ep.13 懐疑心
その日、ジークは聖堂の裏庭で、一通の報告書を受け取った。
報告書を聖女の監視役に渡したのは、リオ・アリミヌエ付き侍女のエイラである。
火の気のない目でそれを読み終えた彼は、ゆっくりとまぶたを伏せた。
ついに来たか、と静かに息を吐く。 しかし、その内容はジーク自身が薄々感じ取り、観察し、そして確信へと近づきつつあったもの。
「今の聖女様は、かつてのリオ様ではありません。かつてのリオ様の記憶が無いのです」
エイラは聖女付き筆頭侍女である。
彼女がこの教会へ幽閉さながら、寄越された時から、彼女の元に居た。
家名も与えられなかった幼い少女。白磁の頬に秀でた額。緩やかに波打つ髪は絹糸の様。
期待と怯えの浮かんでいた碧い瞳に諦観が宿るのは、聖女の間に押し込められてからほどなくしての事だった。
フォリフォンヌ王国の成人の儀は十八の歳である。
少女がこの教会へとやってきたのは、十になる少し前だった。
エイラは現王からの密命によって、七年近くも、側仕えをしていたのだ。
この変質が、魂の入れ替わりなのか、精神の変容なのか。 真相を明かすには、まだ材料が足りない。
だが、今、聖女の名を名乗る女の目に宿る意志の光は、以前のお人形の少女には無かったものだ。
そして。
同じくその変化を肌で感じ取っていた者は、既に少なくない。
「……また早朝からですか、聖女様」
アスランが半ば呆れたように肩をすくめた。
礼拝堂横の倉庫で帳簿に向かい、熱心にペンを走らせる理央。
その姿はもはや飾り物ではなく、現場監督そのものだった。
「昨日の棚卸し分をまだ確認してなかったから」
「確認なんて下の者にやらせればいいでしょう。聖女様の手を煩わせることでは──」
「私がやる方が早いし、文句も少ないの。やったことない人にやらせて二度手間になる方が面倒」
さらりと返す言葉に、どこか実務職の風格すら漂っていた。
以前の彼女はどのように生活をしていたのか──そんなことを、ふとアスランは思う。
祈祷の間でたどたどしく経典を読み上げていた姿を何度も見かけた。
だがしかし、今そこにあるのは、確かな意志と自我。
そして、それを最も鋭敏に感じ取っている男が、理央の背後にいた。
「……聖女殿ついて、そろそろ報告書に纏めねばならんな」
低く、しかしよく通る声。
理央は面倒くさそうに振り返って、ジークの姿を認めると苦虫を嚙みつぶしたような顔をする。
「他にする事ないの?」
「任務なのでな」
「報告って、何を? 『聖女リオ・アリミヌエ、最近やたらに仕事ができる』とか?」
「あるいは『以前とは別人格の可能性』……だな」
理央の表情が固まる。
ジークの瞳が射抜くように彼女を見つめていた。
「……変なこと言うのね。私は、リオ・アリミヌエだって言ったでしょう」
「違うな」
ジークはゆっくりと歩み寄り、帳簿を覗き込んだ。
「声の出し方。言葉の選び方。目の動き。仕草。それらすべてが……俺の知るリオ・アリミヌエとは異なる」
理央はしばらく沈黙し、やがて薄く笑った。
「……それで? もし私がリオ・アリミヌエじゃなくて、違う人間だったとしたら、どうするつもり?」
「確認しているだけだ。護衛として、異常の兆候を見逃さぬ義務がある」
「見逃さないなら、どうするの? やっぱり、斬首? 毒殺? それとも、深夜にこっそりと絞殺?」
淡々と冗談めかす理央に、ジークは薄く笑う。
「そういうところも変わったな。以前の聖女殿は、冗談すら口にしなかった」
「そっちが無口すぎて、会話が成立しなかっただけじゃない?」
鋭く返す理央の目には、わずかに緊張が宿っていた。
だが、それは怯えではない。突き刺すような警戒心。
ジークは、その視線を正面から受け止め、静かに口を開く。
「だが……悪くはない」
「え?」
「意志がある。愚かではあるが、筋が通っている」
その言葉に、理央のまなじりがわずかに揺れた。
「つまり、面倒だけど無視はできないってこと?」
「そうだ」
「じゃあ、今の私は、貴方にとって何?」
ジークの表情が、ほんの一瞬だけ、動いた。
「面倒な対象ほど、目が離せん」
不意に、ジークがそんな言葉を口にした。
「――えっと……それ、口説いてるの?」
「事実を述べただけだ」
理央が肩をすくめる。
「まったく。無愛想なくせに……」
妙なとこで甘い。という言葉はかろうじて飲み込んだ。
「ここからは独り言とする――やらんとしている事に、ある程度理解出来るつもりだ」
その言葉に、理央の目がわずかに見開かれた。
目の前の聖女は、確かに変わった。
だが、その変化は、決して悪ではないように思える。
――誰よりも、生きようと足掻いている。
彼の胸の奥で、冷たい氷のような忠誠心が、じわじわと形を変えつつあった。
それが忠義か、同情か、あるいは別の何かかは、まだ分からない。
けれど、それでも彼は、目の前の一人の女から目を離せなかった。
「あっそ、もう少しで帳簿の整合が取れるの。だから黙って見守ってて」
「承知した。必要なら手も貸そう」
「……じゃあ、そこの棚の書類。整理、よろしく」
無言で動き出すジークに、理央は小さく笑った。
そして少し遅れて── アスランのもとにも、密かに一通の文書が届けられる。
『現聖女に対する疑念。リオ・アリミヌエははたして、リオ・アリミヌエなのか』
その裏には、封蝋も印も何もない。
この密告文を、誰に渡すべきか。 それとも、捨て去るか。
アスランは、文を握ったまま、長く黙っていた。
そして物語は、次なる局面へと進む。
◇◇◇
「……ご覧ください」
アスランが低い声で文書を差し出すと、ジークは無言でそれを受け取った。
文面を一瞥し、彼はわずかに目を細める。
だが表情は、ほとんど動かなかった。
ジークは書面を畳み、懐にしまい込む。
「──出所は?」
「不明。文書は僕の祈祷机に置かれていました。鍵のかかった部屋の中に、です」
ジークは眉を寄せた。
それが意味するのは、内部者の存在だ。
「教会の内部に、真実を知りたい者が存在している。――我々以外にも」
遅れて付け足された、我々という言葉に、アスランは一瞬だけ瞠目した。
つまり、この監視役である近衛騎士は、自分やセイラ達に近しい考えを持っているという事なのだろうか。
「それでは、我々はこれから、どうすれば良いと思われますか?」
「茶番を演じる」
ジークははっきりと言った。
「奴らが聖女の正体に疑念を持っていると仮定して、先に、望む形の聖女、を見せつければいい。つまり──仮面を被ったまま踊らせる」
「……上級神官達の言うよう、静かに祈祷し、国家と民の安寧を祈らせるということですか?」
「いや……もっと異物らしくさせる」
「…………は?」
◇◇◇
「はァ!? なにそれ、意味わかんないんだけど!」
倉庫の隅で叫んだ理央の声が、今日も見事に響いた。
「神官の不信感を逸らすために、わざと変な聖女を演じろって? それ、もはや地雷踏みに行ってない?」
「もう、充分変な聖女だから心配するな」
「あんた喧嘩売ってんの!?」
「変とは、既存の秩序を壊す者だ。聖女殿は既に壊しかかっているだろう。なら、徹底的に壊すまで」
「なんでそっちのほうが清々しい顔してんのよ!」
理央は帳簿を叩きながら叫んだ。
だがジークは全く動じず、むしろ口の端に微笑を乗せる余裕すら見せた。
「教会が一番恐れているのは、聖女が意思を持つことだ。だから意思を持つリオ・アリミヌエを正面から提示してやれ。どんな言い訳も通じぬほどに、圧倒的に」
「……それで、私が異物だと本当に確信されたら?」
「そのときは──また考えればいい」
「行き当たりばったりすぎて……余計に怖いんだけど……」
理央は口を尖らせてつぶやいた。
だが、その顔にはわずかに笑みが浮かんでいた。
「……でも、まあいいか。ちょうどやりたいこともあったし」
「具体的には?」
「教会食堂のメニュー改革と、祭壇の金ピカ装飾の撤去」
「異物というより、反逆者だな」
「それ、褒めてる?」
「六割ほどは」
「絶妙な感じで、微妙!」