかで、木々のささやきだけが世界を満たしていた。
だが、夕食の最中、異変が起きた。
ネットに体を絡め取られたハクビシンが、よろよろと現れた。母親だろう。ほとんど力尽き、横たわっている。
その傍らに、幼い子が怯えた目で寄り添っていた。
一郎は迷わずネットを切り、水と残り物の肉を分けた。母親は弱々しく水を飲み、子を背負うようにして山の闇へ消えていった。
夜が更けた。テントの中で三人、寄り添って眠りに落ちた直後――ドン、という重い衝撃がテントを襲った。
地面が揺れ、悲鳴が上がる間もなく、世界が傾いた。崖だ。テントごと奈落へ落ちていく。
枝が体を何度も抉り、皮膚を裂き、骨を軋ませた。一郎の意識は闇に飲み込まれた。目が覚めたのは翌朝だった。
崖下の岩場に投げ出され、体中が血と泥にまみれていた。
眼下の谷底に、赤いテントの残骸が見えた。動かない。
「春花! 瑞穂!」
声は枯れ、返事はない。
イノシシだろう。一郎は己の愚かさを呪った。あの場所にテントを張った自分の浅はかさを。再び意識が薄れ、夢を見た。
春花と瑞穂が、微笑んで立っていた。白い光の向こうで、二人は穏やかに手を振る。
「今まで、幸せだったよ」
春花が言った。
「旅立つ私たちに、クラッカーを鳴らして送ってね」
瑞穂が笑う。
「できない…お前たちを、送れない…!」
涙が溢れる。
一郎が顔を覆うと、小さな手がハンカチで頰を拭った。瑞穂の手だった。柔らかく、温かい。
目を開けると――ハクビシンの親子が、すぐ目の前にいた。
母親の目は、昨夜とは違う、静かな輝きを帯びていた。子は一郎の顔を丁寧に舐め、涙を拭うように――
一郎の手に握られていたのは、発煙筒だった。キャンプ用品のひとつ。クラッカーなどではない。
一郎は震える手で紐を引いた。赤い煙が、朝の空に大きく広がった。血の色のように、鮮烈に。
意識が遠のく中、彼は悟った。あのハクビシンは、ただの獣ではなかったのかもしれない。
あるいは、命の恩返しという、彼女たちの掟があったのかもしれない。
一郎だけが助かった。
妻と娘は、あの世へ旅立った。それでも、彼は生きている。赤い煙の下で、静かに泣きながら、一郎は空に向かって手を伸ばした。
もう二度と届かない、二つの小さな手を求めて。
風が、かすかにクラッカーのような音を運んできた気がした。
遠く、霞ヶ浦の湖面が、朝陽を受けて静かに輝いていた。まるで、二人が微笑んでいるかのように。
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