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ep.18 惟神の祈りの上

「だいたいさ、聖女ってのは教会引きこもりが通常仕様じゃないの?」


 理央の言葉に、部屋付き侍女の最年少であるカナンが困ったように眉を下げる。


 自分はただ、上級神官からの事付けを言い伝えてきただけで、書類に記されている内容はわからない。 文字の並びはわかるのだが、彼女の識字理解度は、この教会に来る以前に比べて少し成長した程度だ。

 自分の名前のような簡単で短いものなら読めるが、だらだらと続く文章は、どうしても脳が理解することを拒み、ただのレース模様や刺繍の意匠にしか見えないのだ。


「わか、わかりません」


 以前の聖女は、こんなに饒舌ではなかった。むしろ、自分と同じ程度しか言葉を発さず、無言の時間が続くのが心地よかった。この数ヶ月で、カナンの知る聖女はまるで別人だ。それでも、以前の無口な聖女も、今、書類を睨みつけながらぶつぶつと何かを唱えている聖女も、カナンは嫌いではない。どちらの聖女も、カナンを蔑んだり、意地悪な言葉を吐きつけたりしない。


「まあ、そうよね。誰もわかんないと思う。聖女ってそもそも何? 信仰の象徴として扱うのは理解できるけど、それって聖女像みたいなのでも良くない? 聖キヨイの像も飾ってるんだし。なんか不思議な力使えたんでしょ」

「はい……そ、そう、教えられて、ます」

「あ、カナンのこと責めてるんじゃないからね? へーんなのって思っただけ。私別に力とかもないしさ」


「――リオ様。こちらです」


 衣装部屋に髪飾りを取りに行っていたエイラが、いつの間にか戻ってきて咳払いをする。


 相変わらず読めない表情で、鏡に向かって座っている理央の髪に手を入れた。会話が途切れてしまい、カナンはもじもじとつま先を動かす。鏡の中で、エイラによって髪を整えられている聖女の姿は、最初に出会ったときと同じ印象を受けた。印象的な配色で、物語に登場する妖精のように、美しい。


 聖女は、記憶をなくしたのだと言う。だから過去の出来事は朧げな輪郭でしか覚えていないのだと。高熱を出すほどつらい儀式に定期的に臨んでいた以前の聖女は、その日が近づくにつれて、だんだんと陰鬱な表情を浮かべるようになっていたが、決して「嫌だ」とは言わなかった。身分の違うカナンとは釣り合わないほど、弱音を吐かない聖女の強さに、カナンは憧れを抱いていた。


 儀式とは強さを得る儀式だったのだろうか。相変わらず不便な生活を強いられているにもかかわらず、今の聖女もまた、決して弱音を吐かない。折れそうで華奢な身体の中に、いったいどれほどの強さを蓄えているのだろう。自分も儀式に臨めば、聖女のように強い存在となれるのだろうか。鏡越しに聖女と視線が合うと、理央はカナンに優しい笑みを見せ、それから手元の書類を睨みつけた。


「万が一、信仰詩を忘れてしまっても、私が几帳の裏に控えております」

「ふうん、カンペってやつね。たいして長くないし、覚えられるでしょ。旋律にあわせるならなおのこと」


 理央が、信仰詩の最初のフレーズを口ずさむ。


「あれ、私、歌声大きい? 腹式呼吸じゃない方がいいのかな」

 無表情を貫いてきたエイラが、珍しく目を大きく見開いている。

「いえ……お美しい歌声かと存じます」

 ややかすれたような言葉には、どこか郷愁の響きが宿っていた。


 その日の夜。

 収穫祭の歌と舞の練習のため、理央は礼拝堂に一人で立っていた。

 夜の闇に沈むステンドグラスが、仄かな月光を宿している。


「おい。こんなところでサボっているのか」


 振り返ると、そこにいたのはジークだった。随分と気軽にかけられた言葉に、一瞬だけどきりとするも、理央はそれを顔に出さないよう極力務める。

 銀髪の美麗な人は、礼拝堂の入り口に寄りかかり、腕を組んでいる。


「誰がサボってるって? ちゃんと自主練習してますー」


 理央は皮肉げに言い返しながら、もう一度信仰詩を口ずさむ。


「……まあまあだな」

「はぁ? どの口が言うのでしょうか。ならジークが歌ってみてよ」

「聖女が歌う信仰詩とは、ただの歌ではない。神に捧げる祈りそのものだ。まるで調律の狂った楽器のようだ」

「ひどい言い方! こっちは必死でやってるのに」


 ジークは静かに理央に近づき、無言で彼女の背後に立つ。


「胸を開け。腹に力を入れろ。そう、もっとだ。上体を反らすな」


 理央は戸惑いながらも、彼の指示通りに体勢を整える。


「……何よ、急に。ていうか、こんなことまでできるんだ」

「俺は任務として、この国の文化、歴史、儀式すべてを頭に叩き込んでいる。聖女の所作も例外ではない」


 彼の言葉は辛辣だが、その声には一切の迷いがない。

 背後から聞こえる低い声に、理央の心臓が奇妙な鼓動を刻む。


「変な感じ。誰かに教えてもらうの、久しぶり」

「教わる必要などなかった、と?」

「ほんとあんたって、どうしていつもそう、いちいちトゲある言い方するの」


 理央はムッとして振り向こうとするが、ジークの腕が理央の腰にそっと回され、動きを制される。


「……動くな。崩れる」


 至近距離で、ジークの整った顔が理央を見下ろす。

 その瞳には、夜の帳のような深い色が宿っていた。


「こう……?」


 理央は、無意識に彼のほうへ体を預ける。


「ああ。それでいい」


 ジークの声が、普段よりわずかに優しい響きを帯びる。

 その一瞬の静寂が、二人の間に特別な空気を生み出した。


◇◇◇


 絹のような静寂が、広場を満たす。

 聖女リオ・アリミヌエは、白銀の礼装に身を包み、中央の円壇に立っていた。

 冷たい石の床が、薄い靴底から足裏に沁みる。理央は忌々しそうにその感触に眉根を寄せた。

 しかし、ここで我を貫くのは、逆に恰好悪い事であろうと理解している。何故ならば、今この瞬間、何万という人々の視線が、彼女の一挙手一投足に集中しているからだ。


 ――怖くはなかった。

 自分がこういう見られる場に立つのは、初めてではない。

 社内プレゼン、社外交渉、パワハラ上司との地獄の週報会議。あの戦場で培われた胆力は、舞台装置のように整えられたこの儀式の空気さえも、むしろ落ち着いたものに思わせる。


 理央はひとつ息を吸い、静かに瞳を閉じた。

 神官たちが詠唱を始める。

 広場の四方に設置された水晶状の拡声装置が、その神聖な響きを遠くまで届けていく。


 そこに、理央の声が重なった。

 澄んだメゾソプラノ。


 聖女リオ・アリミヌエとして、信仰詩の旋律を奏でる。

 前世で歌に自信があったわけではないが、この肉体の発声はまるで違っていた。音が音として響くよりも前に、魂が共鳴するような感覚があった。ジークと行った毎晩の練習の成果もあるかもしれない。


 両の腕がゆっくりと舞い上がる。

 手のひらを天に向け、花を捧げるような仕草で、古来より伝わる所作をゆるゆると再現する。

 ――祈りとは、本来こういうものだったのかもしれない。

 お願いではなく、想うこと。 


 その時だった。

 広場に、ひとつ、ふたつ、やわらかな光が生まれた。

 最初は錯覚かと思った者も多い。

 空気中の埃に夕日が反射しただけのようにも見えた。

 けれど、確かにそれは、光の粒子だった。


 理央の身体からふわりと舞い上がったそれは、揺らぎながら空中を漂い、次々に数を増やしていく。やがて光は無数の火の粉のようになり、彼女の周囲を満たした。温かな、やわらかな、神秘的な光だった。


 群衆のざわめきが、波紋のように広がっていく。


「光が……聖女様から……」

「奇跡……?」


 誰かが言ったその言葉が、導火線だった。

 どよめきは一気に熱を帯び、讃美と歓喜の渦へと転じていった。


 石の壇上で歌い続ける理央には、その声が遠くに聞こえた。世界がゆっくりと遠のいていくような、あるいは身体と魂の結びつきが一瞬だけほどけたような――。


 だが、意識ははっきりとしていた。

 彼女は、確かに今ここで、自分が何かを起こしていると理解していた。

 これは奇跡なのか、それとも。


 そして、円壇の縁で見守っていた男――ジーク・オベールレヒトもまた、その光景を目にしていた。

 銀髪を揺らす風のなかで、彼は剣に手をかけるでもなく、ただその姿を見上げていた。


 その瞳に既に、疑念の影は無い。

 それは、目の前の存在が何者なのかを、深く、正しく見定めようとする――真剣な眼差しだった。


 ジークの手のひらが、そっと胸元の護符を握りこむ。

 近衛騎士の中でも限られた――王の勅命を遂行する者にしか渡されない証であり、真実を知る者にしか重みをもたないものだった。


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