第1話
1999年7の月。
世界が“終わりの予言”に怯え、どこかでそれを期待していた夏の日。
小学二年生の絢は、父・吾郎に連れられ、
見知らぬビルの屋上に立っていた。
離婚した母・景子が絢を父に会わせなかった理由を、
幼いながらに理解していた。
父は浮気をし、養育費も払わず、
挙句の果てに浮気相手に貢いで捨てられた――救いようのない人間だった。
借金、病魔、孤独。
すべてを失った吾郎に残ったのは、
「自分を拒絶した世界への復讐」という歪んだ執着だけ。
「……ごめんな、絢。一緒に行こう」
震える声。 吾郎は絢を強く抱きしめ、
フェンスの向こう――アスファルトが広がる死の淵へと身を投げた。
視界が激しく上下する。 凄まじい風圧。
絢は恐怖にまぶたを閉じ、心臓が止まりそうな浮遊感に耐えた。
だが――
その時、まぶたの裏を焼くような“真紅”が弾けた。
「!」
目を開けると、世界は赤い光に満たされていた。
父の腕も、重力も、死の恐怖も、すべてが遠のいていく。
脳内に、地響きのような声が響いた。
『――我が名は、ノストラダムス。そなたにアンゴルモアの力を授けよう』
その声を合図に、落下速度が劇的に緩む。
羽毛のように、絢はゆっくりと地面へ降り立った。
「――っ、誰か! 救急車を!」
遠くで誰かが叫ぶ。
意識が遠のく中、絢の瞳には真っ赤に染まった夏の空が映っていた。
◇
「……あ」
目を覚ますと、そこは病院のベッドだった。
消毒液の匂い。白い天井。
傍らには看護師が立っている。
「気がついた? 気分はどうかな」
優しい声。
だが絢は固まった。
看護師の隣に、“半透明のウィンドウ”が浮かんでいたからだ。
それはゲームのステータス画面のようでありながら、もっと生々しい。
絢が“見たい”と念じた瞬間、濁流のように映像が流れ込んだ。
(……見える)
看護師の未来。過去。人生のすべて。
28歳で結婚し、30歳で出産。
退職し、88歳で家族に看取られて死ぬ未来。
過去に視点を移せば、幼い日の記憶まで再生される。
壊れたぬいぐるみを近所のお姉さんが直してくれた日。
その“魔法”に憧れ、看護師を志した原点。
他人の人生を土足で踏み荒らすような罪悪感。
だが、意志とは無関係に情報は“ログ”として絢の脳に刻まれていく。
「……お嬢ちゃん、大丈夫? 自分の名前、言えるかな?」
絢はウィンドウを消そうと念じ、小さな声で答えた。
「……こまつ、あや」
「住所は?」
「……○○町、○丁目……」
看護師は安心したように微笑んだ。
「よかった。お母さんとも連絡がついたわ。もうすぐ来るからね」
ウィンドウが消える。
代わりに、絢の視界の端に真っ赤な文字が浮かんだ。
【アンゴルモア・システム:正常起動。運命の観測を開始します】
1999年7月。
世界は終わらなかった。
けれど、小松絢という少女の日常は、確かに終わりを告げた。




