第3話
それは、大人から見ればあまりに些細な出来事だった。
退院祝いにと、母さんに連れられて行った近所の定食屋。
私は大好きな「親子丼」を頼んだ。
しばらくして、一人のサラリーマン風の男性がカウンターに座り、注文を告げる。
「すみません、親子丼を一つ」
「ごめんねお兄さん。今出たので最後。売り切れちゃったわ」
「……あ、そう。じゃあ別のを……」
男の人の肩が、ほんの少しだけ落胆に揺れた。
その瞬間、胸に鋭い痛みが走った。
違う。
本来の未来なら、あのお兄さんは親子丼を食べられたはずなんだ。
私が、あのビルから落ちて死んでいれば。
私が、この場所にいなければ。
あのお兄さんの“ささやかな楽しみ”は奪われなかった。
「……う、うわぁぁぁん……っ!」
「ちょ、ちょっと絢ちゃん!? どうしたの、急に」
突然泣き出した私に、母さんが慌てて駆け寄る。
私はしゃくりあげながら、必死に言葉を絞り出した。
「私さえ……私さえいなかったら、あのお兄さん、親子丼食べられたのに……っ!」
母さんは一瞬きょとんとした後、困ったように、けれど優しく笑って頭を撫でた。
「絢ちゃんは本当に優しい子ね。でもね、お料理は美味しく食べるのが一番のマナーなの。
そんなに泣きながら食べたら、親子丼がかわいそうでしょ?
それに、そんな理由でお兄さんも責めたりしないわ。運が悪かっただけよ」
母さんの言葉は温かい。
けれど、その温かさが今の私には毒のように感じられた。
運が悪かったんじゃない。
私が、この世界の“運命の歯車”を狂わせているんだ。
視界の端に浮かぶウィンドウが、無慈悲に真実を告げる。
私が存在しない未来。
そこでは、みんなが“決められた幸せ”を享受している。
私一人が生きているだけで、誰かの親子丼が消え、誰かの恋が消え、
母さんの未来の再婚相手との縁さえも消えていく。
(私がここにいたら、お母さんは幸せになれない)
その確信は、鋭いナイフとなって心を切り裂いた。
せめて、大好きな人たちには、ウィンドウの中にある“いちばん綺麗な未来”を歩んでほしい。
そのためには、私がこの場所から消えるしかない。
――家を出よう。
決意は、冷たく静かに固まった。
ここじゃないどこかへ。
私のことを誰も知らない、隣の人の顔すら見ないという大都会・東京へ。
ここ(地元)にいたら、ちょっと寄り道しただけで
「茂さんが見てたよ」「まーちゃんから聞いたよ」と母さんの耳に届いてしまう。
狭い世界に、幽霊の居場所なんてない。
「……まずは、お金だ」
母さんに預けている“お年玉”をどうやって回収するか。
「何に使うの?」と聞かれたら、どう答えるべきか。
八歳の少女の小さな脳裏に、初めて“生きていくための策略”が芽生え始めていた。




