ep.23 聖女の籠、騎士の檻
理央が幽閉されている塔の朝は、あいかわらず静かだった。
鳥の声すら届かず、ここだけ時間の流れが止まったように感じられる。だが、その静寂を突き破るような声が、階下まで響き渡った。
「もう我慢の限界! 動けない、書物ばっかり! 私は石像じゃないのよ。外に出たいいいいい!」
重い扉が勢いよく開けられ、理央が顔を覗かせる。髪は少し乱れ、その瞳には切実さが宿っていた。
「おはようございます、聖女様」
階段下では、アスランが籠を抱えて立っていた。朝露を含んだ野草と、焼きたてのパンの香りがふわりと漂う。中にはいつもの朝食と、今日は気を利かせたのか、甘い菓子パンが多めに並んでいる。
「おはよう。でも今朝はそれどころじゃないわ」
理央は拳を握りしめ、強い意志を込めて宣言する。
「私、決めたの。今日こそ、この塔から脱出する」
その言葉にアスランは一瞬きょとんとしたが、やがて柔らかく微笑んだ。
「では、僕が荷物持ちになりましょうか」
「え、いいの?」
「もちろん、脱出先が書庫でなければ、ですけど」
「……それは逃亡じゃなくて、ただの引きこもり強化よ!」
軽口の応酬に、理央の頬も少しゆるむ。だが、その空気を断ち切るように、階段を上がる重い足音が響いた。
「……元気そうで何よりだな、聖女殿」
現れたのはジークだった。いつも通りの冷たい顔――だが、口元がかすかに緩んで見えるのは気のせいだろうか。
「監視って言うなら、もう少し丁寧にしてくれない。なんで待機室に籠ってるの。聖女の部屋はこっちなんですけど」
理央は重たい扉を親指で示す。
「叫び声が外まで響いたぞ。それに……よく開けられたな、その扉」
「暇すぎて鍛えてるのよ。分厚い辞書を重り代わりに。……で、わざわざ何しに来たの?」
ジークは薄く笑みを刻む。
「奇声の発生源を確かめに来ただけだ。監視役として当然だろう? まさか、わかりやすく反乱計画が進んでいたとは」
「ほんっとに! あなたって一言多い!」
理央は頬をふくらませ、子どものように抗議する。だが、ジークはあっさりと背を向けた。
「せいぜい筋肉でも鍛えながら、計画を練るんだな。塔の外は、まだお預けだ」
「いつか絶対、あんたより出世してやるから!」
背中に飛んでくる理央の捨て台詞に、ジークは声を出さず小さく笑う。――彼女は、まだ諦めることを知らない。
アスランは二人を見比べ、目を細めて呟いた。
「……こういうの、微笑ましいって言うんですよね?」
「違うの、これは完全に対立構造!」
ぷいと顔をそむけた理央の頬は、わずかに赤みを帯びていた。
★
幽閉塔の夜は、昼間とはまるで違う場所になる。灯火が消えたあとの静けさは、むしろ音を吸い寄せるようで――理央はベッドの上で膝を抱え、ひとりごとを繰り返していた。
「……なんなの、あの人。いつも偉そうで、でも……」
言葉がそこで途切れる。頬が熱くなるのを、彼女自身がもてあましていた。ごろごろと寝返りを打ち、ようやく諦めて深呼吸する。
その時――胸の奥がふっと温かくなった。
小さな火が灯るように、心臓の奥に光が差し込む。直後、塔の空気がわずかに揺れた。風はない。だが、確かに空間が震えている。理央は恐る恐る立ち上がり、手を差し出す。すると、その掌に淡く透き通る光の粒がひとつ、ぽつりと浮かんでいた。
「……これ、私が?」
指先でそっと触れると、光はふわりと広がり、ゆっくりと天井へと昇っていく。小さな灯火の群れとなって、塔全体を照らしていく。次の瞬間――塔の中に、薄い光の幕が広がった。眩しさはない。ただ、祈りのような静謐さが空気を満たす。まるで塔そのものが、神殿へと変わったかのように。
「……神秘ってやつ?」
小さく漏らした声はすぐに光に溶け、消えていった。祝福か、それとも警告か――判別はできない。視線を落とすと、足元の祈祷記録がぱらりとめくれていた。そこには古い筆致で、ひときわ強調された一文。
『器が祈りに染まりし時、神の光は目覚め、主の声を携えん』
「神の光、ね……。でも、私がそんな立派な聖女なわけ……」
否定するように笑ったが、その声は震えていた。
光はやがて収まり、塔は再び静寂を取り戻す。
理央はまだ知らなかった。自分の中に眠る何かが、いま小さく目を覚ましたことを。
そしてそれが、同時に試練を連れてくるということも――まだ、知らなかった。
★
その夜、ジークは貴族たちの社交場のひとつとなっている、一見すると街の酒場風の店でグラスを傾けていた。
琥珀色の酒が揺らめき、彼の冷たい瞳にわずかな光を映す。
「やあ、ジーク。珍しいな、お前が一人で飲むなんて」
背後から声をかけられたジークは、振り返ることなく答えた。
予想通り、彼の待ち人である同僚は、現れた。
同じ近衛騎士団に所属しているとはいえ、第二隊のジークと第一隊の彼とでは中々詰所内で顔を合わす機会が少ない。本日、彼の人物が非番である事を知り、網を張っていたのだ。
「たまにはな」
同期で、旧知の仲であるロイド・ムールブルク。
整った顔立ちに軽薄な笑みを浮かべ、ジークの向かいに腰を下ろす。
「しかし、聖女の護衛も楽じゃないだろう。噂は聞いているぞ。教会をかき回していると」
「噂は当てにならない」
「ほう? だが、俺が聞いた話では、聖女はまるで別人のようだというがな。以前は言葉も話さず、まるで人形だったと聞く。それが今では、教会の装飾にまで口を出すそうだ」
ロイドの口調は穏やかだが、その目はジークを値踏みするように探っていた。
「……お前の関知するところではない」
「俺はただ、心配しているだけだ。聖女というものは、聖教会にとって信仰の根幹を成す存在。それがもし、異物ならば排除されて然るべきとは思わないか」
ロイドは意味深な笑みを浮かべ、グラスをジークに差し出した。
ジークは無言でグラスを合わせる。その冷たい感触が、彼の内に燃える警戒心をさらに煽った。
「異物、か」
「判断を下すのは陛下と教皇だろう。だが、俺の個人的な見解を言うなら……」
ロイドの声が低くなる。
「まるで、誰かの魂が、リオ・アリミヌエの器に入り込んだように見える。故に異物だ」
ジークはグラスを傾け、一気に飲み干す。
彼の喉が上下する様子を、ロイドは楽しそうに眺めていた。
「……ま、たとえ物言う聖女になったとしても、俺の食指にはひっからないな、特にあの身体は貧相すぎる」
ロイドはグラスを置くと、不意に真面目な作り上げ顔に張り付けた。
「ジーク。お前は、王の犬か?」
ロイドの言葉はそこで途切れる。ジークはロイドから引き出したい言葉をほぼ引き出したと理解し、グラスを叩きつける様にテーブルに置いた。
「……相変わらず、堅物だな。だが、その頑固さが、いつかお前の身を滅ぼすぞ」
何も答えないジークに対し、そう言い残すと、ロイドは席を立った。
一人残され、静かにグラスを見つめる彼の頭の中には、理央が詩を口ずさんだときの姿が浮かんでいた。
もし、聖女が本当に奇跡を起こせる存在に変質したのだとしたら、王政と教会双方にとって脅威となる。
だが、同時に、この歪んだ体制を救う唯一の希望となる可能性も秘めている。
「俺の信じるもの……か」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、夜の闇に吸い込まれていった。




