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ep.15 過去の記憶 ~リオの祈祷記録

 その日、理央はひとりで旧修道院棟の書庫を探索していた。

 正確に言うと、ジークは先ほどまでいたのだが、エイラから何かを知らせを受け、席を外した。

 その隙に理央は大聖堂からこっそり抜け出したのだ。


 今では使われていないその部屋には、かつての聖職者たちが残した文書や備品が埃まみれのまま放置されている。崩れ落ちた石壁の隙間から差し込む光は埃の舞いを際立たせ、時間の流れを鈍らせているようだった。


「このへんの整理も、いつかやらなきゃと思ってたのよね……誰もやりたがらないし。なんか色々捨ててあるけど。処分するものに困ったゴミ捨て場ってとこかな」


 誰に言うでもなくつぶやきながら、理央は古い帳簿や日誌を拾上げては積み直していく。その指先が触れるたびに、古紙特有の匂いがふわりと舞った。ふと、棚の奥から一冊の手帳のような薄い冊子が、床にぽとりと落ちた。その音は、書庫の静寂に吸い込まれるように小さかった。


「……なに、これ?」


 装丁は簡素で、使い込まれた表紙には手書きでこう記されていた。


 ――祈祷記録 リオ――


 理央の手が止まった。

 そのシンプルなタイトルが、なぜか胸の奥をざわつかせた。理央はそっと、その冊子を開く。中には、日付と短い日記のような祈りの言葉が綴られていた。

 慎重にページをめくるたびに、かつて在ったであろう少女の息遣いが伝わってくるようだった。


『かえりたい』

『今日はちゃんと笑えた。神様、これで私も、少しは聖女に近づけたでしょうか』

『経文を間違えて笑われた。どうしてもむずかしい言い回しがあるからもっともっと練習しないと』

『かえりたい』

『ときどき、私の話を聞いてくれる。だから、もう少し頑張れる気がする』

『苦しいときは、空を見上げるといい。教えてくれた言葉』


『――――私、本当はもう、終わりにしてほしい』


 理央は言葉を失った。この文章から感じる誰かの息遣いは、あまりにも明確で、まるで目の前にその少女がいるかのようだった。行間に込められた純粋な願いやささやかな喜び、そして深い懊悩が、理央の心を締め付ける。


「聖女リオ・アリミヌエ……リオ」


 手帳を抱えたまま、理央はそっと目を閉じた。

 何の記憶もない。

 この記録を密かにしたためていた少女……としての記憶は一片たりとも浮かばないのに、胸の奥が不思議とざわついた。

 これは誰かの人生だ。自分ではない、全く別の誰かの生きた証。


 自分が、誰かの代わりに立っていること。誰かの姿と名を背負って、役割を演じていること。それが、現実としてそこにあった。それは、まるで霧が晴れるように、理央が立つ場所の足元が朧げになる感覚だった。


「……私は、原田理央。日本人で二十九歳」


 ぽつりと落とした言葉が、書庫の静寂に吸い込まれていく。そのとき、不意に背後で何かが軋んだ。手帳を隠すように抱え、振り返ると、古びた本棚の影からアスランが現れた。いつからそこにいたのだろう。彼の瞳は、理央の手元をじっと見つめていた。


「聖女様……」

「今の聞いていた?」


 理央の問いに、アスランはそっと頷いた。

 その表情には、普段の軽薄さはなく、真剣な眼差しが宿っていた。


「何も、言わないで」

「……はい。ですが、僕は今の聖女様である貴女の味方でいたいと思っています」


 その真っ直ぐな眼差しに、理央は一瞬だけ言葉を失い、それから静かに笑った。

 乾いた笑いではなかった。そこには、わずかながらも安堵の色が見えた。


「じゃあ、頼りにさせてもらうわ。味方として」

「任せてください。親聖女派ですからね」

「何そのセンス無いネーミング」

「セイラ殿の発案ですよ」


 アスランの言葉に、理央は肩の力を抜いて吹き出した。

 先ほどまでの重苦しい空気が、少しだけ和らぐ。

 記録の中のリオ・アリミヌエと、今の理央を繋ぐ糸は曖昧でぼやけている。だが、その糸の存在を、感じ始めていた。


◇◇◇


 かつてフォリフォンヌ王国首都リシャールに在るアリミヌエ聖教会総本山へ送り込まれたリオという少女に、家名は無かった。


 ただのリオ。

 王国の辺境に在る教会に身を寄せていた、痩せぎすの少女だ。

 母はリオを産んだ後、産後の肥立ちが悪く、亡くなったと聞いていた。

 とても美しい人だったと、母を知る老神官が良く言っていた。


 だがしかし、リオには母の顔が思い出せない。そして母について語ってくれた老神官も今は冷たい土の中で永久の眠りについている。


 自分によく似ているというのなら、湖水のように深い蒼の瞳をしていたのだと思う。

 池の中に映る自分の風貌は、確かに色合いこそは美しく見えるが、波紋で乱され、美しいとは思えなかった。水の中を泳ぐ、赤色をした魚の方が、ずっと美しく見えた。魚が自由に泳ぐ姿を見るたびに、自分もあんなふうに、どこか遠くまで行けたらと思うのだった。


 その日は、王都から尊い方が来ると教会の神官長が言っていた。

 村へのおつかいの帰り道、ぬかるんだ道に足を取られ、リオの手から滑り落ちたお供え用の果実が転がってゆく。


 せっかく持ち帰ろうとしたリンゴが、泥にまみれてしまう。そしてこの辺りでは見たことの無い、立派な二頭立ての馬車が、止まることも無く、果実をぐしゃぐしゃに潰して去っていった。蹄の音が遠ざかるのを見送りながら、リオはただ呆然と立ち尽くした。


 半泣きで帰ったリオは案の定、折檻され、裏庭にある井戸の横で、頭から水を掛けられていた。冷たい水が、体中の熱を奪っていく。飢えと寒さと痛みで、感情が消えていく。ただ、この苦しみが早く終わることだけを願った。


 しばらくして慌てた様子の神官長が、リオを折檻した神官の一人を叱責し、その場からリオを助け出し白い聖衣に着替えさせた。もつれていた髪を香油でなんとか撫で付け、聖堂へと連れていかれる。足元がおぼつかないまま、リオは引きずられるように進んだ。


 祈祷台の前に有る長椅子に、青年が足を組んで座っている。それを囲むようにたくさんの騎士たち。彼らの視線が、リオに突き刺さる。


「貧相」


 立派な体躯をした青年は、連れられてきたリオを上から下まで眺めた後、吐き捨てるように口にした。その声には、一切の慈悲が感じられなかった。


「だが、色合いは皮肉なことに完璧だな。名は」

「――――で……す……」

「聞こえぬ。その口は何のためについているのか」

「リ……リオ、です」

「お世継ぎ生誕の余興にしては、父上も随分と悪趣味だが――お前の身柄を王都へ移送する。喜べ。お前は、当代『聖女』に選ばれた」


 ムールブルク侯爵家嫡男。

 近衛騎士団に所属するロイド・ムールブルクは、心底嫌そうな顔をしてそう告げた。その言葉は、リオには全く理解できなかった。


 ただ、王都へ移送。という言葉だけが、凍てついた心に小さな漣を立てた。

 それが、希望なのか絶望なのか、十歳になるかそこらのリオにはまだ分からなかった。

 

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