ep.33 光の行方
聖教会は大規模な粛清と改革を受け、腐敗した権力者たちは次々に失脚していった。
かつて権力の象徴だった大聖堂は、今や民衆のための祈りの場として、その役割を再定義されつつある。
元枢機卿のルメルが教皇代理として、若き出世頭であるアスランが枢機卿として、新しい教会を築き上げていた。
理央が前世の知識を駆使して作り上げた会計制度と人事制度は、教会の運営を透明化し、不正の温床を根絶。
そして、聖女としての理央の活動は、王家や教会という旧来の権力に縛られることなく、困窮する民衆を直接助けることに焦点を当てていた。
理央は、肩書を最大限に利用して、資金を集め、物資を調達し、孤児院や養護院を建て、貧しい人々に医療を施した。彼女の活動は民衆の間に深く浸透し、彼女は真の意味で、民に寄り添う存在となっていた。しかし、聖女としての仕事は忙しい。前世のデスクワークから解放されたと喜んでいたはずなのに、今世もまた書類の山に埋もれ、日々頭を抱えることになった。
「ねえ、ジーク。これ、全部私がやるの?」
聖務庁の長官室のすぐ隣に設えられている、彼女の執務室。
木製の大きな机の上には、未処理の書類が小山を築いている。理央がそうぼやくと、長官となったジークの父、オベールリヒト公爵が、扉にもたれかかりながら優雅に微笑んだ。
「もちろんです、聖務顧問官殿。あなたの仕事ですよ」
「父上、彼女をからかうのはやめてください」
書類に目を通していたジークが、真顔で釘を刺す。理央は椅子から立ち上がり、ジークに泣きつき、机から身を乗り出した。
「ジーク! 私の仕事、手伝ってよ! これ全部終わらないと、お昼食べられない! 痩せちゃう!」
「……そういう契約ではない」
「私の胃袋は、もうとっくに限界なの! この前レオたちが食べてた屋台のキッシュ食べたい~養護院の手作りクッキーも食べたい~」
子供のように駄々をこねる理央の言葉に、ジークは深い溜息をつき、理央の頭をぽんと叩いた。その仕草は、もはや長年の付き合いで身についた習慣のようだった。
「いいから、座れ。今日はお前の好物を用意してある」
ジークの言葉に、理央の顔がぱっと明るくなる。
「やった! 大好き!」
彼女の無邪気な言葉に、ジークは少し照れたように顔を逸らす。
「お前の『好き』は、軽いな……」
ぼそりと呟くジークに、理央は聞こえないふりをして、机に戻った。
そんな二人を、公爵はにこやかに見守っていた。静かな、しかし温かい昼の時間が過ぎていく。
午後、理央とジークは連れ立って、北区にある養護院を訪れていた。そこは、かつて理央がこっそりと奇跡を届けた場所だ。子供たちは理央の姿を見ると、歓声を上げて駆け寄ってくる。
「リオお姉ちゃん!」
「わー! また来てくれた!」
理央は子供たちに囲まれ、その頭を優しく撫で、笑顔を向ける。彼女の周囲には、いつも仄かな光の粒子が輝いていた。それは、もはや神の奇跡ではなく、彼女自身の温かさの具現化のようだった。
「聖女さま、もう聖務顧問官さま、ですね」
養護院の院長に新しく就任した、理央の部屋付き筆頭侍女だったエイラが、理央に話しかける。
「聖女でも顧問官でも、どっちでもいいです。子供たちには、リオお姉ちゃんでいいって言ってるんです」
理央はそう言って、子供たちと一緒に笑う。その隣で、ジークはただ静かに、彼女の姿を見守っていた。彼の瞳には、もはや使命感だけではない、感情が満ちていた。
子どもたちの笑い声が絶えない。カナンが新しい刺繍を教え、アスランが低すぎる声の祈祷で子供を泣かせ、レオは「遊ぼうぜ!」と追いかけ回されている。
「まったく、にぎやかだな」
ジークがため息をつくと、理央はセイラとともにクッキー生地を練りながら、軽い口調で言う。
「いいじゃない、平和ってことよ」
「……もう大丈夫そうだな」
ジークがぽつりと漏らす。その言葉は、まるで彼女自身に問いかけるようだった。
「なにが?」
理央は手を止めて、彼を見上げる。
「お前だ」
ジークの視線は、理央の目から離れない。その真剣な眼差しに、理央はドキリとした。
「そうね! 聖女の仕事もそれなりに楽しいけど、誰かさんが共犯者でいてくれるならもっと楽しいかな」
理央は一気に言葉を吐き出すと、慌てて顔をそむけ、ツンと顎をあげる。けれど、その頬はほんのり赤く染まり、養護院の喧騒にかき消された。
「謹んで」
ジークの甘く低い声が、理央の耳に届く。
横から伸びた指先が、理央の顎を捉え、彼の視線が真っ直ぐに彼女の目を見つめる。氷蒼の瞳の中に、驚愕と羞恥が綯い交ぜになって訳の分からない表情をしている自分が見える。
「つつしんで……?」
理央が尋ねる。ジークは何も言わず、ただ理央をじっと見つめている。そして、彼の顔がゆっくりと理央に近づいてくる。理央は息をのんだ。
「どうしようか」
ジークの囁きに、理央は身体を固くする。
「ッ、い、意地悪! 知らないもう!」
理央はクッキー生地を練る手を振りほどき、叫びながら立ち上がった。一歩踏み出した彼女の隣に、含み笑いを噛み殺している彼女の護衛騎士が、いつものように並ぶ。
フォリフォンヌ王国の年代記には、聖女リオ・アリミヌエの名が一度は記され、やがて静かに抹消された。だが混乱の時代、ひとりの少女が現れ、確かに希望の光を灯したという話だけは、街角の噂や子守唄の中に残る。
そうして記録は沈み、物語だけが人の記憶に留まり、歴史は深い沈黙の底へと身を委ねた。
最後までお付き合いありがとうございました。
そのうち番外編や小話を載せたいと思います。




