ep.16 護衛役と監視役
理央は深々と溜息を吐いていた。
山積みの書類の横には、彼女が提出した報告書の束が無残にも突き返されて置かれている。どれもこれも、隅々まで目を通した形跡すら見当たらない。
「……ここまで露骨だと、もはや清々しいくらいだわ」
これまで、あらゆる職場での理不尽を経験してきた彼女だが、ここまであからさまな妨害工作は、前世でも経験がなかった。
「今日だけで八件。っていうか、ほぼ全部未着。しかも中には、私が直接手渡しした物まで。わざわざ足を運んで、上級神官たちの目の前で渡したはずなのに『受け取っていない』の一点張り。腹立つ」
理央は、指を一本ずつ折りながら数え上げた。
彼女の言葉には、怒りよりも呆れが勝っている。
隣の机で資料を整理していたアスランがすっと立ち上がり「僕、もう一度行ってきます」と書類を抱えるのを、理央は制する。
「待って、これは戦略的な撤退って言い聞かせてるから」
「しかし、あんまりな応対です」
理央は、首を横に振りながらアスランを宥めた。
今はまだ、その時では無いのだ。
下級神官や中級神官、教会侍女の一部の不満は、埋火のようにくすぶり続けている。
だが、今この時をもって、それを大火にするわけにはいかない。
なぜなら、理央一人がやりたい放題をしているだけならば、処断するのは聖女だけでよいが、さながら革命のように彼ら自身が立ち上がると、事態は急激に悪化し混乱をきたす。諸悪の根源は断ちたいが、ここを居場所としている者達の足元を崩壊させたい訳ではない。
「聖女殿の冷静さには、感服する」
それまで、ずっと黙っていたジークが顔をあげて理央を見つめた。
どこか優しい色を帯びている。
理央は、彼の言葉に少しだけ慰められたものの、心の中の不安は消えなかった。
そしてまるで告解するかのように言葉をつづける。これはあの少女――リオの祈祷記録を目にしてしまったからなのかもしれない。
「……正直言うと、少し、怖いのよ。この先どうなるのか、全く見えないのが。一般論で言うけど……結果を出せば評価されたりするでしょう。でも、此処では……私の努力が、何の報いもなく終わってしまうんじゃないかって、不安で仕方がないの」
普段隠している本心を吐露してしまったものの後悔に揺れている。
「……そうだな。力を持つ者だけが、その力を行使する場所だ」
ジークは、静かに答えた。その言葉には、否定するのではなく、受け止めるような響きがあった。
「だから……ふとした瞬間に考えちゃうの。もう、終わりにしたいって、どういう気持ちで言ったんだろう……」
思わず零れ落ちた言葉に、理央は慌てて口元を抑える。
理央の言葉を理解したのかしていないのか、ジークの表情から感情を読み取ることは難しい。
◇◇◇
教会の裏庭に、淡い風が吹き抜けた。
初秋の柔らかな風が、歴史を感じさせる古い石畳を撫でていく。
理央は小さなスコップを手に、花壇に腰をかがめていた。
「……で、それが聖女の勤めだと?」
背後からジークの皮肉交じりの声が飛んでくる。
理央は構わず、黙々と土を均していた。
「だって今まで完全に放置されてたの、この花壇。春に咲く花は秋に種を埋めてあげないと」
「まさか、花の世話で裁可を得ようとしているのではないだろうな?」
「あの人たちが、そんなもんで動くわけないでしょ。ちょっとした気晴らしです」
ジークは少しだけ表情を動かした。
返す言葉が見当たらなかったのだろう。
それでも彼は、律儀にその場を離れなかった。むしろ、誰よりも長く理央の傍にいるのは、いつもこの男だった。
土の香りの中、理央がふと問いかけた。
「ねえ。ジークって、教会と王政が何を睨み合ってるのか、ある程度把握してるって認識で良い?」
「質問の意図は」
理央は、わずかに間を置いた後、ぽつりと言った。
「陛下のご厚意で護衛の任に付かれている騎士さんに、率直に問うわ……聖女って、現王家にとっては不要な存在でしょ」
ジークの目が、鋭く理央を射抜く。
「私、残念ながら、勘がいいの。王家は、きっと記録を消したい。だから教会側が何をしているのか本当は知っていて、見逃している。聖なる裁きで聖女の処刑執行以降は、また権力図が王制側に傾くのかな。向こうの狸って誰なんだろう」
理央は自嘲するように笑って、スコップを土に突き立てた。
「でも、だからってこのまま黙って殺される気はないの。私は今を生きてるんだから」
「……そういうところが、実に厄介だ」
「お褒めに預かり光栄」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
そのとき、控えめに走ってくる足音が響く。
「失礼します、聖女様……ご覧いただきたい書類が」
親聖女派となった若手の神官が、小さな帳簿を差し出した。
理央が受け取ろうとすると、その表紙の端に小さなメモが挟まれているのに気づく。
その紙片には、一言だけ。
『彼は、貴女に関心を抱いています。忠誠か、あるいは別の感情か。ご注意を』
理央は眉をひそめ、紙片を静かに握りつぶした。
「……」
「何かあったか?」
「ただの伝達ミス。些細な事」
あえてそう言って、ジークから視線を逸らした。
今この場で、彼を問い詰めることに意味はない。